帝國の書庫番 七幕
雨夜の憂い。女の目に映るものは。
「
格子窓の隙間から眺めれば、雨粒が瓦に当たって流れ落ちていく様が見える。ちらりと目線を横から上に向けると、直立不動のまま、睨むように外を見ている白衣の男の姿がそこにある。普段着用している眼鏡をかけていないのは、彼が遠くに目を凝らしているからだ。その美しい横顔には、苛立ちの色がありありと浮かんでいる。
「……衣笠様。聞きなんし。」
女は気遣わしげに声を掛けた。男――衣笠理一は、黙る事で先を促す。
「此処からじゃ、見えるものなどありんせん。
「だからって、
ぎり、と怒りに任せ歯を鳴らす理一。女も気持は同じだった。「
「……衣笠様、知ってありんすか。禿が消えているのは、この店だけじゃありんせん。」
「!」
「茶屋と客から聞きんした。店の場所や規模に繋がりもない、と。」
「場所も、規模も、無関係……。」
理一は驚いた顔で女を見たが、すぐに何かを考え始めた。そして小さく、呟く。
「堀……?」
しかしその瞬間、理一は勢いよく背後を振り返った。隣の女が思わず身を震わせるほどの激しさ。その勢いのまま、理一は女の腰を抱えて部屋の角まで一直線に飛び
「静かにして下さい。」
低い声に、射殺すような鋭い目。しかしよく見れば体躯は小柄だ。濡れて埃に塗れた為、
「『それ』を下ろしやがれ。」
「お二人が、騒がず話を聞いてくださるのであれば。」
「その細腕今すぐへし折ってやろうか? クソガキ。」
「……後ろに転がっている『あれ』が、貴方が追っている件の下手人です。」
思いがけない言葉に、理一が目を見開いた。それを見た少年は、再び「騒がずに話を聞いてくださいますか」と淡々と問う。女は理一を見上げた。武器を向けてはいるが、この警兵に害意は無いのではないか。理一はちらと女を見遣り、周囲の気配に変化がない事を確認すると、厳しい目付きのまま言った。
「名乗れ。」
「……。」
「
「東都東茅野兵団所属、刀祢麟太郎警兵少尉です。所属の詳細は今は関係ないので、話をしてよいですか。」
「……ちっ、分かったよ。」
この子供が真に警兵の身分であるかは、理一であれば後でも確かめられるだろう。言われるままに武器を仕舞った相手に、警戒を解くまでは行かないものの、理一は少年についてもう一人の男を見遣る。部屋中に満ちる雨と泥の臭い。そちらの男も濡れ鼠で、どうやら轡を噛まされ手足を縛られているらしい。
「で?」
理一が冷たく訊ねる。刀祢と名乗った少年は淡々と答えた。
「廓内で少女が消える件について、私の『
「待て、要点以外をもう少し言え。こいつが犯人ってのは間違いないのか?」
「先程、貴方も気付いたではありませんか。『堀』だと。」
少年の返答に、理一は「聞いてやがったのか」と呟いたが、はっと顔色を変える。つまり彼は、天井裏に居た二人の存在に、全く気付けなかったのだ。言葉を失った理一を意にも介さぬといった風に、少年は続ける。
「経緯は省きますが、『主』がこの件は事故などではなく『人攫い』であると知り、方法と犯人に目星をつけたので、私がそれを確かめて捕らえました。」
少年は一度目線を下げる。
「『これ』は漁民で、潜水の達人です。廓の堀は外部からの防衛を目的としていませんから、潜ってしまえば渡り切るのは容易い。大雨の日を選ぶのは、水嵩が増して堀から上がり易くなる事と、濡れたまま歩くのに都合が良いからです。そもそも人目にもつき辛いですし。そして雨が降っていても廓の少女達は裏で働いていますから、何かの用で外に出た隙を突いて堀に引き摺り込み、通水路に流して後で遺体を引き上げるんです。」
「……なら子供らは、ここから消えた時点で、死んでたって事かよ。何でわざわざ殺してから連れ出したんだ。」
「聞きたいのですか。」
少年は、一度目線を女の方に向けた。その目から感情は全く読み取れない。しかし、彼が目を向け直した理一の方は、足元に転がる男を射殺さんばかりだった。男が大人しいのは、拘束されているというだけでなく、「怯えている」からであると、見ているだけの女にすら伝わる。それほど、理一の怒気は凄まじかった。理一の無言を肯定と捉え、少年は一度目を閉じると、言った。
