第13話



「佐野将虎。僕と歩美の競歩の師匠で、歩美の実の叔父でもある人だ。五十キロメートル競歩における日本記録保持者であり、幻の世界記録保持者でもある。


 ふと彼のことを思い出したんだ。君と歩美が並んで歩く様子を見て……」


 阿弥田は語り始めた。




「今から九年前、当時、僕は平凡な中学生一年生で、歩美は友達の少ない小学六年生だった。そして、佐野将虎はその頃すでに競歩の日本記録保持者で、次の五輪での活躍を期待されるトップアスリートだった。


 彼の生活は決して華やかだったわけじゃない。ほぼ毎日、寝屋川の社宅から守口の勤務先まで徒歩で通勤、十五時まで事務員として勤務した後、彼の母校である大阪公立大学に移動して夜遅くまでトレーニングを行う、そんな繰り返しの生活を送っていた。


 彼の兄は弟のそんなストイックな部分を心から尊敬していた。だが、一方で彼の人間関係の乏しさについて同じくらい心配もしていた。そんな兄の計らいで、ある時期から彼は、神戸の御影山手にある彼の兄の家に滞在するようになった。それは仕事のない土日に限られていたけれど、それでも彼は土曜と日曜に、兄の家族に囲まれた温かい食卓で、彼のために栄養バランスを考えられた食事を採ることができた。


 その御影山手の家というのが、小学六年生の頃の歩美の家だった。


 歩美の父によって、シャンティのためだけに、それまで住んでいたマンションから引っ越して建てられた一軒家だ。


 当時の歩美は、シャンティを飼い始めたことをきっかけとしてクラスから孤立し、孤独な学校生活を送っていた。そんな歩美にとって競歩という謎のスポーツに傾倒し、いつもたった一人で山の中を歩き回っている叔父は、尽きない興味の対象だった。


 徐々に彼のことを知っていくにつれ、彼女はだんだん兄のように慕うようになっていった。二人はよくシャンティを連れて、夕方のトレーニングのため山へと歩いていった。


『糸で頭の頂点が引っ張られているイメージで姿勢を保つといい』


『踵で地面を掘り返すようなイメージで足を運ぶんだ』


『オールでカヤックをこぐようなイメージで骨盤を動かして』


 将虎さんはそんな風に優しく歩美に声をかけ、歩き方のアドバイスをした。彼女は一生懸命に自分のフォームを修正しながら何時間も将虎さんについて歩いた。


 彼が情熱を傾ける競歩を少しでも深く理解しようとして。 

 

 僕は当時、歩美のストーカーをしていたからそういった事情をよく知っている。


 その頃、いたって平凡な中学一年生だった僕は、歩美と将虎さんが夕方、揃って山の中へ歩きに行く様子を僕の部屋の窓からいつも眺めていた。


 僕は歩美の家の隣に住んでいたんだ。


 僕の部屋の窓から歩美の家の庭が見えた。僕はシャンティのことも歩美のことも、将虎さんのこともよく知っていた。


 人並みに勉強し、損しないレベルで他人に優しくするというのが僕の家の家訓だった。


 その家訓を忠実に守った当時の僕は、学業もスポーツも中の上、友達もそれなりにいて、部活もまあまあいい感じ。要するにいたって平凡でつまらない中学生だった。


 でも歩美は違った。彼女が僕の隣に引っ越してきた頃から、彼女はすでに変わり者として有名だった。


 飼い犬を溺愛し、ある時期を境に家族以外の誰とも話さなくなった彼女。


 学校から帰った僕がなんとなく窓の外を眺めていると、彼女が犬小屋の前で座り込んで、長時間柴犬に話しかけているのが見えた。


 学校で人間相手に一言も話さない彼女が、言葉の通じない犬相手に何時間も座り込んで話し続けている。


 次第に僕は、彼女のことが気になり始めていた。僕にはない、僕が探し求めている強い情熱……彼女の中にはそれがあるような気がした。


 そんなある日の土曜日の夕方、ふと僕が窓の外を見ると、彼女が今までに見たこともないくらい嬉しそうな笑顔で僕の知らない男と帰ってくるのが見えた。


 僕はその光景に強く心を揺さぶられた。あんなに閉鎖的で飼い犬だけに愛を注ぐようだった少女が、屈託のない顔で笑っている。


 その男こそが佐野将虎だったんだ。気づけば僕は、毎日自分の部屋から彼女の家の庭を覗くようになっていた。彼女の笑顔を何度も盗み見て心が騒ついた。それでもやめられなかった。心が引き裂かれるようだった。


 二人は毎週山に入っていったい何をしているんだろう。何か秘密があるような気がしてならない。そんな思いに耐えられなくなった僕はある週末、シャンティを連れて外出する二人のあとをこっそりとつけたんだ。


 そして彼女の叔父が彼女に穏やかな顔で競歩の基礎を教えている美しい光景を見た。見知らぬフォームで早々と歩いていく二人はまるで魔術師のようだった。僕は彼らの後ろから離れられなかった。僕も二人の世界に近づきたいと思った。その日から僕は頻繁に二人のあとをつけるようになった。

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