帝國の書庫番 丗三幕

張り巡らされた絲は未だ引かれず、静かに形となる日を待つ。


顔。

貌。かお。カオ。

カオが全て。かオが。かお。かお、かお……

カオ、なくなった。なくなったら、ヒトじゃなくなった。

げひ、げひ、げひひっ……。



 月が変わり、年明けの忙しない雰囲気も一段落着いた頃。有坂家を訪れた燕尾服の白狐は、「離れ」の一室に通され、有坂孝晴と向き合って座していた。今回も訪問理由は怪我の見舞とされてはいるが、既に見た目も元通りになり、怪我の跡を感じさせるのは、額に小さく残った傷のみである。形式的に怪我の経過を尋ねた四辻鞠哉にそう伝えて笑って見せれば、彼はどこかぼやけた笑みを返した。孝晴は僅かに違和感を覚えたものの、鞠哉の用は別にある。手にした風呂敷包の中から一つの小さな壺を取り出した鞠哉は、二人の間にある卓の上に、静かにそれを置いた。漬物でも入っていそうな、変哲の無い壺である。孝晴が蓋を開けると、中身を見るより先に、甘く爽やかな柑橘が香った。

「何だィこりゃ?」

「ヴァレーニエ、でございます。ジャムと同じ、果物を砂糖で煮て作られる菓子でございまして。旭暉で流通しているジャムは苺を使って作られておりますが、此方には蜜柑と、その皮を使用いたしました。」

「へえ……。」

「焼き菓子も日持ちはいたしますが、ヴァレーニエはより保存が効き、栄養価も高いと言われております。洋外で食される甘橙カントウのジャムには皮も使われておりますので、蜜柑でも同じように作れるのではないかと試してみたところ、よい味わいのものが出来ましたので、お持ちいたしました。」

 壺に詰まったそれをよく見れば、透明な蜜と鮮やかな蜜柑色の果肉の中に、確かに刻んだ果皮が混ざっているのが見える。芳しい香りに唆られて手を伸ばすと、鞠哉が「あっ」と小さく声を上げた。怪訝そうに孝晴が目を向ければ、鞠哉は一瞬目線を左右に動かし口籠る。唐突に蹴倒されても声すら上げなかった男が、あからさまに動揺の色を目に浮かべている。挙動もおかしい。これは何かあったなと確信するが、それを聞くのは後の方が良いだろう。

「何だィ?」

「いえ、その……匙を、使われた方が良いかと。手を壜に入れると傷みが早くなると、よく怒られたのを思い出してしまいまして……申し訳ございません。」

「そういうもんかィ。」

 それでは後で味わってみようと蓋を閉め、孝晴は頬杖をつくと、鞠哉の顔に目を向けた。

「何があった?」

「!」

「らしくねェぞ、四辻。俺を探ってった時とは随分な違いじゃねェか。」

 単刀直入に切り込めば、鞠哉は僅かに瞳を震わせる。長い睫毛が何度か上下して、やがて彼は「お見苦しいものをお目にかけてしまい、大変申し訳ございません」と頭を下げた。孝晴は少し考える。彼は身分と立場の差を理解していない訳ではないのだ。迂遠に促しても、自分自身の話などしないだろう。

