第6話『異世界は無慈悲に歌う』

 森を抜ける風が酷く冷たい。

 走り出してからどれくらい経っただろうか。人間の足で出せるはずのない速度で森を駆け抜ける度に黒い木々が黒い残像を引き、冷え切った夜気が頬を切り裂く。

 これが、少女が言う“風の恩恵”というものなのだろう。

 だがその加速が与える浮遊感は、心を軽くするどころか、逆に足元をさらわれるような不安を煽る。


「このまま森の外まで出られるといいんだけど……」


 少女が息を整えながら笑うが、その声にはわずかに震えが混じっていた。


「そいえば君、名前は何て言うの?」


 風の音にかき消されないように、少女はカノアに言葉を投げかける。


「カノアだ」


「カノアね。私はティリクシア、みんなはティアって呼んでくれてるの」


「じゃあ俺もそう呼ばせてもらうよ」


 かつて夜の森を疾走しながら自己紹介をした経験がある人間などほとんど居ないだろう。いや、この非常識な世界ではよくあることなのかもしれないが。


「なぁ、ティア——少し止まってくれないか?」


「え? どうしたの?」


 ふわりとティアが足を止める。地面に柔らかく着地すると、風が途切れ、静寂が耳を満たした。

 その時初めて、カノアは自身の心臓がずっと速く打ち続けていたことに気付く。


「この先って少し開けた場所だったりするか?」


「……えぇ、そうね。もう少し先に行くと木々の音が広がってる場所がある、かな。でもどうして分かったの? 私はともかく、君がこのソフィアから得られる恩恵はそこまで大きいものじゃないはずなんだけど」


「そっちの道に行くのは何か嫌な予感がする。気のせいかもしれないが、念のため別の道を進んでもらってもいいだろうか?」


 ティアは一瞬だけ迷ったようだったが、息を吐いて笑顔を作る。

 別にどこか目指す道があったわけではないが、あまりにも現実的な既視感。いや、現実としか思えない記憶の再現に、カノアは危険を感じずにはいられなかった。


「んー……わかった。開けたとこの方が魔物と鉢合わせた時にも対応できるかと思ったけど、今は気配も遠ざかってるし、このまま森の外を目指した方が良いかもね」


 ティアは何か考えを巡らせた結果、別の道を進むことに同意した。もちろん新たに進む道に危険が無いという確証は無いのだが。

 カノアは再び走り出したティアの背中を見つめながら、胸の奥でうずく何かを無視できずにいた。


(さっきから、頭が重い。視界の端で何かがちらつくたびに、脳が勝手に情報を引き出す)


 知っているはずのない景色、感じたはずのない痛み、聞いたことのないはずの悲鳴——それらが、確かにカノアの中にはあった。


 ◆◇◆◇◆◇◆


 時はわずかに流れ、カノアとティアが別の道を進み始めて数分後。暗がりの中に一人の男の姿があった。


「……おかしい。あいつ何でここに来ないんだ? イライラするなぁ。考えるだけでムカついてくる。早く殺されに来いよなぁ」


 ぶつぶつと爪をかじりながら物騒なことを呟く男の背後には、暗闇に浮かび上がるいくつもの紅い眼が低いうなり声を上げていた。


「……ちっ。おい、お前ら。あの女捕まえてこい。本当は待ち伏せして殺すのが面白いんだが、いつまでも待つ気はねぇ」


 その言葉が静寂に飲まれるように、浮かび上がっていた紅い眼もいつしか音を立てずに闇に消えていた。


 ◆◇◆◇◆◇◆


「きゃっ!?」


「うわっ!?」


「いったぁ……。もう、何なの」


 人生においてデジャヴというのはしばしば経験があるものだ。だがこれは紛れもなく過去に起こったことで、いつ同じように転んだのかもすぐ思い出せるほどに、ティアはカノアと出会った時のように転倒した。


