#37「薔薇の棘とトライアングル -機会-」


 王都の路地裏は、昼の華やかさを脱ぎ捨てると、濁った吐息のような静寂に沈んでいた。


 足元をかすめるネズミの気配。夜風に紛れて漂う、酒と血の匂い。


 俺は外套のフードを深くかぶり直し、物音を潜めるようにして街の影へと身を滑らせた。


 向かうのは、王都北端──酒と煙と火薬の匂いが入り混じる、裏通りの一角。


 表向きには退廃的な酒場に過ぎないが、その奥には、情報と金が蠢く“もうひとつの王都”がある。


 名もない扉を押すと、油と古酒の臭気が、息苦しいほどに鼻を突いた。店内は薄暗く、天井近くに吊るされたランプが、埃を含んだ空気をぼんやり照らしている。


 店の奥、カウンターには女がひとり座っていた。


 血のように濃い口紅に、狐色のロングヘアー。臙脂色の色留袖には、白い彼岸花が咲く。


 肩を大胆に出して着崩した呉服姿は、この地の様式からは明らかに逸脱していたが──だからこそ、艶やかだった。


 あでやかな袖が静かに揺れ、指先でグラスを弄びながら、彼女は妖しく微笑んでいる。


「……久しぶりね、“月光ルナ”ちゃん」


 女狐――そう呼ばれる彼女は、片肘をついたまま、余裕の笑みを浮かべた。


 赤く彩られた唇がグラスに触れるたび、琥珀の瞳が揺れる。酒場の薄明かりを受けて、まるでどこか異国の伝説を映すかのように、やわらかく光を孕んでいた。


 俺は無言のまま、カウンターの空いた席に腰を下ろした。こういう場では、言葉よりも沈黙のほうが雄弁だ。


「来たってことは、“白薔薇”のため……でしょう?」


 彼女は俺の反応を楽しむようにグラスを揺らし、氷の音を小さく響かせた。


「ふぅん。あの清楚なお姫様のために、背伸びしちゃって……可愛いわねえ」


 見透かすような一言に、俺は口元をわずかに歪める。


「遊びに来たわけじゃない。訊きたいことがある」


「聞くだけで済むといいけどね」


 グラスの底で溶けた氷が揺れ、静寂に水音を落とした。この夜が、ただの情報収集で終わるとは──最初から思っていなかった。


「“白薔薇の方が、青薔薇より美しい”……そんな言葉、貴族の坊ちゃん嬢ちゃんが軽々しく口にしていい台詞じゃないわ」


 女狐はそう言って、唇の端を三日月のように歪めた。手元のグラスを優雅に傾けながらも、その目は冴えた刃のようにこちらを射抜いている。


「でも、だからこそ意味がある。“誰かに言わされた”って思わせるには、ちょうどいい台詞でしょう?」


 その口調には、あの世界特有の“裏を読む”癖が色濃く滲んでいた。外交でも芝居でもない。腹の底を探り合う、生臭い会話だ。


「つまり、“言わせた”奴がいるってことか」


 女狐は否も応も示さず、指先で氷を転がし、くすりと笑う。


「いるわよ。あんたみたいに賢い子が、わざわざ聞きに来るくらいだもの」


 試すようなその返しが、あざけりよりも厄介だった。


「……動機はなんだ?」


 核心を先に問う。名を挙げさせるより、“なぜ”を知るほうが輪郭ははっきりする。


「あら、そこから訊くの? てっきり“誰が”かと思ったわ」


 女狐は楽しげに笑うと、グラスを静かに卓へ置き、身をわずかにこちらへ傾けた。


「名前じゃなくて、理由が知りたいのね?」


 その問いにうなずくと、彼女はふっと息をつき、赤い爪でグラスの縁をゆっくりなぞりながら口を開いた。


「“棘を刺したい”だけの奴らって、いるのよ。綺麗に咲いた薔薇ほど、ね」


 その一言で、空気がわずかに冷えた気がした。


「王家と公爵家を煽って、何が得られる?」


 そう問うと、女狐は片眉を上げ、すぐ赤い唇に苦笑を浮かべた。


「“煽り”なんて高尚なもんじゃないわ。ただ揺らせば何か落ちるって、そう思ってるの。ほんの遊び心と、ちょっとした憂さ晴らし──でも、そういうのがいちばん厄介なのよね」


 グラスの中で、氷が静かに崩れる音がした。“遊び半分”。その中に潜む悪意は、純然たる敵意より始末に負えない。


 何の責任も、覚悟も持たずに、ただ揺さぶる者たち。積み上げたものを、興味本位の一撃で崩す連中だ。


「……で、その“遊び心”の出所に、何か心当たりは?」


 女狐は残った酒を軽く揺らし、琥珀色の光がグラスに沈む。


「あなたの望む答えじゃないかもしれないけど、一つ、面白い話があるわ」


 卓にグラスを置き、ゆっくりと身を乗り出してくる。微笑んだままの顔に浮かぶ光は、観察者の目だった。まるで毒蛇のような静けさで、こちらの反応を探っている。


「最近、とある商会が、王族との取引から突然手を引いたの。理由は言わなかった。でも、そのあと裏で手を組んだ相手がいた。“新興貴族の連合”よ」


「新興貴族……?」


 一瞬、思考の地図を描く。安定した名家が王族を支える構造の中で、“新興”の存在は、攻め手そのものだった。


 過去を持たぬ者たちが、未来を奪いに来る。


「ええ。だから、“古くからの貴族”じゃない。血統の薄さを隠したい連中よ。象徴の皮だけ被って、栄光だけを欲しがるの」


 “白薔薇”という名を騙り、マルセイユ公爵家を引きずり下ろそうとしている。それが、“青薔薇”──王族の象徴をも貶めることになると分かっていて、だ。


「……下賤だな」


 グラスを傾けながら、女狐が唇を歪める。


「そうね。でも、象徴を知っている者だけが、それを貶める方法もまた知ってる。……怖い話ね」


 椅子を引き、俺はゆっくりと立ち上がる。女狐の視線が、まるで舞台の幕引きを見届ける観客のように、俺をなぞっていた。


「あら、“月光ルナ”ちゃん、もう帰るの?」


「ああ。今夜の分の情報はもう十分だ。……“遊び”で済むうちに、摘み取っておく」


 背後で、氷がカランと音を立てた。女狐は艶やかな笑みを崩さぬまま、かすれた声で言う。


「気をつけて。誰かが咲かせた花なら、誰かがそれを刈り取ろうとしてる。あなたが“鎌”になるのなら……せいぜい、手を切らないようにね?」


「忠告、感謝するよ」


 振り返らずに返しながら、扉に手をかけた。


 夜の空気が、肌を刺すように冷たい。だが今の俺にとっては、それも好都合だった。


 血の匂いも、焦燥も、冷たさがすべてを鎮めてくれる。


「……でも、もし手を切るくらいで済むなら、それは安いもんだ」


 そう呟き、店を後にする。王都の夜には、月だけが静かに光を落としていた。


 足音を忍ばせるように歩きながら、俺はそっと胸元に手を添える。


 胸元に手を添える。隠された細工封書、懐の刃、そして──名を呼ぶことなく守るべき存在。


 それらすべてが、今の俺を形づくる“武装”だ。


 俺はただの執事じゃない。


 ティア様に与えられた“盾”であり、“剣”であり──そして、彼女に触れようとする棘を誰よりも早く摘み取る者だ。


 たとえその棘に、夜に咲く薔薇の毒が潜んでいようとも、俺は迷わず、手を伸ばす。


 ……あの光に、闇が触れないように。

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