帝國の書庫番 丗幕

それは、静かに、息を殺して、忍び寄る。


 父は寡黙な職人だった。叱ったり褒めたりが苦手で、あまり多くを話した記憶は無い。けれど、僕は父の試作する菓子が母を笑顔にするのを見るのが好きだった。父の菓子を皇帝陛下が召し上がっているのだと話すときも、母は幸せそうだった。菓子は、人を幸せにするものなのだ。父の仕事は、皆に笑顔と幸せを届ける仕事なのだ。家には膨大なレシピノートやスケッチがあり、僕は夢中でそれを読み漁った。頭の中で材料を混ぜ、型に入れて、焼き上げて、美しく組み上げる。それを初めて現実に実行した時、厨房は飛び散った材料や割れた皿で惨状と化していた。けれども焼けた生地を窯から出した父は、それを一欠片食べて、僕を抱き上げると、僕と同じ色の瞳で、しっかり僕の目を見て、言った。


『焼き加減だけは、完璧だ。』


 その短い賞賛の言葉と、太く逞しい料理人の腕。その日から、僕は将来、自分も父と同じ菓子職人になるのだと、信じて疑わなかった。



「お前なら直ぐ此処に来ると思ってたぜ、リン公。」

 理一はそう言いながら紫煙をくゆらせる。目の前に立つのは、いつも通りの烏羽を纏う麟太郎。理一は書斎で彼の訪問を待ち受けていた。いつもの鴉が来なかった理由は、麟太郎の胸に鴉の頭がはみ出た布が巻かれているのを見れば分かる。

「ハル様が人を避けて隠れるとすれば、此処しかありません。」

 麟太郎は淡々と言ったが、理一は目を細める。孝晴は、麟太郎の「世界」だった。友と呼び合う間柄となったにしても、孝晴への感情が麟太郎の多くを占めている事に変わりない。

「今日まで来れなかったのは、兵舎襲撃事件の調査か?」

「はい。……私が一番の当事者ですから。」

「……ん?」

 僅かに間隔を空けて答えた麟太郎の言葉に、理一は眉を寄せる。理一は、軍が公表している情報以外は知らない。麟太郎は胸の布からはみ出た頭を指先で撫でる。

「公式には、兵舎に矢が撃ち込まれた事件とされていますが、それは全てではありません。先に、射られたのです。『くろすけ』が。」

「……。」

 理一は無言で細く煙を吐き、先を促す。麟太郎は一度考えるように目を逸らし、再び理一の顔に目線を据える。

「何を目的として『くろすけ』を狙ったか、それは定かではありません。下手人は死んでいるとはいえ、その背後に指示者がいる可能性はまだありますので、調査中です。ただ、その為に私は、足止めを食らいました。故に、ハル様の……大事に際して、お傍に居られませんでした。」

 麟太郎が僅かに言葉に間を作った事で、麟太郎は既に、孝晴にとって婚姻がどう問題となっているのかを理解していると、理一は確信する。麟太郎は馬鹿正直ではあるし、感情に関しては理解不足があるものの、鈍感では無い。既に時間は昼を回っている。真っ先に有坂家に向かい、何らかの話を聞いている筈だ。

「どうだったよ、お前から見て。」

「どう、とは。」

「孝晴の嫁として、相応しいと思ったか?」

「……あまねお嬢様について、ですか。」

 傾げた首を戻しながら、麟太郎が呟く。そして僅かに目を細めた。

「私にとっては、ハル様にお会いする事が最も重要なのですが。今その質問に答えねばならない理由がありますか。」

 理一は小さく笑うと、手にした煙管キセルを灰皿の上でひっくり返し、手で軽く叩いて灰を出しながら首を振った。

り、そういうつもりじゃねぇんだ。ま……来れば分かる。」

 麟太郎は再度首を傾げ、煙管を置いて立ち上がった理一の後に続く。恐らく、麟太郎はあんな姿の孝晴を目にするのは初めてだ。少しでも時間を伸ばせないかと話を振ったのは、孝晴を「世界」と言った、そして孝晴と出会う以前の記憶が欠落している麟太郎に、その「世界」が弱った姿を見せて、何が起こるか分からないと思った為だ。先に理一から話してしまう事も考えたが、麟太郎を抑えられるのもまた孝晴であろうから、やめた。あとは、孝晴が何を何処まで話すかに任せるしかない。


