帝國の書庫番 廿三幕

四角に切り取られた空の中で、月灯りは雪に煙る。


 壁の中を這う配管に、暖気を通しているのだろうか。外は雪に覆われているが、寒さは感じられない。洋燈の灯る部屋の中、三人はそれぞれに向かい合っていた。より正確に言えば、円形の机を挟んで座る留子と孝晴、そして一人机の横に立っている麟太郎という構図。麟太郎は丁度二人の中間に位置を取って、眉を寄せて何か考えている孝晴と、ちらちらと二人の顔に向けて交互に目線を遣る留子を、無表情で眺めていた。彼女は何やら罰が悪そうな顔をしているが、麟太郎には、その感情の裏で彼女がどんな思考をしているのかは分からない。それに今言うべき事は、孝晴が言う筈だ。やがて孝晴は、ふう、と一つ息を吐く。留子が微かに身を震わせた。

「先ず、教えて頂けますか。お嬢様は何故、『私と麟太郎が二人になる状況』を作ろうと思ったのです?」

「えっ、」

「麟太郎に逢いたいが為に私を隠れ蓑に使ったのなら、私を同じ部屋に通すなどという間違いは犯さないでしょう。それに、貴女は部屋の扉の前に立ってから、中に入ろうとはしなかった。だろ? お麟。」

 顔を上げて絶句した留子に一度目を向けた後、麟太郎は此方を見ている孝晴に向かい、一つ頷く。

「留子お嬢様に、中に入ろうとする気配はありませんでした。」

「えっ、えっと、お二人は、戸が閉まっていても、そこまでお分かりになったのですか……?」

「気付いたのは麟太郎です。そうした方面は、麟太郎の方が私より鋭いので。」

 肩を竦める孝晴であったが、留子の顔から混乱の表情は消えない。麟太郎が淡々と補足する。

「私が貴女の存在に気付いてから、ハル様と私は、貴女の出方を伺いました。けれど、貴女の気配は扉の前から全く動きませんでした。」

「お嬢様の性格なら、心を決めていれば行動に移しますし、決めかねていても、きっと動き回るでしょう。それで、『想い人が居る部屋に入るのを躊躇っている』と取るには、どうも違うのではないか、と感じまして。それで、お嬢様が始めから、私と麟太郎を会わせる事を目的としていたと考えるに至った訳です。」

 麟太郎に続けて極力穏やかに話す孝晴の言葉を聞きながら、留子は目を丸くしていたが、やがて「そうです」と言って一度目を閉じると、ゆっくりと瞼を開く。その時には既に、留子は真っ直ぐに孝晴を見据えていた。どうやら、迷いは消えたらしい。

「怪我のお詫びというのは、確かに建前です。けれど、これだけは信じて下さい。わたしが、孝晴さまにゆっくりと休暇を楽しんで欲しいと思っていた事、それは嘘ではありません。」

 留子は言った。

「わたしは、じいやとそれ以外の皆に、別々の内容を伝えました。じいやだけに、『この部屋を孝晴さまが使う事にして開けておいて、実際は別のお部屋へ孝晴さまを案内するので、この部屋で麟太郎さまと会う』と言ってあるんです。だから、皆はこの部屋が孝晴さまの部屋だと思っていますし、じいやは、この部屋は麟太郎さまと会う為の部屋だと思っています。もう就寝の挨拶は済ませてありますし、じいやは当然わたしが麟太郎さまと会うものと思っていますから、この部屋に人が近付かないようにしてくれているでしょう。」

 そこで一度、彼女は言葉を切る。顎に指先を当てて留子を見ている孝晴は無言だったが、麟太郎は首を傾げた。

「何故、そのように嘘を吐いてまで、私とハル様を鉢合わせさせたのですか。」

「それは……、それは、お家からも離れた場所で、信頼なさっている麟太郎さまと交わす会話を聞けば、孝晴さまの事がもっと理解できると思ったからです。」

「へっ?」

 逡巡する素振りを一瞬見せるも、留子はきっぱりと言い切った。そして、その内容には流石に思い至って居なかったらしく、孝晴が気の抜けた声を上げる。真ん中で双方の様子を見ている麟太郎は、二人の立場がそっくりそのまま裏返ったようだと、目を丸くしている孝晴を見て思った。直ぐに口を開いた孝晴だが、きっと、彼の体感で呆然としていたのだろう。それを目視する術は、麟太郎も含め、誰も持ち合わせていないのだが。

「失礼、何故『私』なのですか。お嬢様が知ると約束を交わしたのは、そこの麟太郎についてでは?」

 ゆっくりと表情を戻し、孝晴が訊ねる。留子は首を振った。

「わたしが『互いを知ってからお返事を頂きたい』と麟太郎さまにお願いして、それを了承して頂いたのは、間違いありません。けれど、わたしが自身の気持ちの成就を願うなら、麟太郎さまを大切になさっている孝晴さまの事を、知らないままで良いとは思えません。……御屋敷から離れた場所で、麟太郎さまとなさるお話には、孝晴さまのお心が表れるのではないか。それを聞けたら、わたしにも、あなたの事がもっと分かるのではないかと思ったんです、孝晴さま。」