「犯すんですよ。遺体を。」
ボギン。
関節が砕ける音と、男のくぐもった悲鳴が小さく聞こえた。理一が、男の肘を踵で踏み抜いていた。少年は語調を変える事なく理一を見遣る。
「殺さない方がよいですよ。」
「……。」
「因みに、『現場』も確認しています。今夜も、そうして堀から上がったところを捕らえて来ましたので。」
「始めから、俺に押し付けるつもりで、か?」
「はい。」
迷う素振りすら見せず即答した少年は、「話を戻しましょう」と静かに言う。その表情は、仮面でも被っているかのように、全く変化しない。
「始めに言ったとおり、私は此処に居たと知られる訳にはいきません。貴方も目的が果たせます。協力していただけますか。」
理一は震えながら涙を流している男と、無表情の少年を交互に見遣り、目を細めた。
「例えこいつが本当に犯人だったとして、手前を信用できる要素がない。」
「……。」
「確かに、廓内の問題は
理一の声音は厳しい。少年は腕を組み、少しだけ考える素振りを見せたが、首を傾げ、言った。
「では、私の秘密をお渡しします。」
「は?」
「貴方は、衣笠家の方ですね。であれば、問題ないでしょう。私の師は旧幕府の庭番です。……ここに忍び込めた理由としては、これで充分ですね?」
「なっ……、」
「もう、時間がありませんので、お任せします。私が『自分と師の処遇』を貴方に委ねた事、お忘れなく。……さて。」
絶句した理一の足許に少年は屈み、転がる男の髪を掴むと、頭を引き上げ目を合わせる。
「貴方、と呼ぶのも嫌気がさしますが。貴方は『子供だけでは満足できなくなり、遊女を狙って侵入したところ、こちらの衣笠伯爵に気付かれ、捕らえられた』。そうですね?」
男は肘を砕かれた痛みに啜り泣くばかりだったが、少年がビードロの玉のように無感情な目で「そうですね?」と念押しすると、辛うじて頷いた。すぐに少年は男の頭を放り出して立ち上がり、理一を見る。
「……他に詳しい話が聞きたいのであれば、次の非番……一週間後に私を訪ねてください。では。」
そして少年は、濡れた服の重みを物ともしない身軽さで天井に向かって飛び上がり、彼が開けた穴の中に音も無く消えて行った。落ちる時も、彼が音を殺していたのだろう。理一が呆然とするのも無理はない。旧幕府の関係者というだけでなく、それが「庭番」――幕府お抱えの諜報・暗殺部隊、単純に言えば忍集団――であるとなれば、新政府が成立し三十年以上経ったとは言え、表立って東都を歩ける立場ではない。そんな秘密を呆気なく明かして行くとは。少年が去った天井を見上げながら、理一がぽつりと呟いた。
「あいつ……馬鹿なのか?」
雨夜の逢瀬は、嫌でもこの記憶を思い出させる。磨き上げられた板張りの廊下を通って部屋に向かいながら、女は息を吐いた。襖が開かれれば、そこには見慣れた白衣の姿。煙管を咥える横顔は、自分など及ばないほどに美しい。その目がゆっくりと女を捉え、穏やかに細められる。
「いつもより遅かったな。」
「女を急かすのは、無粋でありんすよ。」
「言うじゃねぇか、
「お好きにしなんし。」
煙を細く吐いて煙管を置くと、理一は白衣と軍服を脱いでゆく。女も同じく、邪魔な帯を早々に解いて座した。眼鏡も外し、綿の肌着だけを纏った理一は、飛び付くように女の腰に抱き付き――
「ねぇーねっ! ただいま!」
満面の笑みを浮かべ、ぎゅっと、女を抱き締めた。そこには、肉欲など欠片もない。女――錦木は、苦笑しながら理一の頭を撫でる。
「りり、あんた結局、一度も廓言葉を使わないね。あたしは教えた筈なんだけど。」
「あたしはお客様じゃないもん。ねえねは、あたしに他人行儀に喋って欲しいの?」
顔を上げ、子供じみた仕草で頬を膨らませる理一。錦木は、彼の――りりだった彼の世話を任されていた、南天太夫付きの禿だった。あの頃の彼にとっての「ねえさま」、錦木にとっても共に育った仲間達のうち、生き残ったのは、もう、自分だけだ。彼の母も、大人になった彼を目にする事なく死んでしまった。だからなのか、理一は錦木の前でだけりりに戻る。本人曰く「口調がそうなるだけ」らしいが、錦木には、彼の中にあの頃の「少女」がまだ存在しているようにしか見えない。それに、錦木にとっても、あの雨の日に、目の前で泣きながら連れ去られて行った「妹」の
