第7話 もう子どもじゃない

 幼い頃の夢を見た。


 寒い冬の日の深更。眠れずお気に入りの場所へ行くと、見知らぬ青年がいた日の夢だ。


 興味に駆られて近付いたけれど、十分な話をする前に足を滑らせて池に落ちてしまい、そこからの記憶が無い。


 気がつくと碧緒は抜け出したはずの布団の中にいたのだ。辺りを見回せば共同生活をおくる女の子たちが寝息を立てており、普段と何も変わらなかった。早朝に一人だけ目覚めるのも同じ。もちろん身体は濡れておらず、身体の痛みもなく、下駄はいつもの場所に並んでいて、「竜」に出会った形跡なんてまるでない。夢だったのかもしれないと思うくらいで、碧緒は首をひねった。大人に聞いてみようかとも思ったが、説明のしようがない。てい宿の敷地内で見知らぬ人物――それも竜かもしれない――に会ったと言えば大事になる。それは避けたかった。


 かくして幼い碧緒は一旦竜らしき人物のことを忘れることにして、日課の禊をすることにした。屋敷の裏手に回り、井戸水を掬って被る。いつもなら心が洗われて気持ちが一新されるのに靄が晴れず、碧緒は再び首を傾げたのだった。


 やはりあれは夢であったのだろうか、と。




 ふ、と碧緒は目を醒ました。


 いつもは目覚めが良いのに珍しく思考回路が繋がらず、碧緒はぼうっと天井を見つめていた。


 幼い頃の夢。夢だけれど、本当の話。あの日、碧緒は初めての一目ぼれをした――


「たま姉!!」


 呼ばれて顔を傾けると、一姫の姿が映り込んだ。


「良かった!」


 一姫は目にいっぱいの涙を浮かべている。


 碧緒は左右に頭を動かした。畳の床に見知った家具が置かれている。自分の部屋に間違いなかった。どうして寝ている自分を一姫が見ているのだろうとゆるゆる考えていると、十六歳の自分の記憶が蘇ってきた。


「わたくし、一体どうしてッ痛ッ」


「大丈夫!?」


 覚醒するのと同時に頭痛が襲った。思わず表情をしかめると、一姫は大げさに心配してみせた。


 碧緒は口元に笑みを浮かべて大丈夫だと伝え、それより、と話を切り返した。


「どうして私はここにいるのかしら?」


 生贄となって死んだはずだった。今頃は川の底で蛟の吐く毒の器になっているはずだ。それなのになぜ自室で寝ているのか。碧緒には分からなかった。記憶は川の底で途絶えている。


