もうひとつの――

 夏の空を立ち上る一筋の煙。

その根本は山寺の片隅にある朽ちた地蔵と名の彫られていない墓の前であった。所々欠けた地蔵はおろか首のない物もある地蔵と無縁仏の供養の炎からから。

 墓の下に埋まった首のない遺体はその更に八千四旬下――争いの絶えることのない苦しみの中にあった。

 首のないまま獄界に落ちた御霊は、灼けるように熱を持った岩の上に座り込んでも飛んでくる剣林弾雨の中であっても、ないはずの顔が笑みを象る。

 手に残る――大きな荒波のような刃文を持つ方から伝わった感触を思い出せば――するりと抜けていく柔肉の思い出によって齎される。


「あんた。毎夜毎夜――いい加減に。あいつが起きちま――」


 道場に入って来た女。派手な女だった。寝起きであろうに目ははっきりとしていて鋭く。寝間着であろうに金襴の入った絢爛な衣。

 大奥でもここまでではあるまいという衣に、出会い頭であったが躊躇うことはなく刀を袈裟に通した。

 一瞬何があったか分からなかったのであろう。恐らくは目の前にいた男が誰か認識することもなかったであろう。自らの肩に刃が食い込んでいることも理解していたか分からない。肩から胸に赤い虫でも這いずっていると思ったかもしれない。


「えっ?!」


 呆けた顔をしたままたたらを踏んだ。

 切り裂かれた勢いそのままに回りながら、戸を締め、壁に当たり、頭を打って――滑るように床に転がった。

 それを見下ろしては――まだ首があった頃の目で見降ろした然全は興味なさげに手を下ろして言い放った。


「ああ、違った。お前じゃないんだ」

「あっ、えっ――」

「おおっ、まつぅぅっ! 作太ぁぁっ!」


 然全とは反対に熱の籠った勢いのある声。

 伸びる影が一本あった。それは上段に構えた証。

 既に振り下ろさんとしていたが、迫る刃を背に然全は悠然と――倒れた。

 背から後ろに倒れることで、頭を狙った刃が眼前を通り過ぎる。

 そしてそのまま転げてしまって、相手の足元で転げて一つ回れば敵の背後に立つ。


「――それが煤宮か? 忘れてしもうたか。”自ら斬りかかるな”とあれほど師が仰せであったというのになぁ」

「黙れぇっ! 妻を斬られて黙っているなど武士の恥! 坂上の名が廃るわっ!」

「買った名、いやこの場合は売られた名か? とまれ廃れる余地があるのかな」

「貴様には分からん。名を上げるということの大事さは侍でなければなぁ」


 生臭い鉄の匂いの中。行燈一つの薄暗い道場の中。男は二人対峙した。

 軽口のような掛け合いをしながらも目は鋭く。足を止めず、じりじりと摺り足で間合いを図りながら。

 時たま呻く女が戸を揺らし音を立てる音の中、二人の男は対峙していた。


「何故今更なのだ」

「少し考え事をしていてな」

「はっ、禅か? 名を変えたらしいな、結局貴様の行きつく先は坊主だったか」

「お前も仏門に帰依したのではないのか? あー典心だったか?」

「貴様とは違う。古来より武士は出家して僧の名を名乗るもの。信玄公しかりだ!」

「なら頭を丸めるがいい。相変わらず半端な奴だ。だから道場も人が集まらない」

「少なくて結構。農民を相手にするくらいならな。この道場では弟子は侍だ。しかも城勤めの侍にだ。分かるかこれがどういうことか? ゆくゆくは藩の指南役もあるということだ!」

「なら俺は将軍指南役になるわけか」

「軽口をぉぉっ!」


 再び上段に構えた。怒りに任せたような一撃。だがそうではない。

 軽口に乗ったのではなく、風を待った攻撃。行燈の灯の揺れを待った。風に揺られ消える一瞬を待っていた斬撃であった。

 が、それでも脅威はない。何故なら遅かった。半歩下がるだけでよかった。

 眼前を通った刀を見ている余裕すらあった。

 大して大きくない道場に似つかわしくない派手な刀を。豪華な銀銅の巻かれた蛭の数を数えられるほどの。


「派手な拵えの刀で自ら斬りかかる。もはや煤宮は捨てたなら看板を降ろせ」

「はっ! ここは煤宮一伝流の道場だ。やり方が違うのは当然であろう。その違いを師は認めて下さったのだ」

「ほう師がねぇ。弱くなっているのを認めたと? お前に興味がないようだな」

「ふはっ、安い挑発だ。貴様こそなんだその腕は。元より細身であったが、そこまで痩せ衰えてしまうとはな。女を斬るのが精一杯か?」

「試してみたいと?」

「試せるとでも?」

「試し合いで勝ったこともないのにか?」

「手にしたそれは真剣であろう? この道場は煤宮ほど広くはないぞ。逃げ回れると思うな」

「なるほど。地の利か」

「おう。貴様はわざわざ誘いこまれたのよ」

「妻を斬らせるためにか。目の上の瘤だろうからなぁ。入り婿の妻というのは往々にして強いと聞く。『あそこの婿には耐えられなかった』などとまたぞろ嫌な噂が立ちかねんなぁ」