 部屋に入った麟太郎は、無表情のまま立ち尽くしていた。目の前には、長椅子にぐだりと横たわる孝晴の姿。

「よォ、お麟。其方そっちは変わり無ぇかィ?」

 へらりとした孝晴の声が聞こえるが、麟太郎は応える事が出来なかった。頭を半分以上覆う包帯。悪い顔色。

?」

 麟太郎が吐いたのは、その一言だった。そして次に、孝晴の問いかけに答えていない事を理性が教えて来た。これは、理性を置き去りにする程の怒り。不思議と麟太郎はそう理解していた。今迄、こんな怒りは感じた事が無い筈なのに。

「んにゃ、分からねぇ。弾ァ見えたが、射手までは見えてねェからな。俺ぁ速いってだけで、視力はお前らと変わらねェよ。」

 孝晴は答えると、目を閉じて笑った。その笑みは、麟太郎が見た中で最も弱々しい。出会った時の、あの昏い想いを抱えていた孝晴ですら、こんな顔はしていなかった。背後に近付く気配を感じたが、直ぐにそれが理一のものであると理解した為、体は反応しなかった。理一の手が肩に触れる。

「落ち着け、リン公。先ずは話を聞くんだ。」

 そう言いながら理一が孝晴を見遣ると、再び孝晴は目を開く。

「お麟。」

「はい。」

 呼ばれた麟太郎は、素早く孝晴の前に跪いた。孝晴の目が真っ直ぐ麟太郎の瞳を見る。そしてその手が掲げられ、麟太郎の頭に下ろされた。

「俺ぁ、まだ大丈夫だ。」

「……はい。」

 ぐしゃりと帽子ごと麟太郎の髪を握る手は、思いの外、力強かった。


 孝晴が事の経緯を語り終えても、麟太郎は無表情のままだった。麟太郎の記憶に影響が出ないかと案じていた理一は内心息を吐くが、麟太郎はそれを知る由もない。三人の間に一瞬落ちた沈黙を破ったのは、その麟太郎だった。

「私は、あまねお嬢様にどう接したら良いのでしょう。」

 要領を得ない言葉であったが、孝晴は察したようだ。

「会ったンだな? あまねに。それに、お前さんに何かしら要求があった。」

 麟太郎が黙って孝晴を見詰めると、「見りゃ分かる」と孝晴は笑った。麟太郎は頷くと、瞼を僅かに伏せる。

「私は彼女に、ハル様について教えて欲しいと言われました。しかし、私がハル様の事情を好き勝手に伝えてしまう事は出来ません。其故、私にとってのハル様と、あまね様にとってのハル様は、同じとは限らない、とお伝えしました。しかし……ハル様がその状態であるならば、彼女の元に戻られるべきではないのではないかと……となると、私が……。」

 淡々と麟太郎は語るが、最後に逡巡する様子を見せる。麟太郎の言葉の調子に、迷いのようなものがあからさまに見えるのは初めてだった。孝晴の負傷が影響を与えているというだけではなく、麟太郎自身の情緒にも変化が既に起きていた事もあるだろう。と、孝晴が軽く息を吐くと、理一に目を向ける。

「なァ、リイチ。一旦、傷見てくれねェかぃ。」

「あ?」

「もう動けそうな感じがしてンだ。ただ、医者の目で見て不味いってンなら、もうちっと待たなきゃならねェからな。」

 理一は面食らった表情をしたが、そのまま眉を寄せて額に片手を当てると、大きく息を吐いて寝転がる孝晴に近寄る。包帯が解かれると、孝晴の顔の左半分を覆う綿紗が露になる。僅かに覗くその頬に鮮やかな紫色の染みが見え、麟太郎が目を強く細めた。理一は孝晴の額と後頭部の傷をつぶさに観察すると、細く、長く息を吐く。まるで自分を落ち着かせるかのようなその息の後、元通りに包帯を巻き直した理一は、立ち上がって眉を寄せ、孝晴の頭上からその顔を見下ろした。

「傷を開きたくなけりゃ、頭皮は動かすなよ。」

「はは、わぁってらぃ。って事は、塞がってたンだな?」

「あぁそうだよ! 護謨ゴムでも食ってんのか手前は……。」

「さァな。」

 半笑いで答えた孝晴は、長椅子に手をつき、ゆっくりと身を起こす。

「ってて……。やっぱまだ痛ェや。」

「たりめーだ!」

「て事で、あまねは俺がなんとかする。家で転がってる理由も出来たしなァ。」

 今にも頭をはたいてやりたそうな顔で理一が吐き捨てるが、孝晴はそのまま立ち上がると、火の入っていない煖炉――客を招く時には火を入れていた筈だが、今は使っていない為、部屋に火鉢が持ち込まれている――の上に掛けられた鏡で自身の姿を見て、「うへぇ」と顔を顰めた。