「榮羽音か?」

「……、」

分かる。の時、お前さんがなりふり構わず俺の反応見たのも、榮羽音が傷付いたのが理由だろィ。」

 自分の頭を指差して見せれば、鞠哉は彼に似合わない寂し気な笑みを浮かべ、言った。

「家中の問題を明かすのは、憚られますが。……私は、避けられております。榮羽音様に。」



 私立望月医科学研究所には、研究棟が二棟ある。二階建の木造で、硝子窓がずらりと並ぶ壮観な作りであるが、東を正面に横長の棟が寄り添うように並んでいる為、第一棟の西側と第二棟の東側には、一日のうち、日の光が直接差し込む時間が無い。そんな奇妙な建物の廊下を、錆色の軍服を着た男が歩いていた。襟と肩を見れば、彼が中佐の階級に在ると分かる。望月研究所は陸軍と連携をとっている為、所内で軍医官の姿を見る事は珍しくない。彼の存在も特に気にされる事はなく、男は当然のように目的の部屋に辿り着いた。一番隅の、扉に窓さえ付いていない、一見すると物置のような部屋。蝶番を軋ませながら扉を開けると、窓以外の壁には古い薬品棚が並んでおり、元は備品や薬品の保管庫であった事が伺える。しかし今、その薬品棚には様々な本が詰め込まれている。整理されているとはとても言えない大量の本達は、鋳鉄の金庫までもその居場所として乗っ取っていた。しかし、その部屋には、本と棚以外には何も無い。いや、一つだけ、その殺風景ながら雑多な部屋に、存在を主張するものがある。狭い事務机と、時折椅子の軋む僅かな音を立てて身を動かす、一人の青年。錆色の軍服の男は、せっせと手を動かして何かを書いているその青年に歩み寄った。青年は顔を上げて、いつも通り微笑んだ顔を見せる。

「御機嫌は如何ですかな、『アカツキ』殿。」

 そう呼び掛けられた青年は、鉛筆を置き、困ったように眉を下げた。

「君も呼ぶのかい? 霧生。」

「此処では問題ないでしょう。それとも、『川田君』と呼ばれる方がお好みですか。」

「そうだね。今まで使った名の中で、一番思い入れがある名前だからね……『川田禮三』は。」

椅子を軋ませながら青年は背凭れに体重を移動させ、指を組む。その指に顎を軽く触れさせ、青年は口の端でゆるく笑った。

「けれど、私をそう呼ぶ事を選んだのは、可愛い『我が子』達だからね。拒むのも無粋かな?」

霧生と呼ばれた男は笑みで応え、返事を避ける。それを咎める事もなく、青年は首を軽く傾げた。

「処で、何か用があったのではないのかい、霧生。」

「ええ、その通りです。……大変申し訳ない事に、拒まれてしまいました。『天竺』の血まで使わせて頂いたというのに。」

肩を竦めて、男は言った。青年――アカツキも、特に落胆など見せずに眉を下げる。

「衣笠家の坊やだね? 君が其処迄気にするなら、相当に優秀なのだろうね。」

「ええ、彼の研究は『天竺』と相性が良い。それに、彼は研究に関して非常に野心的で、かつ、昇進には関心を示さない。我々には大変に都合が良いと思っていたのですがね。検体の価値には気付いたようですが、その上で拒否されましたよ。『その為に何人殺す気だ』とね。」

 アカツキは男の言葉を聞きながら椅子を引き、ゆっくりと立ち上がる。背の中程まで伸ばした長髪が、椅子の背凭れからはらはらと離れる。痩身ではあるが背は其程高く無いアカツキは、男を軽く見上げながら、まるで子供に諭すように言った。

「急く必要は無いのだよ、霧生。引鉄を引くのは、もう少し先になる筈だから。それに、目立つ人間を側に置くのは危険が伴うからね。特等級の人間一人よりは、準一級の人間三人の方が、私には望ましいよ」

 その言葉には、目の前にいる男――霧生が、特等の人間ではないという意味も含まれている事に、アカツキが気付いているのかどうか。苦笑する霧生を他所に、アカツキは窓に歩み寄ると外を見遣る。第一棟の屋根に切り取られた狭い空が、夕暮れの血を流している。

「しかし衣笠の坊やも、奇妙な事を気にするものだ。人が何人死のうと、『我が子』の成長の糧となるだけだというのにね。」

 心底からそう思っているという声音で呟くアカツキに、霧生は目を僅かに細める。一見何処にでも居そうな旭暉人の青年の中には、人の預かり知らぬ狂気が満ちているのだ。そして、それを承知で、霧生は彼の元に居る。

