第35話 小さな戦争

『それは夜と朝の境が溶け合う、白み始めた頃だった』

 国語の安西先生ならそう表現するだろう、とスーパーマーケットの前で玲奈は空を見上げた。太郎くんが不思議そうな顔で見つめている。


「キミも高校生になればわかる」


 闇が名残惜しげに地を這い、東の空を手放す。

 濃い藍から灰色へと滲む空。

 その下で、世界は沈黙を続けていた。それが、何かが始まる前の静けさなのか、それとも人間の活動が終了した世界なのか……ふぅ、と玲奈は嘆息する。

「わたしには小説を書く能力はなさそうだ」


 スーパーマーケットから出てきた森本さんも「ん?」という顔をする。恥ずかしくなって「なんでもない、ない」と玲奈はかぶりをふった。しかし太郎くんが「お姉ちゃん、小説家になるんだって」と余計なことを言う。

「こら、そんなこと言ってないでしょ!」


「あらあら、素敵な夢じゃないの。若いときはね、大きな夢にどんどん立ち向かっていかなきゃ」

 神崎さんや田中さん、日立さんたち猟友会の人たちも猟銃を背に出てきた──そして、外科医の佐藤さんも。


「早く場所を動こう。敵がここへ来るのは時間の問題だ」


 玲奈は太郎くんの手を握り直した。

 名残惜しいけど……




 ──来たッ!


 

 じり……じり……


 何かが砂を踏む音がした。

 周囲は瓦礫だらけで遠くまで見通せない。けれど細く乾いた音は、湿った空気に絡みつくように響いた。


 その音が次第に重く、はっきりとした輪郭を帯び始める。

 とても、近い!


 ざく……ざく……


 ──軍靴だ。


 鈍く、粗野な足音。

 砕かれた瓦礫と、踏み締められた砂利が小さく悲鳴をあげる。

 それはまるで、『死神が石畳を引きずるような足音』だった。


 田中さんがぴくりと肩を震わせた。

 息を呑む音が、喉奥でわずかに潰れる。


「……死にたくない」


 低く押し殺した声。

 それは呟きというよりも、喉から零れた嘆息に近かった。


 森本さんが反射的に太郎くんを抱き寄せた。

 太郎くんはきつく目を瞑り、母親に甘えるように服の裾を握りしめる。

 震える指先が、布をぎゅっと引き寄せる。


 池神さんは倒壊した建屋の影へと音もなく歩み寄った。

 息を潜め、鋭い視線で街路樹先の道路を睨む。

 

 ──見えた。


 朝靄の向こう。

 うっすらと滲むシルエット。

 最初は木か石かと思った。

 だが、それはゆっくりと歩いていた。


 間違いない。人間だ。


 池神さんの目が細まる。

 睨むように、ゆっくりと。

 ほんの一瞬、瞳が細められたことで、殺気が滲んだ。


「……数人だな」

 かすれた声で告げた。


 ひとり、ふたり、三人――。


 陽はまだ低い。

 斜めに差し込む朝日が背後から彼らを縁取った。

 だが、陽光は優しさではなく、禍々しさを帯びていた。


 眩い逆光に照らされ、敵兵は黒い影となって迫ってくる。

 影には顔がない。

 ただの黒い塊。

 目も口もない人型の亡霊が、ゆっくりと歩いてくるようだった。


 池神さんは黙って顎を引き、わずかに肩を揺らした。

 その合図だけで田中さんと日立さんは銃を手に取った。


 森本さんは太郎くんを腕に抱き寄せたまま、顔を伏せる。

 太郎くんの細い指が彼女の袖にしがみついた。

 彼は幼いながらも察していた。

 これから起きることが何なのか。


 佐藤さんの姿は見えない。

 おそらく、そこらの瓦礫の影に隠れているのだろう──震えながら。


 玲奈は喉が詰まるような感覚を覚えた。

 手が冷たい。

 指先がかじかんでいる。

 けれど、それは寒さのせいではなかった。


 敵が来る。

 彼らは歩いてくる。

 逃げ場のない、この場所に。


 足音が大きくなる。

 その足音は、胸を踏み潰されるような圧迫感になっていく。

 靴底が地面を叩くたびに、玲奈の心臓も一緒に揺さぶられる。


 どく……どく……どく……


 耳の奥で、自分の鼓動が波のように押し寄せる。

 呼吸が荒くなる。

 喉が乾いて声が出ない。

 思わず拳を握った。


 ──何か、しなければ。

 ──でも、何を?


