第92話 スイカの記憶(後編)
「さあ、せっかくのスイカがぬるくならないうちに食べるわよ」
香澄がスイカを一切れ俺に渡す。一口頬張ると、瑞々しいさと甘さ、そして微かな蚊取り線香の匂いが混ざっていく。
「なんだか懐かしい味がするわね」
俺が思ったことと香澄の言葉が重なる。
「それって、これがあるからじゃないか?」
俺の足元に置いてある豚の形をした蚊取り線香を指さす。
「どうして?」
「昔、香澄の家の縁側でスイカを食べてた時って、いつもこういう蚊取り線香があったよな」
「そうね。最近は部屋の中でばかりだけど」
「きっと、蚊取り線香の匂いと一緒に食べるとあの頃のことが思い出されるんじゃないか?」
記憶って匂いと結びついて脳内に残っているから、それがちょうど引っ張り出されたんだろう。
「そっか、あの頃は今みたいに勉強に追われることもなくて、毎日楽しかった気がする」
「そうか? 香澄はあの頃だって、けっこう勉強してたし、楽しいだけじゃなかった気もするけど」
昔の方が楽しかったと思う時って、たいていはその頃の大変だったことを忘れてる。
今思えば、大したことのないことでも、幼い頃はそれが大問題で悩んだり不安に思ったりしていたはず。だけど、成長するとそんなことは忘れて、いい思い出だけが美化されて残っているだけだ。
「雅紀は今の方がいいの?」
「俺は今が一番いいと思うようにしてる。そうしないとずっと昔の思い出にすがったままで進めない気がするから」
家族がバラバラになってしまった時、思い出にすがっていたら、俺に寂しい思いをさせないようにしてくれていた親父や香澄、源隆さんに悪いと、子どもながらに感じていた。
「あの頃よりも、今が……一番か」
「香澄は今よりも昔の方がいいのか?」
「うーん、どうかしら……あっ、でも、これは昔の方がいいかも」
昔の方がいいことってなんだろう。昔は俺の方が背が低かったとかか?
香澄はスイカを持ったまま、ふふーんとちょっと澄ました顔をしてから、
「雅紀のことを雅紀くんって呼んでたこと」
「ちょっ、ちょっと、いきなりどうした!?」
たしかに香澄と友達になった頃は、香澄は俺のことを雅紀くんって呼んでいた。
でも、それって最初の一年くらいで、いつの間にか呼び捨てになったからすっかり忘れていた。
「ほら、付き合いたてのカップルなら、呼び捨てよりもこっちの方がらしさが出るかなと思って」
「ああ、そういうことか。カモフラカップルのリアリティーを出すためってこと」
ちゃんとカモフラカップルの演出って説明してから言って欲しい。
身構えていないところで急に雅紀くんって呼ばれたから、ドキッとしてしまったというか、クリティカルなものになってしまった。
「ちょっとぎこちない感じもあるから、こっちの方がよくないかしら――」
ドンッ、ドドドンッ、ドンッ。
香澄の顔が橙に染まったかと思った次の瞬間、胸に響く花火の音。
「おっ、始まった」
オープニングを飾る花火が次々と打ち上げられる。
「打ち上げ花火を見るのも久しぶりね」
赤、青、緑、橙と夜空を彩る花火の色に忙しく染められる香澄の横顔。
俺はスマホを取り出し、香澄の方に向けて、
「香澄ちゃん、ちょっと、こっち向いて」
「はひ? ふぇぇっ」
香澄は普段聞いたことがない声といつもの凛とした雰囲気からは想像もつかない慌てた顔をする。
「そんな、慌てるなよ。香澄が昔の呼び方にした方がリアリティが出るからって――」
「だ、だからって、どうして予告なくするのよ」
「名前呼ぶのにいちいち予告なんかするかよ」
「ったく、これだからあんたは!」
ジ――――――ッ。
時に目は口ほどにものを言うなんていうが、この時、俺はまさにその視線が何かを語り掛けるような気がして、はっと上階を見上げた。
そこには口を手で隠す鳥嶋。
ニヤニヤと悪戯な表情の春原。
ジトっとした湿度一〇〇%視線を送るクロエさん。
そして、香澄は赤い花火が打ち上げられていないのに紅い顔をして三人を見上げている。
まったく、三人ともこっち見てないで花火見ろよ!
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次回更新は7月16日の午前6時頃です。
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