「こりゃ酷ェ。制服まで血塗れになっちまったぃ。」

「まあ、言い訳は出来るだろ。表皮だろうが頭を切れば、出血は多くなる。が……その顔はどうにもならねえな、血が抜けるまで放っとくしかない。このまま暫く木乃伊ミイラになって貰うしかねぇな。」

 手を腰に当てて言う理一であったが、直ぐにその表情が真顔に戻る。

「奴の事はどうする。」

「……。」

 孝晴はゆっくりと椅子に腰掛け直し、理一の言葉に対して考えるような素振りを見せる。麟太郎が一つ、瞬きをした。

「奴、とは?」

 当然の問いに対し、孝晴は麟太郎を眺めた。その胸元には布が巻かれ、膨らんだ其処から鴉の嘴がはみ出ている。麟太郎の頭や肩を止まり木にしている事はあれど、こんな風に抱えられている「くろすけ」を見るのは初めてだ。麟太郎の方にも何かあったのだろうが、此方の状況を先に話すべきだろうと孝晴は判断する。麟太郎に語らせる話題を残しておいた方が、「何かあった時」に落ち着かせられる。

「太田家の執事は分かるな? お麟。」

「はい。髪と肌の白い異人の方です。」

「俺ぁ、其奴に体の事を明かした。」

 その一言で、麟太郎は硬直した。瞼すら動かさず黙り込む麟太郎を、孝晴は真っ直ぐに見詰める。

「四辻の野郎が彼処あそこに居たのは、偶然だ。奴さん、俺が倒れた後にすぐ駆け寄って来て、顔真っ青にしてやがった。だから、此奴しか居ねぇと思って、俺ぁ助けを求めた。此処まで運んでくれってな。その見返りに、俺が化けもんだって事を教えてやった。」

「……ハル様が、助けを。」

 ぽつりと、麟太郎が呟く。一切感情の籠らない口調だった。孝晴は続ける。

「それ以外にやりようが無かったってこった。で、利害を一致させた。奴も俺を利用するし、俺も、俺が得られねぇもんを奴から得る。

お前も、それを知っといてくれ。」

 孝晴は麟太郎の目を真っ直ぐに見ていた。暫しの間二人の視線は交わされたままであったが、その視線を切ったのは麟太郎だった。

「……私は、不甲斐無いです。ハル様が手を伸ばした時、私は其処に、居られ無かった。」

「たりめぇだ。お前は俺の従者でも何でも無ェ。一個の人間だ。合わない時なんざ、当然あるモンだ。」

 目を逸らした麟太郎に、直様孝晴が言う。麟太郎はゆっくりと、自身の胸に掛かった布に手を伸ばす。

「理由は、『ソレ』かィ?」

「…………はい。」

 麟太郎は包を解き、机の上に置いた。解けた布の上でぐるりと首を動かして麟太郎を見上げる「くろすけ」の羽には、布が巻かれている。

「先程、衣笠先生にはお伝えしましたが。」

 そう前置いて、麟太郎は「くろすけ」が射られた事をぽつぽつと吐いた。聞くにつれ、孝晴の表情が険しくなる。

「……そう言や、ここ数日の間の世間の事たァ、なんも頭に入れて無ェや……仕事中は寝て、帰りゃもう覚えちまった書を教えられて、んで、耐えられねェと思ってあまねから逃げ回って……。」

「では、兵舎が射られた事も?」

「知らねェ。」

 鉛を飲み込んだような表情で答えつつ、孝晴は手を口許に添えて思案する素振りを見せる。

「どうも『上手い』な、状況が。」

「どういう事だ?」

 黙って見守っていた理一が口を挟む。孝晴は理一を、そして麟太郎を見遣ると言った。

「俺を殺すンなら、警兵が常にくっついてンのは、邪魔で仕方無ェだろぃ?」

「!」

 麟太郎が目を細めた。同じ事を、「くろすけ」を受け取りに獣医の元へ行った帰り、麟太郎も考えていた。ただ、その時はまさか、孝晴が実際に命を狙われた等と知る由も無かった。

