祭灯り・上
「頼みたいことがある」
祭を数日後に控えた、豊秋原稲荷大社の境内の脇。
そう言って使いの仕事が終わり帰ろうとしていた訪問者―葵葉を呼び止めたのは、彼にとっては少し意外な人物だった。
「私に…ですか?何でしょう」
頼み事をしたいとは思えないほど「不本意だが」、「嫌々ながら」と言わんばかりの表情を張り付けている人物に向かって、葵葉は人当たりの良い笑みで以て問い返す。
「…」
その問いに返事はなく、代わりに長い前髪の下に覗く深い黒色の瞳が、射貫くような視線を寄越す。沈黙の中、何か彼の機嫌を損ねるようなことをしただろうかと頭の端で記憶を巡らすが、思い当たることはない。元より葵葉は彼から、というよりここの神仕からは何かと邪険に扱われている自覚があった。
「えーっと…刀羅君?」
沈黙に耐えかねて名前を呼んでみると、刀羅の表情に「不愉快」の三文字が追加された。
ややあってようやく、刀羅の口が重々しく開く。
「灯華様の、護衛を頼みたい」
「…ん?」
背後で響く眷属達の活気ある声に紛れて、刀羅の口から零れた言葉がまるで蚊の鳴くようなそれで、葵葉は思わず首を傾げた。
その様子に、「だからっ」と刀羅は苛立つようにして声を荒げた。ただし、2人以外には聞こえないような声量で。
「灯華様の、護衛を頼みたいんだ!」
灯華の護衛。刀羅からの依頼にして思いもよらない内容に無意識に目を瞬かせれば、次いで出たのは「俺だって本当はこんなこと頼みたくはない」というにべもない言葉。
本人を目の前にしてその言いようはどうかと思うが、刀羅の葵葉へのこの態度は今に始まったことではない。刀羅の敬愛する主―灯華と葵葉が旧知の仲という一点において、刀羅はどうにも葵葉への警戒心を緩めず、常に敵対心を抱いている。宇迦之御霊神の神仕として、主の一番の理解者でありたい、一番に信頼される者でありたい、という願望は同じ神仕として理解できる。だからこそ余計な誤解を生まぬよう、灯華と親しい関係を保つにしろ一線は画していたし、配慮してきたつもりだった。
それでもいまだに、灯華とただ話をしているだけでも殺気を放たれながら監視される始末だ。
そんな状況下で持ち掛けられた依頼はあまりに予想外で、言葉の語尾にはどうしても疑問符が付いた。
「それなら、何故私に?」
心底不思議そうに、けれど終始平静を保ったままの葵葉の態度を見、刀羅はようやく冷静さを取り戻したのか、一度大きく深呼吸をすると、歯切れ悪くも話し出した。
「灯華様が、祭を見てみたいと言ったんだ」
「この
刀羅が首肯するのを見、葵葉がちらりと境内を見遣る。
対面する2人に構わず、準備のために社の者達は総出で境内中を慌ただしく駆け回っている。
如月の初めに豊秋原稲荷大社で行われる初午祭は、全国の狐が集まる稲荷社の大祭だ。毎月のように行われる各種神事や祭りの中でも特に規模が大きいと聞く。
燈篭に狐火を灯し、舞や雅楽の奉納が行われ、社に続く参道や門前町には屋台が数多く並び、人も狐も絶え間なく参拝者が訪れる。
「…直接見たいと頼まれたわけじゃない。ただ、そう言っているように聞こえて」
国津神でありながら、灯華は町に出たことは一度もない。人の世は神にとって近く、それでいて触れることはできない遠い場所でもあった。主がそこへ立ち入ることを望むのを、刀羅は一度も見たことがない。
けれど、準備の傍ら見かけた主の姿は。
参道へ続く階段の最上段に立ち、幾重にも連なる鳥居の向こうを見つめる灯華の瞳は、どうしようもなく、鳥居の外の景色に焦がれるように見えて。
「灯華様が狐も人間も大切に想っていることを俺達は知ってる。だから灯華様が望むなら、近くで見てもらいと思ったんだ」
「…祭の時だけは、人と神の世の境界は曖昧になるんでしたね」
「あぁ」
人や妖怪が神へ祈り、神もまた人の世に想いを一層寄せる祭の日。普段は隔絶した境界が引かれる2つの世が、寄り添い合い緩やかに混じり合う。国津神が人の世に触れることも、少しばかりは許される。逆に言えば、そうであっても彼女は、その機会を今まで一度も利用することはなかった。
「本来なら俺達が一緒に行くべきなのはわかってる。けど、俺達は祭の準備で手が離せない」
いくら世が平和になったからと言って、必ずしも神の身に危険がないとも限らない。葵葉の脳裏に、彼女に一方的な恋慕を抱く厄介な火の神の姿が浮かぶ。彼女を境内の外でひとりにすることが心配なことには同意できた。
唐突だった依頼の目的を理解した様子の葵葉に対し、刀羅は少し拗ねたように口を尖らせる。