「本家の人たちが助けてくれたんだよ。儀式は中止だって。たま姉、犠牲にならなくてもいいんだよ」


 つ、と一筋の涙が一姫の頬を伝った。碧緒は一姫の頬を伝う涙を指で拭いてやったが、涙の防波堤が決壊して追いつかず、「あらあら」と困ったように微笑んだ。


「良かった。私も、たま姉を助けたかったんだけど、うまくいかなくて。もう、ダメかと思ったんだけど、良かったよぉ」


  顔をくちゃくちゃにしてぐずぐず泣く一姫。碧緒は堪らなくなって抱きしめた。


「一姫。心配してくれてありがとう。私のために頑張ってくれてありがとう」


 目を閉じると涙が一粒落ちた。


 それからしばらく碧緒は一姫を抱いていた。


 耳元の濡れた音がずいぶん落ち着いてきたところで身体を離した。真っ赤な目と頬をした一姫を碧緒は愛おしいと思った。


「一姫。本当にありがとう。本家の方が助けてくれたんですって? 一体どなたが助けてくださったのかしら。こんな、わたくしを」


「御当主様と銀竜様だよ」


「えっ」


 碧緒は目を丸くした。角 銀竜が己を助けに来てくれたことは知っていた。しかし。


「御当主様が、東方 竜臣様がいらっしゃったの!?」


 東方一門を統べる東方家の当主、東方 竜臣が来たことは知らなかった。


 碧緒は次の言葉が見つからない程驚いた。東方家当主ともあろう者が、自分のような分家の三女のために来るとは思わなかったのである。


 それだけでも十分驚いたのに、一姫の更なる言葉で碧緒の頭の中は真っ白になった。


「うん、来たよ。御当主様が川の中に落ちたたま姉を助けてくれたの。それで、お父様のところへ来て、もらうって言ってた」


 ぽかんと口を開けたまま、碧緒は固まった。はしたないのですぐに口を閉じたが、意識が朦朧としていた時のように、頭の中がはっきりしない。


「も、もらうって?」


「えと、結婚するってことだね」


 一姫は顔を赤らめたが、碧緒は顔面蒼白になった。


「ついさっきだよ。お父様のお部屋でお話ししてたの。もう終わってるかもしれないけど」


「なんてこと!」


 碧緒は布団の中から飛び出した。


「たま姉! まだ寝てなきゃ!」


 一姫の静止の声を振り切り、碧緒は竜樹の部屋に向かって走った。


(あれは!)


 ギシギシと廊下の床板を踏みながら小走りで廊下を進んでいると、格子窓から見える正門の近くに人影があった。


 思わずぐっと顔を窓に近づけて二人の人影をよく見る。左の灰色の短髪で体躯の良い男は角 銀竜。右の青みがかった黒髪を一つにまとめて長い編み込みをしている男が、東方 竜臣。


 気がつくと碧緒は走り出していた。咄嗟に玄関ではなく自室へ向かう。突然出て行ったと思ったらすぐに戻ってきた碧緒に驚く一姫を尻目に自室の窓から外に出ると、常時置いてある下駄をひっかけ、屋敷を飛び出した。そうしてそのまま裏庭を抜け、正門に向かって走った。


 正門前ではちょうど竜臣が黒い車に乗り込むところだった。


 碧緒に気づいた竜臣が動きを止めた。


 碧緒は竜臣の目の前まで来ると口を開いた。しかし言葉が喉に詰まって出てこなかった。はくはくと口を開け閉めして、閉じることしか出来ない。竜臣は言葉を待ってくれているのか、微動だにしなかった。じっと自分を見つめている姿がたまらなく胸を打った。


 変わらぬ姿にじわりと涙が浮かんできた。


 目元は涼しく、結ばれた唇は艶めいて、肌は陶器のように白く滑らか。煌々と輝く二粒の赤い目が美しく、それでいて、あの時よりも鋭くなっていた。


(あぁ。もう、子どもじゃないのね)


 いつまでも変わらぬままではないことに気づき、胸がぎゅっと締めつけられた。


 名も無き青年であったあの時の竜臣は今や東方家当主となり、遥か遠くの存在になってしまった。もともと近い存在ではなかったけれど、もう互いの立場を考えずに話せなかった。


 足垂家の娘が東方家当主に命を助けられたのだ。


 さすれば礼の仕方は決まっている。


 碧緒は膝を折ってその場にひれ伏そうとした。


「!」


 しかし顎を指先で掬い上げられて上体を下げられなかった。


 指先が丸く節々とした骨張った指が碧緒の動きを止めている。


「簡単に頭を下げるな」


 驚いて目を大きくしていると、竜臣は碧緒が何かを言う前に手を離して車に乗り込んでしまった。


 車は滑るように発進し、足垂家を離れていった。


 しばらく奥歯を噛みしめて小さくなっていく車を見送っていたが、耐えきれなくなって頭を深く下げて礼をした。


 食いしばった歯の隙間から空気が漏れる。きつく閉じた目からは涙がこぼれた。


 二度も命を助けられた。そしてまた礼を言う機会を逃してしまった。


 碧緒は頭を下げ続け、心の中で何度も何度も感謝の言葉を繰り返した。

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