「私を足止めする為に、兵舎を……ひいては『くろすけ』を狙ったと。」

「んにゃ、狙われてたのは『くろ坊』だ。最初からな。」

 孝晴が瞼を伏せる。聞いていた理一が麟太郎の隣に無言で腰を下ろし、僅かに眉を寄せつつ膝に頬杖をついた。その間の無言を問いと受け取り、孝晴は続けた。

「警兵を直に狙ったとしたら、直ぐに徹底的に捜査が入る。軍施設にちょっかい掛けたらそりゃあ捜査にゃなるが、対策に必ずお前さんが駆り出されるとは限らねェ。狙った部屋に当てた所で、何人も同じ部屋に住んでンだから誰を狙ったか分りゃしねぇだろィ。」

「……。」

 麟太郎はゆっくりと瞬く。未だ、「鴉が鷹に追われていた」件については、孝晴に話していない。その情報が無くとも、孝晴の頭はその可能性が最も高いと弾き出したのだ。現に、孝晴は……。

「理由は、何なのでしょう。」

 ぽつりと一言、麟太郎が言った。孝晴が怪訝そうな顔をする。

「そりゃ、今も言っただろィ。俺を狙うに、お前が邪魔だった。お前を足止めするには、『くろ坊』を狙うのが好都合だった。ま、俺を撃った奴ぁ相当回りくどい野郎だってこったな。」

「違います、ハル様。ハル様に、命を狙われる理由など、ありません。」

 麟太郎がきっぱりと言った。孝晴は一瞬黙り込んだ間に、自身が過去に斬り捨てて来た人間の顔を思い浮かべる。だが、それが露見したのであれば、来るのは刺客ではなく逮捕状だ。孝晴は頷いた。

「……ああ、そうさな。俺にも、可能性の高い心当たりは全く無ェ。けど、あの弾丸たまが俺のここに向かって飛んで来るのは、はっきり見た。……、」

 言いながら自分の頭を軽く人差し指の先で叩いた後、孝晴は口を噤む。自分の為に「くろすけ」は狙われた。師を斬った瞬間が脳裏に鮮やかに蘇り、次に竹刀を握って硬直したままの孝成、そして最後に、痩せ細り悪臭を漂わせる麟太郎の姿が浮かぶ。かつて、自分が命を左右した者達。それが今、またも自分の事情に巻き込まれている。しかし。

「ならば、私が……我々が、ハル様を放って置けるとお思いですか。」

「俺も入ってんのか。ま……此処で身を引くようなら、最初からこんな苦労して助けたりしねえよ。」

 麟太郎の言葉に、理一が続く。そう、二人は既に、頼り頼られる間柄になってしまった。

「俺の所為で、お前ぇの鴉が狙われたンだぜ? お前にゃ、お留お嬢様も居ンだからよ。」

 牽制するように孝晴が言えば、麟太郎は一瞬目を下に向けて考える素振りを見せたが、直ぐに目線を孝晴の顔に戻した。

「それは、ハル様の身を案じない理由にはなり得ません。」

「はは……。」

 何処か自嘲めいた笑みを孝晴は浮かべたが、それが何に対する自嘲なのか、麟太郎には分からなかった。孝晴はすぐにその笑みを消し、いつものへらりとした笑みを作る。

「ま、俺もこのざまだ、大人しく案じられとくかねぃ。」

 軽く喉で笑う孝晴に、理一が一つ息を吐いて口を挟んだ。

「……医者としては、せめて一週間は安静に寝かしときたいんだがな? 呉々も無茶はするなよ。」

「今回は心底からお前さんにゃ礼を言わなきゃならねェが、お前さんこそ、無茶すんじゃねェぞ、リイチ。姉さんらにゃ、お前しか居ねぇんだからよ。」

 孝晴は語調を変えなかったが、その言葉を聞いた理一が黙り込む。言葉のに違和感を覚え、孝晴は理一に目を向ける。

「どうした?」

「……ん。そう、だな。そうかもな。」

 珍しく煮え切らない返答を返して、理一は目を逸らすと、「疲れたから休む」と出て行ってしまった。どうやら理一にも何かあり、そして、彼はそれに踏み込まれたくは無いと感じているらしい。麟太郎にもそれは理解出来たようで、静かに話題を変える。

