第8話 エピローグ
病室の灯りが、やわらかく輝いている中、おじいちゃんはベッドに横たわっていた。
彼の深い、均等な呼吸は、部屋の中に満ちている緊張感と対照的だった。
壁の時計の秒針の音が、静寂を刻んでいるかのように聞こえた。
お父さんは、おじいちゃんの手を取り、頼むように声をかける。
「おとうさん。少しだけでもいいから、返事をしてくれ」
お母さんは彼の顔を、じっと見つめながら、懐かしい家族の話を繰り広げていた。
しかし、おじいちゃんの瞼は微動だにしなかった。
翔太は、病室の隅で物憂げに窓の外を見つめていたが、時折、おじいちゃんの方に視線を移して、小さな声で何かを語りかけた。
結衣は、しばらく沈黙を保っていたが、突然に彼女の目が輝き、何かを思いついたようだった。
彼女は、鞄を開け、そこからエンディングノートを取り出した。
部屋の空気が、一変する。
それぞれの表情に期待と驚きが浮かんだ。
「おじいちゃん」
結衣の声は柔らかく、しかし確かに響いていた。
「エンディングノートには、どんなことを書いたの?」
その言葉に、おじいちゃんの唇が、ゆっくりと動き始めた。
まるで、何かを伝えたいという強い意志が、彼の中から湧き上がってきたかのようだった。
全員の目が、その小さな動きに釘付けになった。緊張が、部屋を包み込んだ。
結衣は、ゆっくりとノートの表紙をめくろうとした。
「おじいちゃん。エンディングノート、勝手に読んじゃうよ?」
彼女の言葉は部屋中に響き渡り、一瞬の静寂が訪れた。
おじいちゃんの声が、弱々しくも、はっきりと病室に響き渡った。
「読むな。まだ読むな……」
家族全員が驚きのあまり、凍りついたように動きを止めた。
翔太は、結衣の隣に駆け寄った。
お父さんは、おじいちゃんの手を強く握り、お母さんは涙を浮かべながら、おじいちゃんの顔を見つめていた。
結衣はノートを、ゆっくりと閉じ、おじいちゃんの顔を見つめた。
「わかったよ、おじいちゃん。絶対に読まない」
彼女の瞳には、涙が溜まっていた。
部屋の中は、感動で一杯となった。
お父さんが「よく頑張ったな」と声を詰まらせながら、おじいちゃんの肩を叩く。
お母さんは「ありがとう」とつぶやきながら、彼の額に口づけした。
翔太も結衣も、安堵の涙を流した。
それぞれの方法で家族は、おじいちゃんの回復を喜び合った。
病室の中は、暖かな光で包まれた。
春の柔らかな日差しは、学校の教室を優しく照らしていた。
新しい学年が始まり、結衣も高校生としての日常に慣れてきていた。
午前中の授業が終わると、結衣は友人たちと学食へ向かった。
新メニューの話や最近の流行、週末の予定など、女子高生らしい会話に花が咲いていた。
彼女たちは時に笑い声を上げながら、高校生活の楽しさを満喫していた。
放課後は部活の時間。
結衣は文化系部活、書道部に所属していた。
中学時代からの続きではあったが、高校では新しい仲間や先輩との交流が増え、更に深く書の世界に没頭していた。
彼女は部活動の中で、集中力を高めることや、自分自身を表現することを学んでいた。
学業に関しても、結衣は自分なりのペースで取り組んでいた。
特定の科目に秀でているわけではなかったが、興味を持ったことは、しっかりと追求していた。
図書館で見つけた興味深い本や、友人からのオススメの映画など、彼女の日常には、学びの場があふれていた。
週末には、友人たちとのショッピングやカフェ巡り、映画鑑賞など、普通の高校生としての時間を大切にしていた。
結衣の高校生活は、何気ない日常の中にも、彼女らしい色を持っていた。
夕方のキッチンで、家族四人は和やかに夕食を囲んでいた。
翔太が学校でのエピソードを話している中で、「昨日の数学の授業、難しくて分からなかった」と嘆いた。
お母さんが、微笑んで言った。
「翔太、大丈夫。お母さんも数学は苦手だったから」
結衣は、サラダを取り分けながらコメントした。
「翔太。分からないところは、私に聞いてね。高校の数学も大変だけど、中学の復習になるから」
お父さんも、優しく微笑んだ。
「みんなで協力して、翔太の数学を応援しよう」とエールを送った。
そのとき、一斉にスマホの着信音が鳴った。
家族四人は、お互いに微笑を交わし、すでに分かっているような表情で、スマホを取り上げた。
それは、おじいちゃんからのメッセージだったのだ。
結衣は、嬉しそうに言った。
「おじいちゃんからだ」
お母さんもニッコリと笑い、スマホの画面を指でなぞり始めた。
「今度は、どんな報告かな?」
家族がメッセージを開くと、青い海と白い砂浜、遠くにはヤシの木が連なるビーチの写真が映し出された。
中央には元気に手を振っている、おじいちゃんの姿が。
彼の背後には、煌々と陽光を浴びるリゾートホテルの建物が見えた。
結衣が、目をキラキラさせながら言った。
「おじいちゃん、まるで若返ったみたい!」
お母さんも笑顔になった。
「本当に、生き生きしてるね。旅行のエネルギーって、すごいな」
翔太は指で画面をスクロールして、次々と送られてきた写真を確認する。
「こっちは山の中……おじいちゃん、ハイキングもしてるのかな?」
お父さんは軽くうなずき、メッセージを読み上げた。
「家族の皆さまへ、元気にしているかな? 僕は、ここで新しい発見と冒険を楽しんでいるよ。家に帰るのも楽しみだけど、まだまだ世界には見たことない美しい場所が、たくさんあるから、これからも冒険は続くよ。皆のことを思いながら、新しい場所を探検していくね!」
家族は、幸せそうなメッセージと写真を前に、再び和やかな夕食の時間へと戻った。
その夜は、おじいちゃんが旅先での経験を、どれだけ楽しんでいるかを共有する喜びを感じながら、眠りについた。
あの事件以来の、おじいちゃんの旅行好きは、かけがえのない家族の宝物となった。
旅立ちノートの旅 きよくん @kiyokunkikaku
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