「――よもや、道場の悪評を垂れ流したのは――」

「そうだと言ったら――?」

「貴様ぁ――」


 怒気満ちる。腹の底から出る声は小さく、しかし響く。大きな息吹となり、ひとつふたつと息を吸い込めば身体は一回りも大きく膨らんで見せた。

 怒りを飲み込み、しかし怒りに任せない。

 冷徹な殺意が選択したのは――納刀。

 刀を銀銅の鞘に納めると腰を落とした。


「見せてくれよう。我が奥義」

「ほう」


 じりと進む。いや、女の血の上をぬると滑るように寄る。

 恐らくはいつもより滑らかな足捌き。いつになく見えづらい接近。気付けば一歩、二歩とにじり寄っている。血を床で拭うようにして寄って来る。

 揺らめく行燈。

 血の跡がなくなるころに、新助はにやりと笑みを零した。


「狭いと言ったぞ」

「何っ」


 背後は壁。更に一歩出た新助。

 絡む視線に熱が籠れば――そこは間合いの内。


「っっおおぁああぁっ!」


 気合いとともに一筋の煌めき。刀は風を呼んだ。強く吹き付ける風に灯は消えさり更には雲までも動かしたのか月も隠れた。

 暗闇の中、響くは女の呻きと金の落ちる音――そして衣擦れに混じった膝を付いた鈍い衝撃音。


「なんだそれは。蚊が止まって見えたぞ。蝉なら小便を掛ける間があった」

「あ、あ、あ、あ、あ、ああぁぁぁ! ゆ、ゆ、ゆ、指! 指がぁぁ」


 膝をついた新助。抑えた右手の薬指と小指は根本から無かった。

 抜刀術において刀の動きを制御するための大事な二本が失われたのだ。


「昔から思っていたが――お前は阿呆だ」

「指、指ぃぃぃっ! おのれぇぇぇ」

「抜き打ちとは何だ? 刀を納めた状態。つまり戦闘態勢にないところから斬りかかられた時の返し技だ。つまり後から打つ技。ならば後の先をとれなければならない。そうでないなら回避技が必要ということ。故に抜き打ちとは速くなければならない。だと言うのにお前は一伝流とか言うのはわざわざ力んで抜き打つ。遅い抜刀になんの意味があるのだ? 鉄でも斬るつもりか? そんな見世物用の技で道場が立ちゆくと思ったか? 憐れな浅知恵だよ。相変わらずな」

「おお、おのれぇ。おのれぇぇぇ! 作太ぁぁぁぁっ!」

「結局その腕前では何もせずとも道場の先はなかったなぁ」

「貴様ぁぁ! そこまで――この道場が欲しいのか! 最初から逃げねば良かった。それだけで――」

「やはりお前はそれだけの男。家名やら道場やらのために生きている。だと言うのにお前は物の価値が分からぬときた」

「俺はっ! 道場主だ! 侍だぞ! 貴様如き山寺の坊主が上から――」

「士分なぞお前が買える程度の物だ。道場なぞお前が主になれた程度の物だ。価値があるのはそれを得るに足る己の力のほうと気付けぬから――お前は得たらその分だけ弱くなり続けてしまう。生まれながら士分を持ち、道場を継ぐことも決まっていた師がいたというのに。何を見ていたのだ」

「ならば――貴様は何を手に入れた! 何も欲さず。勝負から降りた貴様が偉そうに他者の立身をこき下ろせるなどと思うなっ」

「――妻だ」

「妻ぁ?」

「そう俺は勝負を降りた。欲すものの価値に見合った自分となるために。俺に剣術は必要なかったからな」

「馬鹿も休み休みいえ。嫁をとって、頭を丸める奴があるか」

「ないな」

「なら――」

「ああ、俺もな妻を斬られたんだ」

「ああぁっ?」

「ほう、知らんと申すか。お前が雇った破落戸だよ。俺を連れて来いだったか?」

「私は――私はそんなことは」

「だろうな。お前にその度胸はなかろう。だが、そうなることは考えるべきだった。あんな破落戸が事が上手く運ばねば何をやらかすか。お前に分からなかったのか? いいや違う。過ぎったはずだ。分かっていたはずだ」