「そもそも灯華様おひとりなら、きっといくら俺達が勧めても行くとは言って下さらないだろ。だから頼みたいんだ、不本意だけどな」
不本意と言い切られたし相変わらず頼み事をする口調からは程遠いが。
「貴方なら、灯華様を必ず守ってくれるだろ」
真っ直ぐに葵葉を見据える瞳に、確固たる信頼の色が射すのを葵葉は見た。これは刀羅個人としてではなく、宇迦之御霊神の神仕から月読命の神仕への依頼だ。自分の大切な主を守ってくれと言えるほどの信頼を、月読命の神仕には寄せてくれている。刀羅の目から視線を逸らすことなく見返して、葵葉は穏やかに微笑んで見せた。
「えぇ。もちろんです」
その言葉を聞くや否や、刀羅は仏頂面のまま手に持っていた包みを葵葉の手に押し付けた。
「明後日の宵の口、階段下の楠の前にこれを持って行ってくれ」
持たされた包みを解くと、そこには白い布を付けた狐を模した狐面が2つ。
「これは?」
「祭で使う面だ。祭に参加するひとは皆、この面を身に付けて参加する」
「へぇ…、絵柄が違うんですね。身に付けることに何か意味はあるんですか?」
手にした狐面をまじまじと見つめながら何気なく訊ねた葵葉の傍らで、刀羅の顔が一瞬曇る。
「その理由、俺知ってるよ」
唐突に葵葉の頭の上から声が降ってきた声に2人が揃って顔を上げれば、そこには葵葉の式神の一体、浅葱が得意げな面持ちで宙を泳いでいた。
偵察を得意とする浅葱は、普段から葵葉の意思とは関係なく自由に周辺を飛び回っては観察や情報収集をする癖がある。また彼の知らないところで、祭りの準備でも見て来ていたのだろう。
手のひらに収まる大きさの式神は、葵葉の肩にふわりと座ると意気揚々とその情報収集の成果を披露する。
「ここの主祭神がまだ幼い頃、人間の姿を取るのが苦手で、狐の耳が隠せなかったんだってさ。そのままだと人間じゃないことがすぐにばれてしまうから、いっそ人間も狐も皆狐の面を付けて、誰が人間で誰が狐かわからなくしてしまおうってなったわけ。人間に化ける狐の主神様も、気兼ねなく祭に紛れられるように。って」
「合ってるだろ?」と浅葱がにやりと笑いながら刀羅を見れば、「そんなのただの作り話だ」と刀羅は渋い顔で鼻を鳴らす。
「大体灯華様が、人の姿を取るのが苦手なわけがないだろ!」
そう言い切る刀羅を前に、浅葱と葵葉はこっそりと目配せした。
*
刀羅から指定された日の黄昏時、葵葉は言われた通り豊秋原稲荷大社に通じる階段の前にある楠の下に立った。
目の前には江戸の商業地区まで繋がる参道が北に向かって真っ直ぐに伸びており、その両側に所狭しと屋台が軒を連ねている。
本祭は明日であるはずだが、本祭を祝す前夜祭もまた人々の楽しみに変わりはないのだろう。既に屋台目当てに大勢の江戸の人々や人に化けた狐達が往来していた。そしてそこにいる誰もが皆、葵葉が刀羅からもらったような狐面を身に着けている。ただ顔を隠すように着けている人はあまりおらず、頭の側面に着けていたり、腰から下げていたりとその扱いはひとによって様々だ。
ふと目線を空へと向ける。春の訪れが近いとは言えまだ如月は日の入りが早く、西の空に浮かぶ太陽は間もなく山の裾野へ隠れようとしていた。空は西から眩い茜色に染まり、東になるにつれ紅藤色へと移ろっていく。
東に向かって長く伸びていた影が徐々に薄くなり、夜の帳に隠れる頃。
参道を行き来する人々の幾人が足を止め、空に向かって片手を上げた。その瞬間、参道の頭上でふわふわと等間隔に並んでいた提灯に次々と火が灯り、夜を迎えた参道は再び昼間のような明るさを取り戻した。道行く人々からはわあっと歓声が上がり、一段と祭の賑わいが増す。
提灯に灯ったのは、人に化けた狐達による狐火なのだろう。陽だまりのような光に、冬終わりの冷たい空気は一変、春を感じさせる陽気へと変化する。行き交う人々の中にいれば、初夏のような暖かさを感じるかもしれない。その暖かさを予期していたように、人びとが揃って薄手の浴衣を身に付けていることに気が付いた。
刀羅から依頼をされた日、別れ際に「服装は浴衣で」と指定を受けていた。季節外れだろうと不思議に思いつつ指定通りに着ていたが、なるほどこの格好でなければ、むしろあの中では浮いて見えてしまうのだろう。
「だから刀羅は、浴衣着て来いだなんて言ったんだな」
からん、と下駄の音を立てながら、葵葉と同じ背格好へ姿を変えた浅葱が葵葉の横へと降り立った。葵葉と同じく浴衣と狐の面を身に付け、手にはどこで買ったのか三色団子が握られている。