「ね、やっぱり今日は元気ないね。雨だから? それとも、体が悪いなら、あたし
「体は悪くないよ。雨だからね、どうしても思い出すんだ。本当に惨い事だったよ……。」
敢えて錦木は、理一と別れた日の事は言わなかった。彼にとっても触れられたくないと分かっていたから。理一は錦木を見上げ、ふわりと笑った。
「きっとあの子達は成仏できたよ。麟太郎が弔ってくれたから。」
「海に流された遺体も、出来るだけ引き上げて埋めてくれたんだっけ。」
「うん、あいつ、ほんとにいい奴だから……たまにちょっと心配になっちゃう。」
あんなことする馬鹿だし、とクスクスと笑い声を立てる理一。あの時、刀祢麟太郎が現れなければ、そして聞いた話によると、その指示を有坂家の三男が出さなければ、更に被害は増えただろう。二人は、理一にとっても錦木にとっても「家族」を守ってくれた恩人だ。尤も、二人とも廓を訪れないため、錦木はあの時の「恐ろしい警兵の少年」である麟太郎以外を目にした事はないのだが。
「あんたの話を聞いてると、麟太郎って子も、有坂様も、いい友達みたいで安心してるよ、あたしも。」
「友達……かぁ。」
「違うのかい?」
不思議そうに訊ねる錦木に、理一は苦笑した。
「あたし、意外と敵が多いから。あたしは二人とも友達だと思ってるけど、うーん、『協力者』くらいに言っておいた方がいいかも。」
「それじゃ寂しいじゃないか。」
「男にも色々あるんだよ。」
そう言って理一が浮かべた諦めを孕んだ笑みは、驚くほどに彼の母――南天に生写しだ。初めて彼が店に来た時、楼主が暫く動けなかったという話も頷ける。十七の理一が、廓入りした頃の南天と、余りにも似ていたから。南天も、凛々しく気高く努力を惜しまず、しかし時折見せる諦観と儚げな表情が、大輪の花と可憐な小花を束ね合わせたかの如き美を紡ぎ出すような女だった。
『あたしは、この子に悪い事をするよ。』
生まれたばかりのりりを抱いた南天は、まだ幼い錦木の前で言った。
『あたしはね、ここに入った時から、まともに子を産むなんて、諦めてた。けどね、買われて産んだとはいえ、この子は、あたしの子なんだって思うとね……どうしようもなく、愛おしいんだよ。手放したくない。……この子はきっと、人一倍苦労する。あたしは、恨まれても仕方ないね。何も分からないこの子に我儘を押し付けるなんて、最低の親だ。』
子を為す事、その喜びなど、当時の錦木には分からなかった。けれど、赤子を抱く彼女の慈愛と諦めの混ざった儚い笑みは、まるで天女のように美しかったのだ。
錦木は、そっと理一の頭を撫でる。理一は逆らう事なく目を閉じる。畳に横たわるその体は、細くしなやかではあるが、鍛え抜かれた男のそれだ。しかし、そう意識してしまえば、「家族」としての関係は壊れるだろう。彼が、唯一心の中の「彼女」を曝け出せる場所を、守ってやりたい。その気持ちに偽りは無かった。
「何かあったのかい?」
「……。」
「あんたがくっついて離れないのは、大概そういう時だよ。」
昔からね、と付け加えれば、理一は少しだけ、抱き付く腕に力を込めた。
「暫く、ここに来られなくなるの。」
「忙しくなるのかい?」
「ううん、違う……これはあたしの所為……。でも、ねえね達まで馬鹿にされた気がして、我慢できなかったの。」
「何があったか知らないけど、りり、あんたって冷静なのに短気だよねえ。」
「そうかもしれない、ここのみんなの事を考える前に、手が出ちゃった。」
「手って、あんた……。」
錦木がその先を続ける前に、理一は顔を上げ、有無を言わさぬように錦木の目を見据え、言った。
「あたし、謹慎処分になったの。だから暫くここには来られない。」
理一の目の奥は、何かを覆い隠すように薄暗い。錦木は何も言えなかった。話す者の居なくなった部屋の中には、ただ、雨音だけが空虚に響き渡っていた。
帝國の書庫番
七幕 「錦木」
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