第15話



 バイトから帰ると、母親がまたドアの前に立っていた。天川は玄関前に走り寄る。


「母さん、また連絡せずに来て」

「筑前煮炊いたから、持ってきたのよ。野菜あんまり食べてないでしょ。最近野菜高いから」

「いいのに……」

「いいじゃない、作ったんだから。後りんごも貰ったからお裾分け。みっちゃんの息子のお嫁さん、実家青森で、毎年たくさん送ってくれるらしいのよ。一人じゃ食べ切れないから。嫁の実家がりんご農家とか最高だと思わない」


 大学在学中、母親から何度も早く彼女を作れと言われた。今まで恋人がいたと話したことはない。実質的には話せなかったという方が正しい。母親にとって息子は今まで恋人がいなかったチェリーボーイということになっているので、心配な気持ちも分からないではない。だが、自分の性的指向を話す気にもなれない。それこそ彼女に絶望を突きつけるようなものだ。自分にとっては普通のことでも、彼女にとっては聞きたくないことなのかもしれないのだから。最近は直接的に言うと嫌がるのに気付いて、こうして遠まわしにじんわりジャブを打ってくるようになった。どんなに控え目でも母親からのジャブは堪える。


 部屋に入ってまたコーヒーを入れた。いつものようにあちらこちらへと話の種は飛び、いつの間にやら二時間が経っていた。いつもならそろそろ時間だと腰をあげるのに、今日は腰が重たそうだった。


「母さん最近よく来るね。何か心配事があるの」

「やーね。何もないわよ」

「ならいいけど。何かあったら、言ってくれたらいいよ。就職も決まってるし、バイトもたくさん入れてるから、お金足りないならいくらか出せるし」

「バカ、大学生の一人暮らしの息子からお金せびろうなんて思ってないわよ。どんなに困ってもあなたには頼りません。累はもう十分頑張ったんだから、これ以上母さんの事で苦労しなくていい」

「母さんのせいじゃない。全部父さんが悪いんでしょ」

「累は優しいいい子に育った。それだけで母さん満足よ」


 それじゃあそろそろ、と母親は今度こそ言葉通り重い腰をどっこらしょといいながら持ち上げ、帰って行った。


 本当は何か言いたかったのでは、と思うが、今は早く絵を描きたかった。弘人に画廊を紹介してもらうための絵を仕上げたい。箸にも棒にもかからないようなら、諦めるしかないが、もし画廊の店主が置いてみてもいいと言ってくれるなら、自分の可能性を否定せずに、就職しても絵を描き続けようと決めている。

 

 腕がダメになって、絵が描けなくなって、気づいたことがある。自分を殺して生きてきたとまでは言わないが、何不自由なく暮らして来たわけではない。片親で経済的にも苦労した。好きな事の殆どを諦めてきた。でも誰かに遠慮して、自分を卑下して、諦めて、ひっそりと自分を殺して死んでいくために生まれたわけではない。好きな事が見つかったなら、それを追い求めてもいいのだ。

 性癖についてもそんな風に開き直れたら楽なのだが、社会的にそれはまだ難しい。一部の人間にしか分かってもらえない事を悲しんでも時間の無駄だから、とりあえず今できる事をするだけだ。累は筆を持ち、描き始めた。




 画廊に絵を持参する時は、緊張で吐きそうになった。こんな絵は置けないと言われてしまえばそれで自分の絵描き人生は終わるような気持ちだった。


 持ち込んだ絵が壁に立てかけられ、画廊の店主にじっと見つめられている間は、息が止まっていたと思う。


「うん……見たことない雰囲気の絵だね。色がぐずついているけど、タイトルが『澱み』だから、敢えてか。こっちは綺麗な夕焼けだね。対比で売るのは悪くないかもしれない」


 持ってきた十枚の絵の内、四枚を引き取ってもらえる事になったが、思っていた方法とは違う引き取り方になると言われた。


「丸沢浩詩のお墨付きをもらった、って弟さんの方から聞いてるから、謳い文句として使ってもいいなら使うけど、画廊に置くんじゃなくて、ウェブサイトに載せさせてもらうよ。写真はちゃんとプロに撮ってもらうから、安心して。ここには注目を集めているアーティストの作品を主に置いてて、場所がない。君みたいな無名のアーティストにスペースが割けないから、新人専用のウェブサイトを作ってるんだ。興味のある人がいれば購入してくれる人もいるし、人気が出てくれば画廊に飾られる事もある。オークションに出すっていう手もありだけど、様子見させてよ」