「……どうなさいますか、ハル様。」

「先ずは、帰ってやらねぇとな。お麟、今日は隣を歩け。」

「何故です?」

「記者避けになる。」

 数度瞬いて首を傾げた麟太郎に、孝晴は少し悪戯っぽく、口の端で笑みを浮かべて言った。



「遅くなって済まなかった、くろ殿。」

 工房の入口に立つ狼面の男。その前に立つ男――漆黒の軍服を纏い、着けている面は「熊」である――は、首を振って穏やかに応える。

「お主が必要としていなかったのじゃろう? お主は完璧に深緋こきひを勤めておるでの。じゃが、儂も『玄』じゃからの。一度は具合を見なければ勤めが果たせんでな。」

 深緋は頷くと、腰に下げた刀を鞘ごと外して玄に手渡す。引換に代わりの刀を受け取って差しながら、深緋は言った。

「玄殿であれば、私の刀に問題が無いと理解していると思っていた。だが、私にも配慮が足りなかった。『繊月せんげつ』を頼む。」

「承った。」

 玄の返事を聞くと、深緋は静かに背を向ける。その背に、玄が言葉を投げた。

「儂を処分せんのかの?」

「……。」

「気付いておるのじゃろう、儂が『伝言を朱華はねずに託した』理由に。」

 立ち止まった深緋は、口調を変える事無く言う。

「朱華が責を果たしている限り、止め立てする理由も無い。『深緋』は得物を得手不得手で選ぶ事もしない。私に不都合は無い。」

 淡々と深緋は告げたが、その後僅かに声音を緩めた。

「私は、腹を割った話をされるには向かない。其方は玄殿にお任せする。な。」

「……そうじゃの。お前さんも、儂に胸襟を開いて欲しいものなのじゃが。」

「隊員に対する深緋の役目は、監督と適切な任務選択、そして配分だ。私自身に就いても、私が監督している。私は、此れで良いのだ。」

 狼の面は玄を振り向く事は無く、美しい歩き方で工房を去って行く。深緋を見送った玄は、手の中にある刀に目を向けながら、今の言葉を思い返す。


――私は、此れで良いのだ。


(深緋は、『自分には不要だ』とは言わなんだ。あの若者にも、ちゃあんと迷いがあるのだの。)

 玄は、深緋の刀を預かって来るようにと朱華に告げた。しかし、深緋は直接訪れ、そして玄が工房で他隊員の相談役をしている事について、気付いていると匂わせて行った。玄と白橡しろつるばみの二人は、其々の工房内において、覆面着衣と言葉に関する規則を免除される。だが、他の六人についてそれは存在しない。彼らが互いに万華の身分を保ったまま素の顔を晒せるのは、帝宮内の詰所である「八華はっかの間」の中においてのみである。しかし玄は、万華に自分よりも年少の者が増える度、こっそりと工房に招いて話を聞いて来た。入れ替わりの激しい万華である。気難しい者も居た。野心に溢れる者も居た。けれど、彼ら其々の要望に沿って最も扱い易い得物を誂え、それを管理する役目を負っている玄は、彼らの得物の扱い方で、人間としての本質を見抜けた。気難しく馴れ合いを嫌う者は、実は責務に直向ひたむきになって気負い過ぎていた。野心溢れ自信過剰に見えた者は、周りを思い遣るが故に自分に仕事が回されるように振る舞っていた。過剰にも思える程手入れされた刃が、大切に磨かれた柄が、それを教えてくれた。

 深緋の刀は、玄の打ったものではない。代々深緋は、帝の神宝の中から得物とする武器を選ぶ。深緋が選んだのは、刀――正確には、太刀である。千年の昔、当代一と称された鍛治師が、國の平安を祈念して奉納したものだ。薄く繊細で美しい刀身は軽く、振う軌跡は二日目の月の如し。匂口潤む様はあたかも満開の花の沸き立つよう。双方を取り入れて沸花ふつかと号されたその太刀は、國の礎たる帝を守護する神宝の一つに加えられた。武器としての性能も高いが、それ以上に、技術と祈りが込められた宝剣だ。勿論、神宝の中には打刀もある。どれも「深緋」に相応しいものだ。今の世に態々太刀を選ぶというのは、余程の物好きか、あるいは。

「さて……『繊月丸せんげつまる』や。儂と少しばかり、語り合うてくれんかの。」

 玄は見事な拵の鞘を優しく撫でると、工房の奥へと姿を消した。



 格子窓の内側で、薄赤い行燈が畳の上に光を投げかける。互いに襦袢を纏いしとねに横たわる二人の指先が、静かに触れ合った。同じ布団の中に、二人の男女。男は女を買い、女は男を悦ばせる。それが廓の日常だ。

