宵街ぶるぅす -Dedicated to the One I Love- [Single cut version]
烏丸千弦
[1]小さなスナック
「あずちゃーん、ええやんか。おいでぇな、別になんもせんさかい。ほれ、早よでてきてここ坐りぃ」
昭和の頃の面影を残す商店街の一角にある、六坪ほどの小さなスナック。演歌が小さなボリュームで流れているその店の、カウンター席の真ん中で『あず』に絡みだしたのは、近所に住んでいるらしい常連客だった。
不健康にせり出した腹の下でステテコのような薄手のズボンを穿いた脚を広げ、ほれここ、と腿を叩いた常連客けんちゃんに、私は「えーっ、どうしようかなー」と惚けながらグラスを空けた。コースターの上に戻す前にカウンターに置いたハンカチを手に取り、もう癖のようになっている手付きでグラスについた水滴を拭う。スナックに勤めるのはこの店が初めてだったが、水商売はもうすっかり慣れたものだ。
白いマーカーで思い思いにサインされたウイスキーのボトルが並ぶ棚、L字型のカウンターテーブル。ボックス席のない小さな店は馴染みの常連客が支えてくれている、地域の夜の憩いの場だ。滅多に満席になることはないが、常連さんは大抵みな決まった曜日、決まった時間帯に来て、決まった席に坐る。
今は、ママが『けんちゃんタイム』と呼んでいる時間帯で、他に客の姿はなかった。狭いカウンターの中で「おかわりいただきまーす」と水割りを作っていると、けんちゃんがしつこく「そんなんママに作ってもろたらええがな、早よおいで。せや、肩揉んだろか。乳ちゃうさかい安心しぃ」などと云ってくる。
「けんちゃん、あんたまたそんなこと云うて絡む! うちはスナックやで? そういう店とちゃう云うてるやろ」
自称年齢不詳、おそらく五十代後半くらいであろうママが、もう我慢ならないという様子でそう云った。
この店はママの城だ。ママは旦那さんの遺したお金で二階部分が住居になっているこのお店を買い、以来独りで充実した毎日を過ごしているのだそうだ。なんとなく羨ましい。
「硬いこと云いないな。わし、あずちゃん好っきやねん、もう可愛いてかなんねん。ちょっと膝に坐るくらいええがな。なあ」
私はにこにこと笑顔をつくったままマドラーを持ち、からからと氷の音をたてていた。客がスケベ心を起こして云うことなど、いちいち相手にしていられない。が、ママのほうはそうではないようで――
「あんた、もう今日は飲み過ぎや。しょうもないこと云うてんと、もうええかげん帰りよし」
しかしけんちゃんは「おばはんはお呼びとちゃうねん」と失礼なことを宣う始末だ。ママはその台詞にかちんときたらしく、「もうアッタマきたわ。あずちゃん、ちょっとそこ退いてんか」と、空のビール瓶を逆手に握った。
あーあ、と思いながら私はシンクの上に身を乗りだすようにして、ママを通した。ママはすたすたとカウンターを出ていくと、脚を広げて坐っているけんちゃんの頭にビール瓶を振り下ろした。
ごんっと鈍い音が、店内に響く。
「痛ったいな! なにすんじゃわれぼけぇ、死んだらどないすんねん!」
「こんなんで死ぬかいな! 店で死なれたら迷惑やわ、もっぺんどつかれとうなかったら出ていきぃ!」
「うわ、こらやめんかい! 客どつく店て聞いたことないわ!」
「やかましわ! 勘定もらわんかったら客とちゃう! 払ていらんさかい、そんかわり二度と来んといてんか! わかったか!? わかったら出てけー!」
ママの剣幕に、けんちゃんは「めちゃくちゃや! 頭おかしいんちゃうかこのクソばば! 覚えとけよ、頼まれんかてこんな店、二度と来たらへんわ!」と悪態をつき、煙草をカウンターに置いたまま店を出ていった。
ママは、二度と来やへんのやったら覚えとくことないっちゅうねん、あほちゃうか、などとぶつぶつ云っている。その様子を見て、私はまったく、と溜息をついた。
「……もう、ママったら。あんなの適当にはいはいって云っとくのに、お勘定も取らないで追いだしちゃって。常連さん、ひとり減っちゃったじゃない」
「かまへん、あんなんがあずちゃんに絡んどったら他の客もええ気せえへんやろ。来ていらん来ていらん」
そう云ってママはあずちゃん、塩取ってんか、と、私に向かって手を伸ばした。食塩の小瓶を渡すとママは蓋を開け、中身をぜんぶ外に向かって撒いた。
そして、中に戻ってくると「まあ、それはええねんけど」と私を困った顔で睨んだ。
「ちょっと脅かしたるだけのつもりやったのに……あんたが止めんと退いてくれるさかい、ほんまにどつかなあかんようになってしもたやん」
カウンターの上のアイスペールや突き出しの小鉢を下げながら、私は目を丸くしてママを見た。
「ええ? 私のせいなの?」
「せやがな! ふつう瓶持って退け云うたら止めるやろ」
「私、ママのやること止めたことないじゃない! ……でも、瓶が割れなくてよかった」
割れたらお掃除大変だから、と以前一度あったことを思いだし、顔を顰める。すると、ママも同じことを思いだしたのか、罰が悪そうに笑った。
「せやねん。うちも咄嗟に割ってしもたらまた後がかなんわと思て、加減してん」
「そこまで冷静なのに、殴るのは止めなかったのね」
「ええ音したやろ」
そう云うと、ママは再び声をあげて笑った。私も笑った。
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