第5話 ハーブコーディアルと百合根のあんを添えたお花畑のパンケーキ(8)
本当の私。私の本音。
自分のも他人のも、知らない一面を知るのは怖い。だから、私は私自身がどれだけ傷ついているのか見ないふりしてきた。
「運がよかった」「ラッキーだった」と本音をごまかし続けてきた。
本当はずっとやりきれなかった、こんな時代も、土地も、社会も、おかしいと思ってきた。私は運がよかったんじゃない。
「そうです。皆川様はむしろ、逆境を戦い抜かれたのです。
運がいいのだ、とご自分を麻痺させることで、あなたに優しくなかった運命とどうにか折り合いをつけ、世界の残酷さを赦そうとした。
けれど、もう充分です。あなたが赦すのはあなただけでいい」
真剣な面持ちで言うデュボワさんを見つめながら、知らないうちに涙を流していた。
考えたこともない広くて遠い世界からの矢が、透明の天上を突き破って私の世界に届いた、そんな気がした。
すっかり暗い窓の外では、月の光を受けた百合たちが誘うように揺れている。
「私、20年以上も、夫の本当の顔を知らない振りしてきました。喧嘩もしたことないなんておしどり夫婦だねって、友達に言われるたび虚しかった。本当は気づいていたから。夫は私に全然興味がないってこと。
旦那さん優しいんだねって言われるたび、惨めだった。控えめなのは無関心がゆえで、調子のいいことを言うのはいつだって時間稼ぎして逃げるためで、そういうのは優しさじゃなくて狡さだから。
全部わかっていたけど、私だって胸を張れるような理由で彼と一緒にいるのを選んだわけじゃなかったから。でも」
嗚咽が込み上げてきて、両手で顔を覆う。
「でも? 続きをお聞かせください、皆川様」
下方から聞こえてくる落ち着いた声に、彼が跪いているのを知る。私はおなかに力を込めた。
「でも、私は、近づこうとした。あの人と、寄り添おうとしてきた。今日一日何があった? って聞いて『何も』『普通』としか返ってこなくても、何食べたい? って聞いて『なんでもいい』としか言われなくても、家やお金や親戚のことを相談して『君が決めていいよ』って優しい振りして責任を押しつけられても。
この料理好きかな、ふたりで楽しめる趣味がないかなって、あの人に近づくための正解をずっと探してきた。
けれど、私が病気になって闘病記を読んでほしいってお願いしても、あの人はテレビを見て、お酒を飲んで、寝るだけだった。情けないけど、認めないわけにはいきません。22年をかけて拒絶されてきたことを」
涙でぐしゃぐしゃだけど、恥じる必要もないと思った。本当の私が、本当の感情で泣いているのだ。
そのために、ここがある。そんな確信があった。
「真実を見つめるには、さぞかし勇気が必要だったことでしょう。私どもは皆川様の勇気を称えます。
そのままのあなたでいいのです。その祝福の証がすでに顕れている」
「祝福の印? いいえ、私にあるのは病に冒された臓器。毎月の痛みと共に血を流してきた、悲しみの印です」
跪いたままのデュボワさんは、晴れの海の色をした瞳で微笑んだ。
「すでに告知をいたしましたよ、思い出してください。この世に生まれ落ちてから抱えてきた寂しさが、悲しみが、あなたをこの運命へと連れてきたのです。
おかえりなさい、傷だらけの戦乙女よ。改めまして、疲れた魂の憩う場所、ティーサロン・フォスフォレッセンスへようこそ。さあ、お手をお腹へ当てて、新しい命の胎動を感じてください」
「胎動ですって。悪ふざけはよしてください、あなたまで私を傷つけるような——」
「ええ、すべての傷は一輪の花に変えて、お支払いにお当てください。さあ、皆川様」
その凛とした所作と柔和な表情が、私の手を恐るおそるお腹へと向かわせた。
百合状腫瘍と呼ばれる奇病を宿した腹。夫との断絶を白日のもとに引きずり出した原因。その胎動だなんて
そう思いながら自分の腹に触れた途端、びりっと電気が走り視界を白く染めた。次いで、心臓に響くような声がした。
『寂しさは人生の甘みを引き立てるでしょう。終わることのない悲しみは、分かち合えるでしょう。
よろしくね、ママ』
脱力して手を離すと、それきり聞こえなくなった。自分のじゃないみたいに手が、全身が震えていた。
「デュボワさん、これは、この声は」
「新しい世界があなたを愛した証です」
突風が窓を叩いた。思い思いに揺れる白百合たちが、無邪気に笑っているのが見える。
甘い芳香が部屋中に立ち込めると、頭の中にあの声がリフレインした。
『よろしくね、ママ』
とうの昔に潰えた望みだと思っていた。そもそもこの十数年、夫とはなんの交渉もない。なのに。
「いいんですか? 私で?」
デュボワさんが「皆川様だからこそです」と言う。
「雪が降る満月の晩に、この子はあなたを苦しめることなく小さく産まれてきます。静かなお産になるでしょう。
忙しくなります。お疲れになることもあるでしょう。けれど、今とは違う暮らしが待っています。寂しさと悲しみがあっても、手を取り合える未来が」
百合園の遠くで、ラッパのような音がいくつも重なって鳴るのが聞こえた。百合の香りはますます濃く、豊かになる。
デュボワさんが淹れてくれたカフェインレスのコーヒーを飲み、細く長い深呼吸をした。
月灯りの下、暗闇に白く光る花々を見ながら、私は私に約束した。この命と、自らが為す新しい仕事に、敬意を払おうと。
手の中に現れた一輪の百合を、デュボワさんが運んできた銀のカルトンに置く。
「お支払い、確かにいただきました」
ホタルが暗闇に残すような懐かしくて寂しい光が、その花から淡く漏れ出していた。
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