「もし、その死が貴方の近しい者に起きたら、貴方は悲しみを感じますか。」

 試すように、霧生は言った。アカツキは振り返り、意外そうに首を傾げる。

「近しい者と言わず、誰に起こったとしても、私は哀しむよ。私にとっては見知らぬ誰かも、その誰かを知る者にとっての近しい者だからね。大切な相手を喪う事は、身を斬られる程に苦しく、辛く、悲しい事を、私は知っているよ。」

 ああ、やはりこの青年は狂っている。そう確認し、霧生は何処か満足気な笑みを浮かべた。



 孝晴が四辻鞠哉に背負われて衣笠邸に転がり込んだ、その翌日。筋肉痛に耐えつつも太田家に戻る事が出来た鞠哉は、無断欠勤の謝罪を太田公爵に行うと、直ぐに仕事に戻った。前日も屋敷を離れて仕事をしていた為に、夜まで忙しかったという。前日の疲労もあり、また翌日も早朝からの勤務である為に、仕事を終えると直ぐに床に就き、眠ってしまった。翌朝は所定の時間に起床し、問題なく普段の生活に戻り、その合間に菓子を焼くなどしていたそうなのだが。

「……年末ゆえ業務が立て込んでおりまして、榮羽音様と接する時間が少なかった私は、有坂様にお渡しする菓子を焼いている時、榮羽音様が私を避けている事に気付きました。勿論、何か問題があったならば解消しなければなりませんので、直ぐにお話に伺いましたものの、何でもないと答えられました。しかし、使用人仲間から、来客があった事を聞いたのでございます。私が御屋敷に居なかった、あの夜に。」



 太田榮羽音が鞠哉を避けるのは、これが初めてでは無かった。屡々邸から抜け出して木の上で拗ねる事があるように、何か気まずい事があったり、失敗した事があると、鞠哉を避け、動向を伺うように振る舞う。叱られると思っているのだろうし、実際、叱る。けれども、鞠哉がそれで榮羽音を見限る事は決して無いし、それを榮羽音も分かっている。今回も、榮羽音が複雑な感情を抱く相手である有坂孝晴を手助けした事について、文句を言うに言えずにいるのだろうと思ってはいたが、鞠哉は鞠哉で普段通り、いやそれに加えて年末の書状確認や挨拶の予定、その他諸々の仕事を抱えていた。鞠哉が予定なく菓子を作るのは気分転換の為であると知っている太田家の使用人仲間は、鞠哉が孝晴に渡したあの菓子を焼いた時にも気遣ってくれていた。気遣っていたからこそ、鞠哉が対応出来なかった来客について、報告されなかった。それほど、疲れが顔に出ていたのだろう。これは鞠哉の失態だ。それ故に、――武橋金次が来訪していた事に、気付けなかったのだから。

 榮羽音の部屋まで廊下を歩いている時、鞠哉の心境は普段通りだった。榮羽音がどんな悪意を吹き込まれていようと、彼の心を守り、彼に降り掛かる火の粉を払わねばならないと思っていた。

 いつも通り、扉を叩き、呼び掛ける。

「榮羽音様。お話を宜しいでしょうか。」

 扉の奥から返事は無かった。使用人としての自分が拒まれているのなら。声を顰める。

『居るんだろう、ハンス。』

 やはり、返答は無い。鞠哉の眉間に僅かに皺が寄った。

『アイツに、何を吹き込まれた? 俺には言えない事なのか。』

 鞠哉は告げると、扉の前で待った。ただ無言で直立しているだけの時間だが、今まで何度も経験した時間だ。鐵國に居た頃も、此処に来てからも。鞠哉が痺れを切らしさえしなければ、必ず扉は開かれて来た。