 天川に選択肢はなかった。ウェブサイトに載せる作業をするだけでも写真撮影、データ修正、掲載、支払い方法の設定と、色々大変なのが想像できる。それをバイトをしながら、絵も描きながら同時進行しろと言われると自信がないし、引き取ってもらえただけでも大きな一歩だ。


 また描いて持ってくるから見てほしいと熱を込めて伝えると、画廊の主人は苦笑いしていた。


 頭を下げて画廊を後にし、紹介してくれた弘人に電話を掛けた。何枚か預かってもらえた事を話すと、直接会って話を聴きたいと言うので、丸沢家に行くことになった。心なしか機嫌が良さそうだった。浩詩にはまだ会いたくないが、初めて弘人が家に来ることを提案してくれたので、久しぶりに丸沢家に向かった。


 


 到着すると、門の前に大きなバイクが一台停めてあった。大きな声が庭から聞こえてくる。

 

「何しに来たんだ! 帰れよ!」

「母親に向かってそんな口の聞き方ある? 私はあんたの母親なのよ」

「弘人、落ち着け」

「兄さんは中に入ってろよ!」

「この人はお前の母親だろう。中で話を聴いたらどうだ」

「こんな人、母親じゃない! 今の今まで何の音沙汰もなかったんだ。今更何の用事があって来たんだよ」

「お兄さんがこうやって言ってくれてるのに、嫌な子ね」

「その嫌な子に会ってどうするんだよ。帰れ!」


 弘人の怒号は邸の庭に響き渡った。辛辣に当たられた時期もあったが、弘人は基本穏やかな性格だ。こんなに声を荒げることがあるなんて。丸沢家で働く人たちが何事かと出てきて、弘人はさらに叫んだ。


「この女を追い出せ。敷地から出すんだ。不法侵入だ!」

「わかったわよ、行くわよ」


 女は仕方ないと肩を竦めて門外へと出た。バイクに跨り、ヘルメットを被ってエンジンを掛ける。立ち尽くしている天川に気づき、ヘルメットの目のカバーを開け、チラリと天川を見た。


「あら、いい男ね。どこかで見た事があるような……」

「早く帰れ!」


 中から弘人がまた叫んだ。


「はぁー。ヒステリックだわ。誰に似たのかしら。ダメな子ね、ほんと」


 女は独り言を呟き、けたたましいエンジン音を立てて走り去った。


 あっけに取られていると、天川に気づいた浩詩がやって来た。できれば会いたくなかったのだが。


「累、久しぶりだな。タイミングが悪かった。すまない」


 本当にタイミングが悪い。天川は浩詩を直視できずに、バイクが走り去った方を向いた。


「何があったんですか」

「内輪のもめごとだ」

「あの女性が叫んでいたようですね」

「弘人の母親だ」

「え?」

「お母さまは亡くなったんじゃ……」

「俺の母親は亡くなった。弘人の母親は見ての通り元気だ」

「……二人は本当の兄弟じゃないんですか」

「言ってなかったか。俺たちは異母兄弟だ」


 かなりデリケートな話なのに、浩詩はまるで気にしていないようだった。


「すいません、そんな複雑な状況だとは知らなくて。僕一度弘人さんに、浩詩さんに似てないとか似てるとか無神経な事を言った気がする」


 そうか、だから嫌われたのか。浩詩は気にしなくても弘人にとっては触れてほしくない話題だっただろう。


「父がああ見えて奔放でな。愛人は一人じゃなかったようだが、あの母親は弘人を施設に入れるつもりだったらしくて、父が可哀相だと弘人を引き取ったんだ。事情があったんだろうから、話くらい聞いてやってもいいと思ったんだが」

「あの女の話を聞いてどうするんですか」


 髪を整えながら、弘人が後ろからやって来た。


「年を取って寂しくなったんじゃないか。話くらい聞いてやったらよかったのに。また来るぞ」

「来たら追い返すだけだ。兄さん、俺がいない時に家に入れないでくださいよ」

「……いいのか、それで」

「いいんです。俺を捨てた女だ。用はない。天川、みっともない所をを見せた。すまない」

「僕はいいんだ……でも……」

「俺のアトリエに行こう」

「え、あ、うん」

「累」

「すいません、浩詩さん、今日は弘人さんに話があって来たんです」

「帰りに俺のアトリエに来い」

「……ごめんなさい、それは分かりません」

「どうしてだ」

「兄さん、しつこいと嫌われますよ」


 浩詩はそれ以上何も言わなかったが、弘人のアトリエに向かう間、視線は天川の背中に送られ続けた。






 



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る