「私を家のしがらみから離そうとして、こんな事を?」

「これくらいしなければ、あなたは本心を明かしてはくれないと、わたしは思っています。」

 留子の言葉に、孝晴は肘をついた手を口許に当てて黙り込む。しかしその沈黙は直ぐに、麟太郎によって破られた。

「留子お嬢様は、扉の外から、私達の話し声や、少なくとも動き回る物音などを、聞き取る事が出来ましたか。」

「えっ……。」

 麟太郎は留子をじっと眺めている。何も知らない人間であれば、それだけで恐れ慄くだろう。しかし、そんな無感情な目を向けられながらも、留子は再び顔を赤くして、ぽつりと言った。

「その……、全く聞こえませんでした。」

「でしょうね。訓練も道具も無しに、中の音が聞こえるほど、この部屋は、壁も扉も薄くありませんから。」

 麟太郎は孝晴に顔を向ける。二人の会話で察していたのか、孝晴は頬を既に緩めていた。

「ってぇ事は、お嬢様、盗み聞きが目的だったってのに、一発勝負で扉に貼り付いたんですか。」

「そ、そうです! だって、聞こえないなんて思わなかったんですもの……。」

「っ、ははっ! いや、失礼……。」

 留子が顔を赤くしながら頬を膨らませ、それを見た孝晴が笑い声を上げる。やはり、留子はまだ十五の娘なのだ。詰めが甘い。しかし、自分の目的を達する為には、ここまでの手段も取れる女。政治家の娘とは言え、末恐ろしいものだ。いや、このような部分も、あの勘解由小路大臣が評価する所なのかも知れない。

「お気遣いは有難いですが、私にこれ以上お話出来る事はありませんよ。」

 肘掛けに頬杖をつきながら孝晴は笑みを浮かべて見せるが、留子は頬を膨らませたままだ。だが、やがて彼女は一つ息を吐く。流石の彼女も諦めたのだろうかと、麟太郎は一つ瞬きをした。


 留子は、自分の膝に目を向ける。其処には自分の手が並んで置かれていた。何の力も無い、子供の手だ。分かっている。――それでも。

「孝晴さまは、嘘つきですね。」

 留子はポツリと、しかしはっきりと言い切る。黙り込む孝晴。麟太郎は、目を細めた。留子は少しだけ俯く。このような詰め寄り方をしたら、麟太郎に嫌われてしまうかも知れない。そんな恐れが、心中に過ぎる。しかし、彼女の性格では、言葉を留めても置けなかった。彼女には確信があったから。

「わたしが、『始めから終局の盤面が見えているようだ』と言った時の、孝晴さまのお返事は、嘘だったのでしょう? 孝晴さまが考えている時には、目線が盤上を殆ど動いていませんでしたもの。今までの対局では、目が何処を向いているか悟られないように、瞑って考える方はいらっしゃいました。勿論、盤面全体を見るのは当然ですが、それであっても、ある程度視線は動き回ります。孝晴さまには、それが全くありませんでしたから……だからわたしは、ああ言ったんです。名人には、そのように表現される方も居ますから。でも、孝晴さまは、否定されました。それも、どこか自分を卑下するようにして。もしかしたら、そこに孝晴さまの悩みがあるのではありませんか? わたしは、自分だけが幸せになれば良いとは思っていません。あの夜に感じた孝晴さまの苦しみは、未だあなたの中にあります。知ってしまったからには、知らない振りは出来ません。力になりたい。ならせて欲しい。だから……あなたが、苦しんでまで嘘を吐かなければならない理由を、知りたかったんです。」

 留子は一度に言い切った。孝晴はそれを遮らずにじっと聞くと、視線だけを横にずらす。その先には、麟太郎が居る。孝晴の視線の動きを感じ取り、麟太郎は孝晴の方に顔を向けた。

「お麟。」

「はい。」

「お嬢様を餌にして俺を釣った時、お嬢様がここまでするって予想してたかぃ?」

 麟太郎は首を振る。

「ただ、留子お嬢様なら、有り得ない事では無いかと。」

 麟太郎は、留子に初めて求婚された時、彼女が一晩で駐屯地への立入許可証を手に入れていた事を思い出す。あれも常人が簡単に出来る事ではない。そして麟太郎は既に、彼女から思いを明かされている。