 取手が、音を立てずに動いた。

 開かれた扉の先にあった、見慣れた翠玉の瞳は、――怯えていた。

。』

 榮羽音は、扉を開き切る事なく、唇を震わせる。


『……お前、人を、殺してるのか。』


 鞠哉の碧い目が大きく見開かれる。無言のまま一歩退がった鞠哉の前で、扉が閉められた。立ち尽くす鞠哉の碧玉が最後に映した榮羽音の表情に表れていた感情は、……「絶望」だった。



「……榮羽音様に、問われました。確かに、私は人を殺めた事がございます。」

 孝晴の前で、ぽつぽつと、鞠哉は話した。太田家は手広く援助を行うが、その分よこしまな動機を隠して接触し、援助金をせしめようとする輩も存在する。鞠哉は家を守る為に、あらゆる手を尽くしてそれを排除して来た。当然、援助に当たって調査は行っているが、太田公爵は多少計画に無理があっても、許可してしまう。一度、援助を受けていた事業者の資金の流れの違和感に気付いて調べさせたところ、素行には全く問題が無かったものの、博打狂いである事が判明した。鞠哉は渋る当主を説得し、援助を打ち切らせた。相手にそれを告げに行った時、今後は心を入れ替えると縋り付いて来たが、その後資金繰りが立ち行かなくなり、首を括って死んだ。武橋金次の言で、榮羽音は恐らく、それを知ったのだろう。実際、それ以降も、鞠哉が手を回して金や人脈の流れを絶った事で、破滅に向かった事業者は幾つもあるのだ。

「私は、それを後悔している訳ではございません。太田家にあって、泥を被るのは私だけで良いと思っております。私のような者が居なければ、太田家はいずれ食い潰されてしまいますでしょう。……ただ、榮羽音様には……。」

 鞠哉は瞳を下に向け、長い睫毛を伏せる。一呼吸の間があり、自嘲めいた笑みがその白い顔に浮かんだ。

「人を死に追い遣っておいて、嫌悪されたく無いと望むのは、烏滸がましい事であると、理解していた筈なのでございますが。お聞き苦しい話を、大変失礼致しました。」

 そう言って深く頭を下げる鞠哉。彼の話が終わるまで黙って眺めていた孝晴は、眉を寄せながら軽く頬を掻く。そして周囲に目を向けると、やがて一つ息を吐いた。

「四辻、ちょっと立て。」

「はい、?」

 呼びかけられた鞠哉はすかさず返事を返すが、その内容は返事の後に理解したらしく、怪訝そうな表情を浮かべる。やはり思考も鈍っているらしいと苦笑しながら、孝晴も立ち上がって鞠哉に近付き、そのまま彼の膝から掬い上げて胸に抱える。孝晴は自分の時間でそれを行ったちめ、思考の遅い「ただの人間ひと」である鞠哉が反応を見せる前に、孝晴は告げた。

