第八十三話:『歴史』が動く時~検証㉚~





                ※※ 83 ※※




「……何だかパッとしない曇天ね。明日当たり本当に雪が降るかも」


 言いつつ、灼は庭に面した大窓越しに空を見上げた。闇の中を突風がき、けた枝間をけていく音が更に寒々しさを増す。

 

「明日の天気は、曇りのち雨みたいだが……学校帰りに降られると嫌だな」


 ソファーの真ん中で胡坐あぐらき、ミルクティーを啜りながら俺も窓の外を眺めた。灼は嘆息交じりにカーテンを閉め、振り向き間際まぎわに気持ちを切り替えて急に笑いを付け加える。


「そうだ。あたし、お菓子を作ったんだ。持ってくるね」 


 灼が制服のスカートをひるがえらせ台所に入ると、どこかの戸棚を開けた音が聞こえた。そのまま再び台所から現れ、


「はい、どうぞ。イタリアではコーヒーに浸したり、ジェラートに添えたりして食べるけど……ミルクティーにもきっと合うと思うわ」


 繊細せんさいな透かし模様のレースペーパーに、カットされた固焼きパンのようなものをせた皿がテーブルに置かれる。


「……これは、何というお菓子なんだ?」

「ビスコッティ・カントゥッチというイタリアの焼き菓子よ。ビスコッティはイタリア語で『ビスケット』という意味だわ。まあ、食べてみて」


 灼は弾んだ声で勧めるとテーブルに頬杖を着いて充実の微笑ほほえみを返す。俺は一欠片かけらを口に運び、


「……では、いただきます」


 ビスケットと聞いて『サクッ』としたイメージで歯を立てたが、思いのほか食感は固く『ガリッ』とみ砕いた。


「味も素朴で……あまり甘くないな。アーモンドとピスタチオが入ってるのかな、随分ずいぶんと香ばしいし……ビスケットというより豆煎餅まめせんべいに近いのかな」


 ボリボリと口と頬を動かし、ミルクティーを飲む。確かにこれは恰好かっこうのお茶けだ。


「トスカーナ地方の伝統菓子よ。『カントゥッチ』は食べる時の音、『小さな歌』――『カントッチ』が語源だと言われてるわ。作り方はシンプルで綺麗きれいに洗ったアーモンドをローストし冷めたら適当に砕くの。それから卵を溶いた後、砂糖・薄力粉はくりきこ・菓子用イースト菌におろしたオレンジの皮――ゼスターグレーターなんかでけずると楽だけど、なければおろし金でも良いわ。それからオリーブオイル・バニラエッセンスに塩を少々。後は棒状に生地をねて焼くだけだわ。あ、ポイントは一度高温で焼いた後、カットしてもう一度焼くことね」


 説明の半分も理解できない俺はせめて食べる行為で評価しようと、また一口頬張ほおばる。灼はなにをするでもなく、ただ食べている俺を見つめて微笑んだ。


「なあ……灼。以前に作ってくれたイタリアの煮込み料理。あれもトスカーナ地方だったよな?」


 ごくごくとミルクティーを飲み干した俺のカップと自分のカップを持ち、灼はキッチンへ向かう。


「ああ、『カッチュッコ』ね。良く覚えてたわね。パパがイタリアに駐在してた時、トスカーナ州のフィレンツェにいたのよ。隣に住んでたお母さんマードレに教えてもらったんだ」


 つい忘れがちになってしまうが灼は帰国子女だ。いったい何ヶ国語喋れるのだろう、とにもつかないことを考えている俺の前に、灼はれ立てのミルクティーを置いた。


「これで、『歴史検証ゲーム』もはかどるでしょ」

「そうだな」


 俺はバリバリと食べてたビスコッティ・カントゥッチをみ込む。


「日本史上、保元の乱から承久の乱までの数十年間は荘園制度の崩壊から封建制度へと移行するターニングポイントだ。それだけに多くの人々が政治闘争にうごめき複雑になってる。しかし視点を変えれば大化の改新以降、常に政治の中枢にいた藤原家が崩壊ほうかいしたとも言える」


 新たにもう一皿、ビスコッティ・カントゥッチを持ってきた灼が笑って訊く。


「保元の乱以前も藤原家は何度も同族で政治闘争に明け暮れてたわ。今回に限って穏やかではないけど、どういう意味?」


 さっそく手を出してかじりながらミルクティーを啜る俺は、なにをか深く考えて返す。


は確かに同族同士だった。だから氏の長者は相続だけで決定しなかったが、藤原家全体として見るならば何も変わってない。

 だが今回の永万二年<1166>僅か二十四歳で藤原基実もとざね――近衛基実もとざね薨去こうきょした事件が周囲の人々に影響を与え、『歴史』に大きな変化をもたらした。

 この出来事で最初に動いたのは後白河院だ。三歳の六条天皇が政治的な後ろ盾を失ったことを利用して、平家に停止させられてた院政を無理矢理に復活させる。さらに基実の子・基通もとみちが幼少であることから弟の松殿まつどの基房もとふさを摂政に任じた」

「そうなると、平家は黙ってないわよね」


 ミルクティーにビスコッティ・カントゥッチを浸して、灼は満面の笑みでパリッとかじった。俺も同じように浸してみて先程とは違う食感を楽しむ。


「ああ。藤原基実もとざねは後妻として長寛二年<1164>に平清盛の娘・盛子もりこと結婚してる。基実が急死した後、盛子もりこ基通もとみちを自らの養子として後見し、藤原氏長者が継承する荘園の大部分を相続し、平家が摂関家領の荘園を掌握しょうあくすることに成功する」