「違う違う違う! そもそも貴様に女など。一度もそんな素振りは――」

「節穴だな。女の影すら見えておらんかったというならばな」

「ぐっ――ならば。これで満足だろうなっ。妻を奪い。剣術も奪った」

「ああ、お前の指はついでだ。八つ当たりと言っていい」

「はぁ?!」

「それは復讐の内に入れてないと言った」

「なるほど、やはり首か」

「ふっ――やはり浅知恵」

「なんだとっ」

「それも違うと言っているのだ」

「なら」

「分からんか? いや分からなくて当然だ。言わなかったからな」

「何をだ」

「なぁ、新助。仇討ちとはなんだ?」

「仇を討つことであろう」

「討つとは?」

「首をとる――こと」

「違うなぁ。分かっていると思うが。それならわざわざ聞かぬよ」

「ならなんだと言うのだ」

「仇討ちとは報復することをいう」

「だからそれは」

「違うんだ。報復とはやられたことをやり返すということだ」

「やられたことを? だから斬られたから斬り返すのだろうが」

「俺は斬られていない。だから仇であるお前は斬らぬ」

「では――ではまつを斬ったのは――」

「お前の不始末だ」

「ああぁ、まつ! まつぅぅぅっ!」


 非業の叫びに応えるように女は手を動かした。呻きを漏らした。

――そして戸が開いた。


「はは――うえ?」


 現れたのは幼子――まだ五つの新助の子・新之丞であった。


「おお、新之丞」

「ちちうえ――?」


 何が起きたか理解していない。呆然とした子がただ目の前の地獄のような様相に腰を抜かした。

 母の血の海の中に腰を落として、声を上げた。


「ぐっ――し、新之丞ぉっ!」


 近寄らんとする新助。その足を無慈悲に然全は斬りつける。転げる新助、立ち上がろうと右手を付くも、欠けた指で身体は保てず顔から突っ伏す。それでも進まんと這いずる姿は健気でもあった。

 が、然全は小首を傾げながら背を突いた。


「ああ、相応しい姿になったな」


 首にほど近いところを刺し、引き抜けば血は勢いよく溢れ。まるで昆布でも被ったかのように顔にも垂れた。挙句、口からは血の混じった吐しゃ物。欠けた指を伸ばし息子へと這いずる。妻の血の海を溺れたように藻掻き這いずる様は餓鬼の如く。


「それと言わなかったことだがな――」


 懸命に手足を動かして這う新助。だが欠けた指、刺された傷、血濡れた床では遅々と進まない。どこか滑稽。笑みを浮かべた然全がゆっくり歩くだけ追いつける。

 そしてしゃがみこんで耳元で囁いた。


「――妻の腹には子があった」

「なっ――なっっこ? 故? 子? 孕んでい――はぁっならばっ!」

「安心しろ。子まで斬るほど外道ではない。ただ――子を奪われた。奪い返すが道理だろう? それがやり返すということ。それが仇討ちということ。これがお前の科に相応しい罰と思わぬか?」

「ち、違うっ。そんな、そんなことはっさせんっ!」

「その様で何が出来るというのだ」


 新助はさらに藻掻いた。手足をばたつかせて、懸命に息子の元へ。だがそうなればそうなるほど恐ろしさは増す。新之丞と呼ばれて子はもはや声も出ず、腰を抜かして座りこむばかり。引きつった顔にははっきりと恐怖が浮かんでいる。


「新之丞っ。おお、新之丞。分かるか。父は――勝てぬ。だがお前がやるのだ。お前はこの男を討たねばならん。父の仇を討たねばならん。でなければ坂上が――新之丞討て――討つのだ。討て――この男を――討て!」


 その言葉は新助の最期の執念を振り絞ったもの。それを聞いた然全は笑った。口の両端はもはや頬まで切れ込んだように上げて、引きちぎれんばかりに腹を捩って抱え道場を揺るがし、空の雲すら吹き飛ばすほどのお大音声で笑った。


「あーはっはっはっ! やっぱり言った! やはりお前は馬鹿だ! 自らの子を修羅の道に進ませるとはな。それが親か。いや今お前は親でなくなった!」

「な、な、に――おおぉっ、おおおおっ! し、新――っ」

「――ああ、もういいぞ」


 然全は刀を刺した。何度も何度も刺した。あらんかぎりの怨念を込めて何度も何度も何度も刺した。新之丞の心に刻みつけるように何度も何度も何度も何度も――


「ははははっあはははっあああはっはっはっはっ!!」


 狂ったように刺したあの感触。

 骨は砕け、筋は断たれ、もはや柔い肉だけを差し続ける感触が、今も手にあった。

 地獄の底であっても、どんな責め苦を受けても忘れられぬ歓喜の感触。

 それがある限り然全の首がなかろうが、地獄の悪鬼となろうが見える。

 空に浮かぶ大きな丸い満ちた月が――。


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another one ~敵討つはいずれの刃か~ 玉部×字 @tama_x

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