「冷たい手。」

 呟く女の声を聞いた色白の男は、小さく笑って顔を女の方に向ける。

「錦木さんの手は、温かいね。」

 薄暗い部屋の中、化粧をした女――錦木と同じ程に白いはだをしたその男は、ただそれだけ言うと、僅かばかりの力を入れ、錦木の手を握る。そして反対の手を伸ばすと錦木の髪を一度撫でて、再度微笑んだ。この酷く優しく、身体の交わりを求めない変わり者の優男が、錦木の身請け先となる。

 実は、話は既に通っているのだ。男が此処に通ったのは三度。初めて床を共にした日、男に一度も経験が無い事に驚いた。しかし、その身分を思えばあり得ない事では無いと納得し、仕事を済ませた。金は充分に払われているのだ、その分の働きはせねばならない。男はぼんやりと錦木を見ていた。独りでの経験はあるだろうに、まるで初めて女を捧げた少女のような、無垢な絶望の色を錦木は男の目に見た。しかしその目は、僅かに熱をも孕んでいた。男の真っ白な頬は紅く染まっていた。そして男は、まるで初めて気付いたかのように「君は、美しいね」と錦木に告げた。身請けしたいと告げられたのは、二度目の夜だ。錦木はそれを受けた。

 今迄、身請け話を蹴って来たのは「りり」の存在があったから。しかし、幾ら彼の生まれが此処であっても、錦木と彼の関係は歪んだものだと、内心理解はしている。自分は、「りり」を妹として大切に思いながら、同時に「りり」を男として愛してしまっている。その気持ちは、初めてこの男と身を重ねた時も変わらなかった。それでも、この男は、何処か似ているのだ。性格も、外見も重なる所など無いのに、何故か錦木はそう感じた。

(あたしは、嫌な女だね。こんな純な男を、愛した男の身代わりにするんだ。)

 「りり」は錦木を「ねえね」としか思っていない。どうあっても、結ばれる事は無いのだ。ならば、互いに別の生を歩む必要がある。それには、彼を「男」にしてやらねばならない。「ねえね」の存在は、その障害となる。ずっと、そう考えて来た錦木の前に現れたのが、隣で既に手を引っ込め微睡んでいる男だった。

 彼は衛生省医局長の息子であり、自身も病院で働いているという。色白なのは、研究で屋内に籠りきりだからだと語っていた。父の紹介で店を訪れ、父の金で錦木を買い、父の許しを得て身請けを決めた、と、何の疾しさも感じていない様子で話していた。生活に不満がある様子も見られない。経験が無かったのも、大切に育てられて来たからなのだろう。錦木を身請けする気になったのも、初めての相手だったというだけで、他の女を知ったら気が移るかも知れない。それでも、錦木を「美しい」と言って笑ったあの顔に、嘘は無かった。だから、これで良い。「りり」は廓から離れる筈だ。この胸の奥の違和感も、何れ「りり」が別の女を娶る頃には、きっと消えて行くだろう。


 ぱちりと炭が跳ねる小さな音に、錦木は目を覚ます。真夜中であっても客に合わせて起きる癖が染み付いた身体は、僅かな変化にも敏感に反応する。しかし、隣で眠っていた筈の男は、既に身を整え終えていた。気付いた男は柔らかく笑うと、錦木の頭の側に膝を付く。

「望月さん、」

 許しを乞う言葉を吐こうとした錦木の唇の前に、男が人差し指を差し出した。

「疲れていたのかな? 錦木さんがゆっくり眠れたのなら、僕も嬉しい。」

 そう言って男は錦木の頬を撫でた。冷たい手。

「君が体を壊したら、僕が怒られてしまうから。眠れる時には眠って欲しいな。」

 誰に、を男は言わなかったが、きっと父にだと察しはつく。廓の女に無茶を言うものだと思うが、それすら知らない純粋さを眩しくも感じた。錦木は体を起こす。男は「早い時間だから、見送りはいいのに」と笑いつつも、その冷たい手を差し出し、立ち上がらせる。錦木が身を整え終わると、男は少し迷う素振りを見せたが、やがて錦木を抱き寄せた。ほんの一瞬、重なる唇。そして、男の手が錦木の頬を優しく滑る。