「目ェ閉じて、耳塞げ。息しっかり吐いて、で、息止めながらたっぷり三秒、頭ン中で数えろ。」

 鞠哉が訳も分からずそれに従った瞬間、二人の姿は忽然とその場から消え、其処には静寂だけが残っていた。


 一瞬、胃がひっくり返るような感覚を覚えた後、目を開けた四辻鞠哉の視界に入ったのは、先ずは自身の膝。次に、地面と、葉の落ちた立木の群れ。

有坂家あそこじゃ、誰に聞かれるか分からねぇからなァ。」

 頭の横から聞こえた声に顔を上げて、漸く、自身の置かれた状況を理解する。

「……大変申し訳ございませんが、有坂様。」

「ん?」

「先に、降ろして、いただけますか。」

 孝晴はきょとんとした顔を浮かべ、そのまま首を傾げた。

「お前さんの履物は持って来てねェが。」

「…………。」

 言われてみれば、その通りだ。座敷からそのまま連れ出されたのだから。言ってやりたい事が濁流のように脳内に溢れ返るが、鞠哉はそのうち一つを吐き出すに留めた。

「構いません、裸足になりますから。……早く、降ろしてください。」


 明らかに不機嫌そうに立ち上がった鞠哉を見て、孝晴は笑みを浮かべる。

「ちったァ、調子戻ったみてぇだな。」

 その言葉を聞いた鞠哉は僅かに目を開いたが、直ぐに普段の表情を取り戻した。

「……お気遣い、有難うございます。」

「お前さんよ、、本性じゃねェだろ。お前さんのやってる事ァ、一介の執事のそれじゃねェ。偶にゃ肩の力抜かねェと、潰れッちまうぜぃ?」

「……。」

「俺ァ今日で充分、お前さんの弱味握ってっからなァ。で、お前さんも俺の弱味は握ってる。対等にしたって良いんじゃねェか?」

 寒空の屋外で上着も無く裸足で地面に立つ鞠哉は、無意識に両手で身体を抱えるが、同じように――下駄は履いているにしろ――上着も無く裸足の孝晴は、寒そうな素振りを一切見せないどころか、前を肌蹴たままである。鞠哉は大きく息を吐いた。

「別に、無理をして演じている訳ではありませんから。まず、此処は何処なんですか。」

 僅かに謙譲の度合いを下げた鞠哉に、目を細めると、孝晴は周囲を見回しながら答える。

「衣笠の裏山さね。焼けるまでは城があった。下にゃ屋敷があって、今は鍛錬場になってる。ま、来る奴ぁ管理人とリイチくらいで、手入れも済んでっから、今の時分に来ンのはリイチだけだ。俺がリイチに体の話したのも、此処だった。……的があンな。銃も撃ってんのか、あの野郎。流石軍人様だ。」

 土手の斜面際に立てられた的に目を遣り、孝晴は呟く。つまり、以前から秘密の話にこの場所を利用していたという事なのだろうと鞠哉は理解するが、同時に顔を顰めた。

「三秒で、有坂の御屋敷から、此方までいらしたのですか。」

「普通に歩くだけで見えなくなる俺が、全力で走りゃ、こうなる。お前さんはガタイが良いからな、運んでも潰れる事ぁ無ェと思ってな。」

 孝晴は肩を竦めて見せた。そもそも鞠哉の方が孝晴より上背があるというのに、苦もなく抱えて息さえ上げていなかったのだ。苦い物を飲み込んだような顔をしている鞠哉に孝晴は声を上げて笑うと、そのままの語調で言った。

「俺ァこの通り化けもんだ。んで、俺ァ、もう何人も殺してる。」

 鞠哉の目が見開かれる。孝晴は目を細めた。その表情に既に、笑みは無かった。

「初めは、十二の時だ。俺は自分の意思で、手前の剣の師匠を斬り殺した。」

「……。」

 言葉を失う鞠哉に、孝晴は静かに告げる。

「俺ァ世間に知られて無ェだけで、大罪人なンだよ。いや、人ですら無ェからな。人殺しの化生けしょうだ。俺は、さっさと消えて然るべきだって、物心ついた頃からずっと、思って来たさ。けど、どうしてか、こんな俺を救ってくれるような酔狂な野郎が居るんだよ。俺の事情を知らなかったとはいえ、お前さんにも助けられた。」

 そこで孝晴は再び、口端を上げる。

「俺を助けた事、後悔してるか?」

 鞠哉は目線を逸らし、暫し無言だった。やがて顔を上げ、首を振る。

「じゃあ、榮羽音がどうして、お前を見限ったって決まるンだよ。手前がどうにもならないッて思い込んでるだけじゃ無ェのか。」

「榮羽音様は……、」

 孝晴の言葉に、鞠哉は口を開きかけたが、その先を言えなかった。幼い頃、榮羽音は確かに、鞠哉に素気無い態度を取られて泣いていたし、鞠哉が街の子供と喧嘩しているのも怖がって泣いていた。けれど、いつの間にか側に戻って来た。鞠哉が何処から来たのかも分かっていないのに、そもそも此方は相手を全く信用して居なかったのに、「今日からこの子がお前の兄さんになるんだよ」と言われただけで、「そっか、よろしくな!」と受け入れてくれた。何故か、そんな記憶が、浮かび上がって来た。俯いた鞠哉に、孝晴は表情を緩める。

