第五章

#17 現実を見る

「どうして、ここにいるの」

 私の声は、酷く震えていた。深呼吸もした。一度目を伏せた。それでもまだ、震えが収まらない。

 手からスマホが滑り落ちないように支える。ビル街の排気を一気に吸い込んだせいで喉が痛い。頭が真っ白になって、目が乾いて、また呼吸を忘れてしまいそうになる。

 私の中で、時系列がめちゃくちゃになる。さっきまで、あのいけ好かないアイパッチの男と話していた。それから、ヤミリーズ・カンパニーの本社に潜入して――いや、潜入はまだしていない。明日だ。


 なるほど、そうだ、これもまた夢だ。今までにも何度か、みんなの夢を見て目覚めたことがあった。ああ、不快だ。本当に守るべきものが現実世界にあるのに、まだ私は過去に縋っているのか。

 私は目を上げた。相変わらず立ち尽くしている少女に目を向ける。その少女も、今にも崩れ落ちてしまいそうだ。理由は分からない。私のことは、間違いなく絶対に覚えていない筈だ。確かめることすらも危険だった。

 何かを言わなければならない。何かを言わなければ、この空間からは解放されない。そうしなければこの夢からは解放されない。何か言葉を。

 その時、ふっと身体から力の抜ける感覚がした。言葉? 簡単じゃないか。

「二度とこの街に近づかないで」

 私は、この少女とはもう他人なのだ。

「あなたの大切な人を巻き込んでしまう前に」


 私は、背を向けた。走り出す。それ以上何かを言われる前に走り出す。私が、もっと話していたいと思い始める前に。私が夢に溺れてしまう前に。仮にこれが現実で起こった出来事だとしても、夢だと思い込まなければならない。


―――


「現実を見ろ」

 アイパッチの男――そう呼ぶことすら億劫になってきた――は、開口一番そう言った。

「小説の中じゃ、地下通路を通るだの排水口を通るだの、現実味のない方法しかとりゃあしねえがな。そう都合よくすべての道が開いていると思うな」

 三日前と同じ場所。電車で数十分の距離にある、ヤミリーズ・カンパニーの建物の前に立っている。私は、知り合いから渡された潜入経路の地図を眺めていた。アイパッチの男が塗りつぶした箇所を確認する。そう多くない、いくつかの部屋だ。

「ただな、あっちが焦ってさえいなけりゃ内部の緊張感は薄い。それだって現実だ。最悪の場合『寝返りました』で押し通せ」

 アイパッチの男は煙草を手に持っていた。的確な指示を与え、余計なことは喋らないようにする。私とは最低限度のことしか喋りたくないのだろう。私に協力する気になったことに対する言い訳すらしなかった。

「ありがとう」

 アイパッチの男にはお礼だけを吐いて、私は建物の裏側に回ろうと歩き出す。まずは。潜入経路として書かれた建物沿いのはしごを探さなければならない。今は、ただでさえ建物から遠い位置にいる。裏側までは数十分は歩く。その間に、私は服の下にあるバッジを見た。魔法を使うのも最低限だ。魔法の気配で気づかれるリスクを負うくらいなら、吹き矢とマキビシで応戦した方が良い。


 現実を見る。

 私のもつ手札は、知り合いが持っていたファイルの中身と、あの男から手に入れた内部情報。具体的には、潜入経路と、敵……ヤミリーズ・カンパニーの形態に関する情報だった。この世界の「闇」をもつ人々を洗脳し、社員として取り込んでいる。それ故に、まだ洗脳されきっていない社員についてはこちらに引き戻すことが可能である、と。その他に、そういう社員は「他の社員と比べてまだ能力が低い」可能性があるそうだ。だから、情報を手に入れるならそういう社員を気絶させて端末等を奪い取るのが狙い目である。



 建物の近くまで歩くと、すぐ端の方にそのはしごとやらが見つかった。まさか、この錆びついたホッチキスの芯のようなものを呼称したのだろうか。信じられない。あの男の感覚が。本当に協力する気があるのか、と考えていたところで遠くで警報が鳴る。一応想定通りの動きはしてくれるらしい。正面側で、あの男が敷地内に足を踏み入れたのだ。私はその音を背景として捉えながらはしごに手をかけた。

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