「もう少し待ってね、錦木さん。準備が出来たら、迎えに来るから。」

 名残惜しそうな言葉の後、男は葡萄茶えびちゃの羽織を取り、そしていつもの様に、濃紅こいくれないに染め抜いた襟巻で口許を覆った。



 使用人が真っ青な顔で「孝晴が血塗れで帰って来た」と言うのを聞くや、東郷あまねは玄関を飛び出した。果たして其処には、鶯の文官服を血染めにし、頭から顔半分までを包帯で巻かれた孝晴が立っている。その隣には、烏羽の警兵服を纏う刀祢麟太郎の姿。更に、歩いて来た為なのだろう、後ろの方に遠巻きに見ている野次馬の姿も見える。麟太郎が一歩足を引き振り返ると、野次馬が漣のように引いてゆくが、恐怖よりも興味が勝るのか、逃げ出しはしないようだ。麟太郎は息を吐くとあまねの前に進み出て、「有坂様を送り届けにまいりました」と告げた。あまねは孝晴を見る。孝晴の表情は静かだが、その目に此方を拒絶するような色は見えない。

「何があったのです?」

「お前さんに酷ぇ事言っちまったから、自棄になって酒開けちまってな。酔って、すっ転んで、頭打って、皮を切った。血は随分と出たが、それだけだ。」

 あまねは麟太郎に目を向ける。麟太郎は頷いた。

「太田家の執事が通り掛かり、拾ってくれたそうです。処置は衣笠少尉が行いました。切った傷口は縫合したそうですので、今は、暫く休ませてください。」

 淡々と麟太郎は告げる。あまねにはそれが本当かは分からなかったが、少なくとも、孝晴が怪我を負っているのは事実だ。

「承知致しました。わたくしが、文書館に傷病休暇を届出ておきます。……有難う御座いました。」

 深く頭を下げるあまねに会釈を返すと、麟太郎は一度孝晴を見上げる。孝晴は表情を緩め、苦笑すると、「大丈夫だ」と一言告げて「離れ」の方に向かってしまう。着いて行こうとしたあまねは、残された麟太郎がじっと自分に目を向けている事に気付き、足を止めた。

「……。刀祢中尉。」

「はい。」

「貴方が見ている孝晴さんを、わたくしも……わたくしにも見せて頂けるよう、努力します。」

「……。」

 麟太郎は無言で頭を下げ、踵を返して去って行く。あまねには、自分の言葉が麟太郎にとって正しいものであったのか、分からなかった。



 書斎の中では、一人の青年が座って書類の整理を行なっている。紙の中身は、政策や議案に関するもの、支援者の取り纏め、遊説先候補と日程の調整、等々。纏めずに垂らされた髪が椅子の背に掛かり、青年の手元が僅かに動くのに合わせてはらはらと落ちる。暫くそのまま作業を続けていた青年は、障子の外から聞こえた声に手を止めると、身に合った背広を引き延ばすように、両手を上げて「うーん」と伸びをした。

「居るよ。入り給え。」

れい君、もしかして朝からずっと此処に居たのかい?」

 振り返った青年の目線の先で開いた戸から入って来たのは、勘解由小路鐵心だった。青年は目を細めたまま笑顔で応じる。

「君にばかり仕事を任せていては、申し訳が立たないからね。君が帰ったら渡せるように、作って置いたのだよ。」

 青年は立ち上がると、纏めた資料を掲げて見せる。鐵心は関心して息を吐いた。

「流石は禮君だな。僕は、書類仕事は少し不得手だよ。こうして歩き回る方が、性に合う。」

「慣れという所はあるかな。人間、時間さえ掛ければ、やって出来ない事など無いのだよ。それに、得意な分野を活かすのは、悪い事ではない。一人で成り立たない事も、こうして協力すれば、成し遂げられるものだからね。」

 話しながら青年は鐵心に近付き、鐵心が鞄から取り出した書類と手に持った資料を交換する。鐵心はそれを鞄に仕舞うと、青年に言った。

「そうだ、禮君。僕はこの後、少し時間を貰う事にしたんだ。川田先生にはお許しを貰ったが、君にも伝えて置くよ。」

「何か用事かい?」

「有坂家に見舞をしようと思ってね。」

 何気なく訊ねた青年は、その返答に、一瞬表情を硬直させた。しかし、常に笑みを浮かべている青年の表情は殆ど変化せず、鐵心はそれに気付かなかった。

「有坂家の誰かに、何かあったのかい?」

「御三男が、またお怪我をされたらしくてね。どうも最近、孝晴様には運がない。まあ……前回は僕の監督不行き届きというのもあるが……年末の挨拶も兼ねれば丁度良い。」

「そうか……問題は無いよ。私は先に昼食を取る事にしよう。午後も忙しくなりそうだからね。」

 青年は鐵心と入れ替わりに部屋を出ると、上着と帽子を取って身に纏う。屋敷から出て行く彼は、何時もと同じ笑みを浮かべていた。

(『怪我』か……。)