「彼女がハル様を案じておられるのは、本当です。」

 気色ばんだ顔で黙っている孝晴に、静かに麟太郎が言った。孝晴は目を閉じて後頭部をがりがりと掻き、


「この簪、お会いする度に着けていますね。着物や装いに関わらず。大切な物なのですか?」


 後ろから聞こえた孝晴の声に留子が驚いて振り向くと、目の前に座っていた孝晴が、留子の後ろに立っていた。その手には、見覚えのある飾り簪がある。

「そ、それはその、……って、え? 孝晴さま、それは、わたしの……?」

 留子は思わず、簪が差さっていた筈の頭に手を当てる。ある筈のものは其処に無かった。間違いなく留子の簪のようだ。そしてそもそも。

「孝晴さま、いつ、わたしの後ろに、」

「私が何故嘘を吐くか、でしたね。」

 孝晴は留子の言葉を遮り、留子の髪を優しく指先で梳くと、簪を元通りに差し直してやる。その様子を、麟太郎はその場から動かずにじっと見ていた。

「端的に言いましょう。

――私は、人間じゃあ無いんです。」

 孝晴の方を振り返っている留子の表情は、麟太郎からは見えない。しかし、孝晴が何故笑みを浮かべているのか、その理由は麟太郎には分からなかった。



 部屋の硝子窓に触れると、ひんやりと冷たさが指先に伝わる。月の部屋が二階に移ったのは、医者が代わってからだ。もう、十年近く前の事。それまでは月も、きりの世話を手伝ったり、初と共に散歩に出かけたりしていた。しかし体を壊しやすい月は、その日外出から帰ると、普段より酷く熱を出してしまった。父の雷が侍医に落ちた。新しく来た医者は、月に外出を許さなかった。風邪を引くからと極力外気にも当たらないように、管理されたこの部屋の中で過ごす日々。湯浴みや手洗以外は、食事も、勉学も、部屋の中。当時はもっと多くの使用人が居た。姉妹も、毎日必ず遊びに来た。それでも、月は一人だった。食欲は減る一方だった。いつしか、足が立たなくなった。掴まり立ちでなんとか歩ける程度にしか、月の足は動かない。少し動くと疲れてしまう。そんな状況が変わったのは、父が死に、異母弟の理一としかずが家督を継いでからだ。彼は月に優しい。けれど、それが逆に、家族としての繋がりを感じさせないのだ。厳格で殆ど女達を顧みる事の無かった父と、軍で働きながらも献身的に月の世話をする理一。容姿も全く自分達と似ていない。そもそも、理一がまともに姉妹と顔を合わせるようになったのは、ここ五、六年のことだ。姉妹とさえ余り接して来なかった月は、彼を身内だと認識出来なかった。

(いい人、なのだけれど。)

 理一は月の環境も劇的に変えた。月は外に出たら病に罹ると聞かされ、それを信じて来た。そんな自分に、外に出なければより身体が弱っていくと説き、日光浴と外気浴を促し、彼自身がおぶってまで、外出にも連れ出してくれる。けれど月は、その「医者」としての彼しか知らない。

 月は椅子を回し、向きを変える。この回転する椅子も、どの方向からでも座ったり立ったりしやすいようにと、腕の良い家具職人に作らせたものらしい。椅子を向けると、目の前には卓がある。その上には紅い茶と、棗の入った小鉢。そして隣には、理一が用意してくれた手詞の教本がある。棗を箸で摘んで口に入れ、ゆっくりと噛めば、素朴な甘さがじんわりと口内に広がる。茶を一口。香りが鼻腔に抜けてゆく。美味しい。時間をかけて少しずつ、よく咀嚼して飲み込む。そうして食べ終わってから、月は生白い手を教本に伸ばした。既に何度か読み返したが、手の動きで会話を試みるとは、面白い事を考えるものだ。冊子の表紙を眺め、月は思う。今まで与えられたものだけで生きてきた自分が、初めて自分から興味を持ち、勉強したいと思った。だから理一も、驚いていたのだろう。しかし、自分でもそう感じた理由は分からない。ただ、透子ともっと話してみたいと思ったのだ。

(どうしてかしら。女のお医者様が珍しいから?)

 勿論、月が明かしていない不調も見抜いたほど、優れた診察力を持つ医者だから、信頼できると感じたという事もあるだろう。理一が「一度診て貰って欲しい」と言ったのも、納得できる。だが、それだけでは無いような気もする。月は細く白い首を少し傾げるが、特に結論を出す事も無く、瞼を伏せる。沢山考えて疲れてしまった。月は食事を終えた事を知らせようと、呼鈴に繋がる紐に手を伸ばす。

 その時、部屋の扉が叩かれる音がして、月は思わず手を引っ込めた。

「月ちゃん? 今、良いかしら?」

 扉の外から聞こえたのは、姉の初の声だ。

「大丈夫よ、姉様。今、食べ終えてしまったところ。」

 月が応えると、静かに扉が開けられる。初は部屋に入って来ると、卓上にある空の器を取り、盆に乗せた。

「ついでに、これは私が持って行ってしまうわね。月ちゃんにお客様がいらしているの。入って貰っても大丈夫?」

「私に? どなた?」

 不思議そうな顔をする月。初は微笑みを浮かべながら、「どうぞ、月は此方におりますわ」と廊下に向かって声を掛けた。言われて姿を見せたのは、脚絆に襷を掛け、風呂敷で包んだ薬箱を背負い、――顔の下半分を布で覆った、壮齢の女。

「透子さん……?」

 目を丸くする月に向かい、透子はにっこりと笑うと、綴じた洋紙を一枚めくる。

【こんばんは、月さん。薬を届けた帰りに、会いに来てしまいました。迷惑でなければ、少しおしゃべりしませんか?】


「帝國の書庫番」

廿三幕「朧夜の内」

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