 足は鉛のように重く、指は氷のように動かない。

 逃げろと身体が叫ぶのに、筋肉は凍りついていた。


 朝日の陽光に溶ける人影は具体的な姿を形作る。 

 はっきりと見えた。

 銃。

 黒いブーツ。

 弾帯。

 そして、迷彩服の肩に光る見慣れぬ徽章。


 敵だ!


 田中さんが小さく息を吸った。

 日立さんが静かにライフルを構えた。

 森本さんが太郎くんを抱きしめた。

 そして──玲奈は拳を握ったまま、ただ息を呑んだ。


 田中さんは土を噛むように呟いた。


「あの若いのが喋ったんだろうな」


 投降していったあの大学生だ。敵の甘い言葉を信じた彼は、捕らえられた先で拷問にかけられたのだろう。

 自分だけは助かりたいと命乞いするうちに、隠れ家の場所を吐いたに違いない。


 池神さんはそっと田中さんを見た。


「田中、やれるか?」


 田中さんは苦く笑った。


「やるしかないだろ」


 田中さんがぶっきらぼうに猟銃を構え、しゃがみ込んだ。


 敵兵が建屋を調べようと近づく。

 迷うことなく田中さんが引き金を引いた。


 ──バァン!


 一人の敵兵が胸を押さえて倒れ込んだ。


 だが、すぐに反撃が来た。


 田中さんがもう一発撃つより先に、敵兵の銃弾が襲いかかる。


 ダンッ!


 田中さんの肩が跳ねた。


「ぐっ……!」


 田中さんは銃を握ったまま、壁に背を預けてずるずると崩れ落ちた。


「田中さんッ!」


 玲奈が叫びかけたとき、日立さんと池神さんが間髪入れず応戦した。


「おらぁっ!!」


 日立さんが怒号とともに銃を放つ。


 敵兵の一人が額を撃ち抜かれて倒れ込んだ。


 だが、まだ残っている。


 撃ち合いの最中、森本さんが悲鳴とともに倒れ込む。

 太郎くんを抱きしめ、彼を必死に守ろうとする森本さんへ向け、敵兵が狙いを定めていた。


「やめろッ!!」


 田中さんが血に濡れた腕で必死に銃を構えた。

 だが、狙いを定める前に再び撃たれ、田中さんは地面に崩れた。


「くそがぁ!!」


 池神さんが怒号とともに銃を放つ。

 日立さんも、唸るように叫びながら応戦する。


 だがジープの音。トラックの音。幌から多数の兵隊が降りてきた。


 玲奈は走り、跳ねる。森本さんと太郎くんに覆い被さり大声で叫んだ。

「やらせるもんかッ!!!」


 だが叫び声とは裏腹に心の中は絶望感で支配されていた。

 もうダメだ。死ぬんだ。



 ──バババババッ!


 突如、頭上から凄まじい轟音が降り注いだ。


「ヘリ……!?」


 敵兵が次々と弾け飛ぶ。


 見上げると、機関砲が火を吹きながら敵を蹴散らしていた。


 機体には──迷彩と日の丸。

 側面にくっきり『陸上自衛隊』の文字!



「助かった」

 クマのような大柄な日立さんが、重そうに銃を下ろし、ふらつきながら膝をついた。



 池神さんが血を流す田中さんに駆け寄る。


「しっかりしろ! 田中!」


 田中さんは苦しげに笑った。


「ははっ……この程度じゃ……くたばらねぇよ……」


 頭上を旋回する戦闘ヘリが、敵兵の残党を殲滅していった。

 玲奈は森本さんと抱き合いながら、ただ震えていた。

 安堵か、恐怖か、もう自分でもわからなかった。


 敵を蹴散らした戦闘ヘリは、そんな玲奈の眼前にゆっくりと降下してきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る