【BL】Ritardando・・・からの
日本の夏は嫌いだ。
ずっとそう思っていた。
あーあ、と肩を落として出てきたクラスメイトと入れ違いに陽夏は教室へと足を踏み入れた。
午後から広がり始めた雲に嫌な予感はしていたものの、終礼が終わったタイミングで雨は降り始めた。
晴雨兼用の折り畳み傘を持っていた女子生徒達はそのまま昇降口へ消えてしまったが、傘を持たない男子生徒数人が取り残され、陽夏も当然のごとくそのメンバーに入っていた。一向に止む気配のない空模様に肩を落とし、陽夏はピアノの練習室に足を運んでみたものの、考えることは皆同じ。全ての部屋が埋まっていた。
仕方がないので、再び自分の教室に戻り、窓っ縁に立って外を覗いてみたが、状況が好転しているわけでもなかった。
街全体を圧迫するようにどんよりと垂れ込める灰色の雲から、雨はザーザー降り続けている。
えーっとえーっと。
これ、飽和水蒸気量だとか、そんなのが関係しているはず……確か。とにわか仕込みの科学脳を発揮して、高すぎる湿度の不快感から離脱を試みるが、家に置いてきた傘が飛んでくるわけでもない。
こりゃ、小降りになるのを待つしかないと、諦めた陽夏を嘲笑うかのごとく、激しい稲光りの直後、空をカチ割るような雷鳴が轟いた。
立て付けの悪い窓枠がガタガタと音を立て、にわかに雨足が強まる。
もはや外に出るのも危険な状況に、陽夏はすごすごと自席へと向かった。
窓側から二番目、前から三番目。右斜の席のクラスメイトは、いかにもどこぞのお嬢様といった雰囲気で、どんなに退屈な授業でもシャンと背筋を伸ばして講義を聞いている、そんな微妙な席。私立の音高。音楽を目指したわけではなく、日本に居られるならどこでも良かった、という不純な動機でやってきた陽夏。入学当初からここにいる場違い感はいなめないが、それも自身で選んだ道だから仕方がない。
英語の教科書を広げ、宿題で出されたページを翻訳してみるものの、陽夏の集中力は十分と持たなかった。
シャーペンをノックした視線の先には、液晶画面を下にして伏せられたスマートフォン。
気になる。
とても。
お天気アプリの雨雲レーダーだけではなく、ほぼ毎日のように連絡を取り合っている、あの人が。
街ごと洗車されるような豪雨で、頭の中の煩悩も消えてしまえば少しは宿題も捗るだろうに。
天気を確認するだけ。
そう自分に言い聞かせて、陽夏は机の隅っこにあったスマホに手を伸ばした。
あと三十分で雨は小降りになるでしょう。そんなメッセージを期待しつつ、お天気アプリを開いてみるが、後から後から雨雲のプロットは生まれ、カラフルなレーダーは左から右へ途切れることなく流れ続けている。
あーあ。こりゃダメだ。最悪このまま雨が降り続けるのであれば、近所のコンビニまで走って傘を買うか……いやいや、どうせ濡れるなら、いっそ傘など買わずに帰ってしまっても同じでは?
ひっ迫しているお財布事情を考慮して、最後の切り札とも言うべき強行策を決行するべきかと悩んでいるうちに、陽夏の指はLINEと書かれた緑のアプリをタップしていた。
高校に入って初めてスマホを持ったため、友達登録されているユーザーもほんの僅かだ。SNSを積極的に使いこなす気もサラサラない陽夏は、最初からお友達登録されていた運営側の通知を確認することもなく、下から二番目に表示されているSohei_Takatsukiのアイコンをじっと見た。
豪雨にかこつけて迎えを要請したことろで、「仕事中」の一言で一蹴されてしまうだろう。解りきっているのに、陽夏の中の願望は留まることを知らない。相手の迷惑など省みず『緊急時だから相手も分かってくれるって』などと囁く悪魔の誘惑にホイホイ乗ってしまいたくなる自分がいる。
好きだから。
思春期真っ只中の陽夏の恋にそれ以上の理由はない。
場違いな音高生になることも、皆の期待を裏切って日本に残ったのも、全ては高槻創平のためだった。
しかし、未成年と成年の壁は想像以上に厚かった。
出来ることなら全てをすっ飛ばして、一足飛びに大人になってしまいたい。
陽夏ががっくりと肩を落とした時だった。
スマートフォンがぶるっと振動した。
「えっ!?」
その直後、陽夏が見つめていたアイコンに赤い表示が点灯した。
創平からの連絡である。
マジ? マジ? マジっっ!?
今も絶賛業務中であろう創平から、この時間に連絡が来るなんて全くの想定外だった。混乱と戸惑いと、それを上回る喜びに沸く頭でマジマジと画面を見つめた陽夏は、スマートフォンを両手で握り、恐る恐るそのアイコンをタップした。
“雨、大丈夫?”
緑の吹き出しの中に浮かぶ、たった六文字のメッセージ。絵文字やスタンプなんて気遣いは一切存在しない。
しかし、素気ない言葉に落ち込むでもなく、陽夏はすぐに返信……ではなく、無料通話のボタンをタップした。
「全然大丈夫じゃない」
呼び出し音はすぐに途切れ、前置きをすっ飛ばして陽夏は開口一番にそれを訴える。
絶対にこの機を逃してたまるかという餌待ちのワンコのような必死さは電波に乗って届いたようだが、陽夏が胸の裡に秘めた下心は豪雨の混乱に紛れてしまったらしい。創平が電話の向こうでクスリと笑う気配がした。
微かに震えたその息遣いを感じて、陽夏の胸がトクトクと音を立てる。
「……創平はどうしたの? 仕事中じゃないの?」
『いや、店に帰るところだったんだけど、近く通ったから……』
こんな時間に陽夏に連絡したことを、本人も戸惑っているのだろう。随分歯切れの悪い言葉が返ってくる。
「今、どこ?」
『コンビニ』
いやいや、そんなの街にはごまんとありますけど。
もはや場所の特定すらできない不親切な回答ではあったが、陽夏の頭にはこの学校から一番近いコンビニの青いロゴが浮かんだ。
『お前は?』
「まだ学校。……あー、えーっと……傘、忘れて」
リタルダンド——段々遅く。
加速してゆく陽夏の気持ちとは裏腹な、創平との関係。陽夏が日本残留を決めたことに創平は責任を感じてしまったのか、以前と同じであって同じではない、どこか一線を引くような態度を取るようになった。
陽夏との距離の取り方に、本人も試行錯誤の部分があるのだろう。
ピアニストと調律師、生徒と家庭教師、子供と準保護者、そして、想う方と想われる方。陽夏が大人にならない限り、互いの立場から生じる様々な軋轢を取り払うことは不可能だ。
だから、陽夏は子供の特権を最大限に行使する。
「……迎えに来てよ」
子供の陽夏が胸に抱いた僅かな期待。
それと同じ分だけの大人の迷いが、電話の向こうに見えた。
『……今からそっち行くから、昇降口で待ってろ』
随分長い間があって、心臓をバクバクさせながら祈るような気持ちで創平からの返事を待っていた陽夏は、その瞬間、小さなガッツポーズを作っていた。
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