 笑みの下で、青年は考える。有坂孝晴は、間違い無く。少なくとも、武橋金次は動揺していたし、自分にもそう見えた。だが……。

「やはりあれは、『有坂の血』だったか。今度こそ、欲しいものだね……『我が仔』の為に。」

 小さく呟いた青年は、次の瞬間には既に、本日の昼食の内容に思いを馳せていた。



 太田榮羽音ヨハネは、一人部屋に閉じ籠もって布団を頭から被っていた。部屋の中はしんと静まり返り、榮羽音の不安と恐怖を掻き立てる。榮羽音の手の中には、便箋の束が握られている。鐵國に居る母から送られて来た手紙だ。鐵國で母と出会った父は、その身分に構わず母を娶り、二人の間には榮羽音が生まれた。榮羽音が五才の年に出会った鞠哉にも、母は自分の子のように接していた。父の帰国が決められた折、父は母を旭暉に連れ帰るつもりであったが、母はそれを拒んだ。低層の出身で旭暉語も分からない自分が着いて行っても、父の足を引っ張ってしまう、と。

 母は自分に出来る事と出来ない事をよく理解しており、父は何度も話し合ったが、最終的に二人は別れて生きる事を決め、父は榮羽音と、引き取った鞠哉と共に帰國した。父と母が離婚までした理由は、無知な榮羽音には理解わからない。しかし二人は間違い無く愛し合っており、母は現在、宿屋に住み込みで働きながら元気に暮らしている。手紙の遣り取りはそんな近況を知る唯一の手段である。母は榮羽音と同じように、何をやっても上手くいかない。洗濯物を干せば紐が緩んで全て落とし、料理をすればパイを焦がすか半生にし、当時の鞠哉に怒鳴られて泣いた事もあった。ただ、歌が好きで、鐵國や外ツ國の歌をいつでも歌っていた。怒られても、榮羽音のように落ち込む事は無く、歌を歌うと元気になれるのだと言って、すぐに切り替えていた。そんな母が榮羽音は大好きで、そして憧れでもあった。何でも一人で出来る優しい父も、榮羽音の憧れだ。そして、鞠哉も……。

「……。」

 榮羽音は手紙を握る手に力を込める。昨日の夜、鞠哉は帰って来なかった。異人街のユーリから遅れると連絡はあった為、交通手段が無くなり帰って来られないのではと、父は迎えを送っていた。金次が訪れたのは、その時だった。彼は榮羽音を呼び出すと、唐突に尋ねた。


 ――お前、人を殺した事はあるか?

 ――勿論だ、俺だってお前がそんな奴だとは思ってねぇよ。

 ――ただ、お前の執事はどうだろうな?

 ――お前は、あいつが何をしてるか、全部知ってる訳じゃ無ぇだろ。

 ――お前の嫌いな相手が、そのうち死体になって出て来るかも知れないぜ。


 鞠哉は、昼になる前に帰って来た。疲れているようだったが、仕事の様子は何時も通りだった。しかし、鞠哉の帰りが遅くなった理由を父から聞いていた榮羽音は、何時ものように接する事が出来なかった。……怪我を負った有坂孝晴を手助けした。その怪我というのは、本当に偶然負ったものなのか?――鞠哉が、自分の為に、有坂孝晴を排除しようとしたのでは?

 そんな筈はない、鞠哉は、人を殺そうとなんてしない。けれど、鞠哉は暴力を振るう事に躊躇しない。鐵國に居た頃は彼の拙い言葉や容姿を笑った者に拳を振るい、榮羽音は何度もそれを見て怖くて泣いた。旭暉に来てからも、榮羽音が誘拐されかけた時、何人もの大人を相手に殴り合いを演じた。その時は自分を守る為であったし、今はそれが頼もしい部分でもある、のだが。

(マリーは、僕の為に、間違った事をしてるの……? でも、ママ、僕、どうすればいいの。だって僕、何も出来ない……いつも助けられてばっかりで、僕がマリーにしてる事なんて、なんにもないよ……。どうしたら……僕……。)

『マリーが僕の知らないマリーになっちゃったら、僕、嫌だ……。』

 じわりと視界が滲む。泣き虫な自分が大嫌いだ。弱虫な自分も、大嫌いだ。直接尋ねる勇気の無い、意気地無しの自分も、大嫌いだ。大嫌いな自分しか居ないこの部屋で、瑛羽音は疲れて眠ってしまうまで、布団に隠れて泣き続けていた。


「帝國の書庫番」

丗幕「感染」

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