シーン1 [編集者:アオシマ]驚愕①
その後はもう闇の中。夢を見たかどうかもわからない。なんとなく時間が経過したことだけは感じ取れるのが睡眠の不思議なところだと思う。
ぼくは眠るのが好きだ。
眠りをより良く味わうコツは逆説的だが、より気持ちよく目覚める環境を作ることだと思っている。
深く、長く眠ったあとで窓から差し込む光に照らされて目が覚める。アラームの無粋な音ではなく、日の光で覚醒すると幸福を感じる。カーテンを開け放したままでいられる高層階のメリットに頬が緩む。すぐに身体を起こさず、ベッドの中で足を伸ばし、素足でシーツの感触を楽しむのもいい。
気分が乗った日には、ベランダに出て熱いコーヒーを飲んだりする。決まったモーニングルーティンも素敵だが、ぼくはそれに少しアレンジを追加するのが好きだ。
今日は、コーヒーとクッキーを楽しみながら、昨日見た封筒の正体を確かめることにした。(我那覇さんからのお礼の手紙だろう)
コーヒーケトルでお湯を沸かし、ペーパードリップに挽いた豆を入れる。これにお湯をそそぐ時の音がぼくは好きだ。
ぼくはカップにコーヒーを注ぎ終えると、クッキーと共にトレイに乗せた。
両手でトレイを持ちながら、二本の指でペーパーナイフと手紙を挟み、ベランダへ移動する。淹れたてのコーヒーのいい香りが鼻腔をくすぐる。
ベランダに置いた籐のカフェテーブルまで運ぶと、ぼくは本の発売までこぎつけた充実感を感じながら、手紙を開いた。
「アオシマくんへ。
おかげさまで良い本が完成し、とても嬉しいです。
ありがとうございます。
ところで今回の本は、ストックしていた作品を本にしたものですが、実はあの小説の作者はわたしではありません。
あの小説『ファントム・オーダー』はわたしが学生の頃、恩師であるY先生と互いの作品を交換する中でいただいたものです。
物語の続きが書けますか、とアオシマくんは言い、わたしは書けると答えましたがあれはうそです。わたしにはあれほどの物語の続きを書くことはできません。
そこで恐縮なのですが、Y先生を探すお手伝いをお願いします。
きっと手伝っていただけるものと信じて連絡をお待ちしています。
──我那覇」
世界から音が消えていた。コーヒーを飲もうとしてうまく口が開かず、そこで自分がずっと歯を食いしばっていたことに気づいた。血の気が引き、指先が氷のように冷えていく。
落ち着け。落ち着け。落ち着け。
意識して口を開き、意識して深呼吸をする。だが、吸い込んだ空気は鉛のように重く、肺の奥まで届かない。三回繰り返しながら、目をぎゅっと閉じる。脳裏に、心血を注いだ企画書の山、成功に終わった企画会議の景色、『ファントム・オーダー』の表紙が明滅する。
道路を走る車の音が、やけに遠くに聞こえる。直射日光が左手に当たっているのを、熱ではなく痛みとして感じる。ゆっくりと目を開く。
今からでも販売を差し止めることができるだろうか? 部屋の中の壁掛け時計を見る。今は七時半だ。開店が早い書店は八時くらいだろうか。同期の営業の桃瀬に電話すれば、今からでも……いや、無理に決まってる。全国の書店に電話? それに取次への説明はどうする? ぼくは時計の秒針が動くのをぼんやりと眺めていた。
急がねばならない……だが何を?
この手紙によれば、今日発売の小説、『ファントム・オーダー』は盗作だとのことだ。盗作と知った上で販売するわけにはいかない。会社の信用問題になるからだ。
編集長、同僚の編集者、営業部隊のリーダー陣、大手取次、販売店の売り場スタッフ……彼らの顔が次々と頭に浮かぶ。彼らは今まさに売ろうとしている本が、盗作であることを知らない。
悪夢だ。これは、紛れもない悪夢だ。手紙を持つ手が、わなわなと震えだした。
誰に連絡すれば?
荒れ狂う呼吸を整えながら、必死で考える。
そうだ。我那覇さんだ。
これはタチの悪い冗談なのだ。そうに違いない。きっとそうだ。この悪夢のような手紙を真に受けて全品回収なんて指示を出したら、ぼくは一生ものの笑い物だ。
よし、我那覇さんに電話しよう、そう決意して時計を見ると、八時を過ぎていた。自分で思った以上に時間が経っている。心臓が早鐘を打つ。もう一度、深く、深く息を吸い込むと、ぼくは震える手で我那覇さんに電話をかけた。
一コール目の音が鳴り終わらないうちに、電話は繋がった。
『おはようございます。アオシマくん。手紙を読んだのですね?』
「盗作ってことですか?」
語気が強くならないように気をつけながら声を出す。電話を切られて雲隠れされたら終わりだ、と自分に言い聞かせる。
『手紙を読んでの通りです。盗作の定義について詳しくないので、出版前の作品に対して盗作という行為が成立するのかはわからないのですが、盗作と呼ぶのが適切だと思います。あの作品、『ファントム・オーダー』はわたしの作品ではありません。そしてこのことを知っているのはわたしとアオシマくんだけです』
我那覇さんの声には冗談を言ってるようなふざけた調子はなかった。
「どうしてこんなことをしてしまったんです? 何が目的なんですか」
『手紙に書いた通り、消息のわからないY先生を探すためです。過激な手段を取ったことは謝ります。探偵を使って探したこともありますが、見つけることができなかったのです。動機についてはいくつかありますが、『面白い作品があって続きを読みたい』という気持ちが最も大きな動機です。作品を発表してしまえば、先生の方から出てきていただけるかもしれません。もちろんお会いしたら謝罪します。先生が許してくれず法に訴えるならば喜んで敗訴します。先生が出てきていただけない場合は、続刊までの間に人を巻き込んで探そうと思っていました』
とんでもない内容を我那覇さんは淡々と話す。声だけでは真意が推し量れない。こんな不正確な状況を、どうやって会社に報告できるだろう? やはり会って話をする必要がある。
「……ひとまず、会って話をさせてください。今どこに居るんですか?」
『自由が丘のデニーズに居ます。ああ、それと最後に……』
「なんです?」
『殴ったりしませんか?』
「しませんよ!」
思わず叫ぶと電話は切れた。ぼくは上着を掴むと急いで家を出た。
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