 灼は人差し指を唇に添え、考える仕草を見せる。


「平家が藤原摂関家を取り込んでしまったということね。そうすると……平家✕後白河院、あるいは松殿まつどの基房もとふさ✕藤原基通もとみちの争いになる、ということかしら」


 思考の途中にある質問を俺はぐように答えた。


「そうだ。ここから始まる藤原摂関家の荘園争奪戦で、少しずつ平家と後白河院との摩擦が生まれる。しかし摂関家についてはこれだけでは収まらなかった。藤原基実もとざねのもう一人の弟・藤原兼実かねざねが次々と荘園を奪われてゆくさまを見て、を主張する。

 これにより平家が支援する藤原氏長者『近衛家』、後白河院が擁立ようりつした藤原氏長者『松殿まつどの家』、本来のあるべき藤原氏長者を目指す『九条家』に分裂することとなる」

 「ここから『五摂家』の前身が始まるのね。でもこの年仁安元年<1166>憲仁のりひと親王の立太子が実現するわ。やっぱり平家が頭一つ抜けてるということかしら」


 苦笑を混ぜて少し笑う灼に俺はことさら強く頷いて見せる。


「仁安元年<1166>近衛基実もとざねの急死から始まる――小さな変化だが歴史的な意義は大きい。平氏一門は隆盛を極め、全国に散らばる荘園の半数以上を保有することとなる。さらに日宋貿易によってたくわえた莫大な財貨を手にし、平時忠をして『……この一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし……』とわしめた。

 翌年、清盛は太政だいじょう大臣になると、嫡子・重盛が宣旨せんじにより東海・東山・山陽・南海道の治安警察権を委任される。これは国司の権限を越えて国権によって国人たちに命令を下し、軍事行動が出来るということだ。この事実が将来、源平の総力戦を引き起こし鎌倉幕府を開く引き金にもなる」


 灼は不機嫌な色で鼻を鳴らす。


「平家で独り占めってわけね。そりゃあ、あちこちから不平や不満も出るわ。小侍従はどう出たの?」

「この年は多事多難たじたなんというか……八方塞はっぽうふさがりだっただろうな」


 ありのままの事実を告げるように言う俺は、ミルクティーにビスコッティ・カントゥッチを浸して口に入れた。この何とも言えない固さとミルクティーがみ込んだほのかな甘みがくせになる。


「幼い時より天台座主てんだいざす最雲法さいうんぽう親王の弟子となり将来は出家する予定だった以仁王もちひとおうは応保二年<1162>最雲法親王が亡くなったため、『二代のきさき多子まさるこが住む近衛河原の大宮御所で厄介になっている。この時に小侍従が『菅家廊下かんけろうか』を開き、甥の菅原在高ありたか・九歳と菅原為長ためなが・八歳に学問を教えている、という話はした。そこに当時十五歳の以仁王もちひとおうも学問をしてたのではと考える。ちなみに小侍従は和箏わごんの秘曲を以仁王もちひとおうに伝授してる。

 長寛三年<1165>二条天皇が崩御したことで帝位に昇るかと思いきや、平滋子しげこの妨害にあい、結局、元服もひっそりと大宮御所で行った。翌、仁安元年<1166>には親王宣下しんのうせんげまで阻止され、完全に皇位継承権を失った。ここからは俺の私見だが――」


 俺はミルクティーをすすって続ける。


「小侍従は十二歳になった坊門ぼうもん姫を多子まさるこ――太皇太后宮たいこうたいごうのみや権亮ごんのすけとして仕えてた十九歳の一条能保よしやすと結婚させ、徳大寺家につらなる一門の強化を図ってる。翌年に姫を生み、将来、摂関家の九条兼実かねざねの嫡子、良経よしつねの正室となる。

 また以仁王もちひとおう美福門院びふくもんいんの総領姫である八条院・暲子あきこ内親王の猶子とし、さらに武芸の鍛錬たんれんのため、歌仲間の源頼政よりまさを引き合わせてる。これは皇位継承権を失った以仁王もちひとおうが独り立ち出来るように『源姓』を下賜かしさせる布石だと考える」


 灼は驚きを持って受け止め、急に前のめりにめ寄った。


以仁王もちひとおうを『源氏』に臣籍しんせきさせるってことッ!? 道真みちざねがかつて高望王たかもちおうの『平氏』として臣籍しんせきする手伝いをしたようにッ!? つまり、この策は頼朝よりともの代わりってわけッ」 

「……その可能性はあったと見るべきだろう」


 詰め寄られた分だけけ反り、小さく答えた。視線は灼に向けたまま手探りで皿の上が空であることに気付く。


「灼」

「なに?」


 お互いの顔が近すぎる。灼もそれに気づいたのか立ち上がり腰に手を当て、ぷいと顔をそむけた。その可愛い仕草がたまらなくいとおしい。


「この『ビスコッ――……何とか』は、まだあるのか?」


 俺の追加注文に灼は困った半分、笑い半分の表情を見せて嘆息する。


「あんた、食べ過ぎよッ。それ以上、食べたら夕飯入らなくなるわ」


 諫める言葉にもなごやかな慈しみを込めて灼は優しく俺をにらんだ。

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