「菖蒲と周囲を見て来たけど、特に問題はないよ。普通に楽しんでいいんじゃないか?…久しぶりだろ、2人で祭を見に行くなんて」
「…」
―あぁ、そうだ。
昔もあの子と祭を見たことがあった。
間近で見てみたいと言う彼女の手を握り、不可視の結界を自分達に纏わせて。夜の闇に紛れてこっそりと。
村人が奏でるお囃子の音色や、踊りはしゃぐ子ども達の声を聞き拾おうと忙しなく動く狐耳。
大きく見開かれた瞳に映る煌々と照る篝火の明かり。
頬を紅潮させ、目の前の光景に恍惚として口を綻ばせた彼女の横顔。
心の底から祭を楽しむ彼女の姿は、今でもまだ鮮明に覚えている。
覚えているからこそ、思い出してはいけないと思う。
ずっと心の奥底で、記憶と共に眠らせていたい想いがあることも知っているから。
「あおば…?」
背後でかけられた声に反射的に振り返り、そこに立つ彼女の姿を認めて、
「―――っ」
咄嗟に口をついて出そうになった言葉を飲み込んだ。あの頃の彼女の姿と重ねてしまいそうになるのを自覚して、けれどあの頃と違うのだと自らに言い聞かせて。
「――こんばんは、灯華様」
「こ、こんばんは。えっと…祭りを見に来たの?」
階段をおりかけていた灯華は足を止め、穏やかに挨拶をしてきた葵葉につられるようにして挨拶を返す。次いでいつもとは違う彼の装いに目を止め、また彼の背後で瞬く光の連なりに視線を動かしながらそんなことを言う。
「そうですよ。灯華様はどうしてここに?」
「私は…、ここからなら、間近で祭が見えると聞いて…」
葵葉が素知らぬ顔で訊ねてみれば、眉根を下げた灯華から歯切れの悪い返事が返ってくる。
その態度を見るに、彼女はどうやら自分と共に祭に行くとは聞かされていないらしい。自分以外の誰かと祭に行くと思っていたら、ばったり自分と指定された場所で会ってしまい、嘘をつくにもつけず隠すこともできず…といったところだろうか。
「浴衣で来ているのに、ここから見るだけなんですか?」などと言うのはさすがに意地が悪いだろうか。目の前であたふたとする彼女に対しそんな悪戯心が湧いたが、そんな気持ちにはさっさと蓋をする。これは依頼なのだから。
「それで、ここで祭へ共に行く相手を待つように言われていたんでしょう?刀羅君から」
事も何気に伝えれば、宙を泳いでいた灯華の目が丸々と開かれ、ばちりと視線が合った。
「えぇ…えっ?!」
「私ですよ、その相手」
懐に入れていた2つの狐面を取り出して見せてみれば、みるみるうちに灯華の肩から力が抜けていくのが見えた。階段の途中で留まっていた足が再び動き出し、カラコロと軽やかな音が葵葉の方へ近付いて来る。
「そうだったの。ごめんなさい、まさか葵葉だとは思っていなくて」
刀羅からどんな説得をされて来たのかはわからないが、少なくとも葵葉が絡むことは匂わせることすらしなかったのだろう。刀羅の見せていた苦々しい表情を思い出しながら、葵葉は思わず苦笑した。
「あの、でも、本当にいいの?私のわがままに付き合わせてしまうのだけど…」
「わがままではなく、貴女の望みだと聞いています」
葵葉は一歩進み出て、灯華の前に立つ。
「刀羅君からは、貴女が祭へ行く間傍に付くように依頼されました。申し訳ないなんて、思わなくていいんですよ」
―どうか躊躇ないで、自分の望みに手を伸ばしてほしい。
手にしていた狐面の片割れを持ち上げ、そっと灯華の頭にあてがいながら葵葉は言った。灯華は静かに、目の端にかかる狐面と葵葉を交互に見つめている。
―貴女の望みを叶えられるなら、それがたとえ依頼でなかったとしても、自分はそれを望んだだろう。
心の奥底で誰かがそんなことを呟くも、聞こえないふりをする。
胡桃色の髪を絡ませないように気を付けながら、赤色の糸で編み込まれた紐を丁寧に結わえて面を固定した。次いで己の頭にも狐面を付けると、陽だまりのような光に溢れた世界に身体を向け、彼女の方へと振り返る。
「せっかく刀羅君達がくれた時間です。楽しみましょう?」
祭の明かりを受け、灯華の瞳に眩い星が瞬いた。
「うん」
頷いて一歩、彼女は足を踏み出した。最初は少し躊躇いがちに。それから段々と軽やかになっていく足取り。その隣を、歩幅を合わせながら歩いていく。そっと横目に見た彼女の横顔には花が咲いたような笑みが浮かんでいて、葵葉も思わず口元を綻ばせた。
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