「うぅ、ごめんなさい。こう暗いと思ったように走れなくて」


 ティアが腕を怪我していたのは何かに襲われたからじゃないと分かったことにカノアは安堵したが、これはこれで別の心配をしなくてはならないと思った。


「けど、また少し開けたとこに出られたね! 多分、星の位置からするともう少しで森から抜けられると思うの」


 薄暗く気味の悪い森の中では、この前向きさには心が救われる。


「魔物の気配も無いし、少しだけ休憩しよっか」


 そう言いながらティアは近くの木に寄り掛かる。普通に考えれば人が森の中を駆け回れば数分で疲れが出る。それをティアは自分より背の高い男を連れて何分も走り回っていたのだ。


「気が利かなくてすまない。けど、そのソフィア? というものは凄いな。体が羽のように軽く感じられた」


「凄いよね、これ。これのおかげで世界は暮らしやすくなったけど、そのせいで悲しい思いをした人もたくさん。難しいよね、色々と」


 ティアは宝石のように美しい翡翠色の瞳で、手首に着けられているソフィアを見つめる。

 その横顔は何かを思い出しているような憂いを帯びていた。


「ねぇ、カノアは何処から来たの?」


「何処からと言えば日本だが、そもそもここは日本じゃないのか?」


「日本? 聞いたことない場所ね」


 美しい銀髪に翡翠の瞳をした少女。日本を知らないと言うのも頷けるが、それならどうして彼女は日本語を喋っているのだろうか? そんな疑問が頭の中に浮かぶ。


「私はね、ここからすこーし北西にあった国で生まれたんだ。って言ったら分かっちゃうか。今は無くなっちゃった、私の生まれた国」


 ティアは言葉を選んでいるようだったが、カノアには残念ながら彼女が何を言わんとしているのかが分からない。


「どうしてカノアはこの作戦に参加したの?」


「その作戦っていうのは何だ? 多分俺には関係のない話だと思うんだが」


「え? ちょっと待って。カノアは作戦に参加してるわけでも無いのに、一人でこの森をうろうろしていたの? しかもソフィアも持ってないし。かといって敵ってわけじゃなさそうだし。ごめん、全然分かんない」


「残念ながら俺にも全然分からない」とカノアは口にしかけたが、余計に混乱を招きそうなので一旦吐き出しかけたその言葉を飲み込む。


「あ! 嘘をついて私のことからかってるんでしょ! そうはいかないぞ~」


「別にそういうつもりじゃ……」


「ふふっ、冗談よ。カノアからはそういう雰囲気を感じないから」


 雰囲気で嘘を言っているかどうかなど分かるものか、とカノアは親しかった友人の顔を思い出す。


「すまないが少し疲れているのかもしれない。それに気を失っていたこともあって、あまり自分の置かれている状況が理解出来ていないんだ」


 カノアは当たり障りのない言葉で話を合わせようとする。


「あ、何だか今の言い方は嘘っぽい!」


 胸の内を言い当てられたようでカノアは一瞬ドキっとする。


「っていうのは冗談で、きっと怖い思いをして記憶が混乱してるのね。この森を抜けたら私の仲間と合流出来るはず。そしたらゆっくり休めるから、それまで一緒に頑張りましょ!」


 自分のことが分からないと言い張るカノアに、ティアは最大限の理解を示そうとする。


「けど、なんかカノアとは初めて会った気がしないね。えへへ」


 実は夢の中で会ったことがある、何て言ったらどんな顔をされるだろう。

 夢とも現実とも言えない記憶はカノアを嘲笑う運命のように交錯していた。


「さてと、そろそろ行こっか」


 ティアが再びソフィアに触れると、ほのかな光が溢れ出す。


「さぁ、もうひと踏んばりだよ!」


 カノアは差し出された手に手を伸ばし、この暗がりの森を抜け出すために三度走り出す――はずだった。

 カノアはティアの手が震えていることに気が付く。


「うそ、どうして!? 何の気配も無かったのに!!」


 ティアの視線はカノアの背後に向けられていた。カノアはゆっくりと振り返り、暗闇へと視線を伸ばす。

 カノアは視線の先の木々の間から、無数の紅い光が近づいて来ているのが見えた。

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