「ちゃんと榮羽音と話してやれ、四辻。俺ァ、それで大事なダチを苦しめちまった。俺と同じ轍を踏むな。一番近くに居る奴の事くらい、信じてやれ。俺が言えた義理じゃ無ェがな。」

「……有難う、ございます。」

「はは。どうも、お前さんが腑抜けてンのを見ンのは、気持ち悪ィ。」

 そして孝晴は袂に手を入れると、鞠哉が持って来た壺を取り出す。何処に入れていたのだと驚く鞠哉の前で、孝晴は躊躇なく手を壺に突っ込み、中身をぺろりと舐めた。

「こりゃあ美味ェ。」

 まるで貴族とは思えぬその所作に、鞠哉は苦笑する。

「匙を使った方が良いと、申しましたのに。」

「取って置かなけりゃ良いンだろ、今此処で全部食うからまた作ってくれ。」

 まるで蕎麦でも啜るように、壺を傾けて中身を食べてしまう孝晴。それを目の当たりにした鞠哉は素直に、心からの感想を告げた。

「その量を一気に食べているのを見るのは、かなり気持ち悪いです。」

「うるせェ、腹が減ンだよ!」

 答えた孝晴は、鞠哉が小さく声を上げて笑うのを見た。


 再び鞠哉を抱えて戻って来た後、何事も無かったように彼を送り返した孝晴は、座布団を枕にごろりと寝転がると、改めて今日の話を頭の中で反芻する。自分が太田家に関わったその日に、太田家内部に騒動が起きた。これは、例の脅迫文の時も同様だった。しかも、何方も、榮羽音が狙われている。これは、偶然の相似だろうか?それとも……。

(武橋ってのは、思ったより厄介な野郎なのかも知らねェな。)

 始めは、嫌がらせを受けた兵士を助ける為、理一が手を出した事。しかし、孝晴の働き掛けで理一は謹慎を短縮されているのだから、その点で恨みを買った可能性は充分にある。しかし太田家とは、主家と分家の関係にある事しか接点は無い。いや、主家と分家の間に諍いを抱える家もあるが、太田家に関してそれは無かった筈だ。孝晴への恨みを太田家に持ち込む理由が無い。ならば、所属する軍の方面はどうかと考えるも、太田家は国政から離れている。強いて言えば、太田家の出資もあって稼働した硝子ガラス護謨ゴムの工場が、軍製品も製造しているというくらいだ。外部に出ない内情を知ろうとしても、麟太郎の所属する国家警兵は陸軍に所属はしているが組織が異なる。理一は騒動の当事者である為、別の情報筋があれば他の情報も得られるかも知れないのだが。

(軍との接点なんて、他には……、)

 そう思った時、脳裏に浮かんだ一言。


「いずれ僕も、貴方に助力をお願いする事になりそうですしね。困った時はお互い様、と言う事で。」


 霧生立夏は、そう言った。彼の父は、理一と同じ軍医である。あの態度の理由は分からないが、腹に一物あるのは明らかなのだ。先に接触するべきかも知れない。

(俺が太田家を巻き込んでンなら、四辻の野郎だけに任せちゃおけねぇ……手を引かせる方法が見つかると良いが。)

 孝晴寝返りを打つと、ふう、と息を吐く。年が変わる前から、どうにも不穏だ。切裂事件、首無・顔無事件。更に、自身への狙撃。どれも、國を動かすような事件では無いのは、触れて来た情報から分かっているのだが。頭の片隅に生まれた違和感は消える事は無く、更に幾つもの糸が絡まり混線してゆく。孝晴はそのまま目を閉じ、やがてあまねが夕餉の支度が出来たと呼びに来るまで、その場を動かなかった。


「帝國の書庫番」

丗三幕「純粋」

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