紫陽花はしがみつく

抹茶葉

第1話

紫陽花といえば、何色を思い浮かべるだろうか。

青、紫、白、ピンク。どの色も雨に濡れてよく映える。

けれど、この家では赤しか咲かない。


朱の色を宿す紫陽花。

それは日本では珍しく、この家――朱雨叔父と吏滝叔母の住む屋敷では、毎年必ず、梅雨になると濃い赤の花が咲く。

土を入れ替えたわけでもないというのに、だ。

アルカリ性の土壌でもないのに、この土地だけが、まるで意思を持って赤く染まる。


「紫陽花ってね、枯れても茎から落ちないの。だから、しがみつくって言うのよ」

ある日、叔母がそう言って笑った。

「愛情が強いの。だから色が消えても、咲いた場所に残り続ける」


私はその言葉が好きだった。

私は――この家が好きだった。叔父と叔母も。


私の実の家族は、悪い人たちではなかった。ただ忙しすぎただけ。

末っ子の私は、十も年の離れた兄と姉のように勉強ができるわけでもなく、親からの期待もなく、いつも一人だった。

そんな私を見かねた叔父と叔母が、平日だけでもと預かってくれ、そのまま養子となった。


寂しくなかった

静かだったけれど、穏やかだった。

叔父の朱雨は冷静で優しく、叔母の吏滝は虚弱な体にも関わらず明るく、花の世話をするのが好きだった。

2人の間には子どもがいないと聞いた。事前に医師からどちらかの命を選ばねばならない状態になる可能性が高いと知らされ、叔父は叔母が亡くなることより、長く2人で暮らすことを選んだと言っていた。


我が子を産めない、育てられないという気持ちを赤い紫陽花がこの家を埋めていったのかもしれない。


そんな日常に、ある日、影が差した。


春の終わり、まだ紫陽花の蕾も見えない頃。

新学期のざわめきがようやく落ち着いた放課後、家の呼び鈴が鳴いた。


玄関を開けると、そこには見知らぬ男が立っていた。

スーツ姿の、無表情な男性。少し無精髭を生やしていて、目の奥が暗い。

第一印象は──正直に言って、少し怖かった。


「……ここは、赤い紫陽花が咲く家で合っていますか?」


男は静かにそう言った。


「え、はい……有名なので、ご存じなんですね。梅雨になると咲きますよ。まだ早いですけど……」


「親御さんはいらっしゃいますか?」


その言葉に、不思議と警戒心が一気に高まった。


「……ちょっと待ってください」


扉を閉め、すぐに鍵をかけた。

「吏滝さん、怖いおじさんが来てるよ!」と叫ぶと、叔母がすぐにやってきた。


「あら、おかしいわね。紫陽花にはまだ早いのに……」


そう言いながら、叔母はためらうことなく玄関へ向かった。

その背中を見送って、私は朱雨叔父のもとへ駆け出した。


「おじさん!玄関に知らない人が……!」


叔父の表情が一瞬固まる。

「部屋にいなさい。私も行く」


玄関で話す叔母の声は聞こえなかった。

しばらくして、叔母が私を呼び、リビングで話をしてくれた。


「さっきの人ね、恋人が行方不明なんですって。彼女さんが前にこの辺りに来たことがあるって。もしかしたらここにも来たかもしれないって」


そう言って、写真を差し出した。


若い女性だった。笑顔の中に、少しだけ影を抱えたような目。

見覚えがあるような、ないような……けれど、印象には残る顔だった。


「見かけたら教えてくださいって言ってたわ。警察にも届けてるそうだけど、何も手がかりがないんですって」


私はただ、「わかった」としか言えなかった。


彼女が本当に来たのか、来ていないのか。

男の人が言っていたことが真実なのか、妄想なのか。

わからなかった。けれど、怖かった。

“紫陽花の家”を頼りに来たという事実だけが、胸に引っかかった。


叔父は言った。


「仮に彼女を見かけても、小林さんには伝えなくていい。声をかけて、“彼氏さんが探してたよ”って伝えてあげなさい」


「彼女が逃げてるのなら、それでわかる」


私はその言葉に安心した。

そうだ、私が判断することじゃない。ただ、見かけたら伝えるだけ。

それで、きっと解決するはず。


そう思っていた。


でも、それから数日後。

ニュースが、全てを裏切った。


テレビのアナウンサーが冷たく言い放つ。


「殺人および死体遺棄の容疑で、小林大輝容疑者を逮捕」


画面には、あの男の顔が映っていた。

暗い目。やつれた頬。

あの時よりも、ずっと追い詰められていた。


私は息を呑んだ。

隣では叔父と叔母が、ただ無言で画面を見つめていた。


「……学校で、この話はするな」

叔父が低い声で言った。

「私が警察に行って話してくる。君は巻き込まれなくていい。絶対に、口外してはいけない」


私は頷いた。


その夜、私はまた夢を見た。


赤い紫陽花の咲く庭。

その根元から、赤いワンピースが顔を覗かせていた。

泥にまみれた顔が、こちらをじっと見つめていた。


口が動いていないのに、声が聞こえた。


「ここにいるよ」


私は、布団の中で凍りついていた。


でも確かに聞いた。


そして知ってしまったのだ。


この家には、“何か”が埋まっている。

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