第18話
少し冷たい清々しい空気が流れる早朝。ゆったりと銀色の霧が流れ、潮の匂いが鼻をくすぐる。
麦穂は歩き慣れた波止場の歩道を進んでいた。歩きながら、麦穂は大きなあくびをこぼす。倦怠感と頭痛が苛む徹夜明けの朝の散歩だ。スランプ気味だった麦穂だったが、最近ちょっと何かを掴んだ気がするのだ。この感覚を忘れないうちに絵を描いていたくて、昨日は徹夜してしまった。
そのまま麦穂は手元のメモを見ながら住宅街を進む。そして、とある廃墟の前で立ち止まった。ここら辺で悪そうなチンピラが屯っている場所はないかと、麦穂は子供達に聞いていたのだった。いくつか教えてもらったがその一つがこの廃墟だ。偶然だがいつしか麦穂がコンクールのために書く題材を探していた時に写真を撮っていた場所でもあった。
周囲には木々が生い茂り、全てのガラスを失った窓枠のペンキは剥がれ落ちて、鉄の扉は赤く錆びている。崩れかけた壁には蔦が伸びて、不思議な雰囲気だった。こういう廃墟を見るたび麦穂は自分がワクワクするのを感じる。
麦穂はフラフラと中に入っていった。ゴミが散乱し、なぜか一階には煤けたドラム缶が置いてある。吹き抜けの天窓から光が差し込んでいた。麦穂はいつでもどこだって持ち歩いているスケッチブックをリュックから取り出し、探検しながらデッサンをする。2階に続く螺旋階段を上がり、外壁全体を覆い窓から中まで侵入している蔦を描く。鼻歌を歌いながら、だんだんのめり込み夢中で描いているうちに麦穂はうとうとし始めた。最初は目をこすりながらどうにか起きていようと頑張っていたのだが、そうしているうちにいつしか麦穂は眠りについてしまった。
「────だ──」
「──な────」
声が聞こえる。麦穂はハッとして、目を覚ました。
「次の計画日は、三日後だとよ」
「ふーん。ディー、お前の方は順調なのか」
「まあな。金は集まった」
男の声だ。複数人の声がそれぞれ話しているのが聞こえる。
「コレーのやつおせーな。何してんだよ」
「ハッ、アルだってこの前遅刻してきただろうが」
麦穂はその名前たちに聞き覚えがあった。ゆっくりと後ずさると、手が何かに当たる。手に取ってみるとチャリ、と鎖が音を立てた。────ペンダントだ。開けると、若い春草と女の人がにこやかに写っている。麦穂は唾を飲み込むと、ペンダントを胸元の裏にあるポケットに入れた。その時、麦穂は足元のガラス片たちを踏んでジャリ、と音を立ててしまった。
「おいなんか、音聞こえなかったか」
「いや?」
「……アル。見てこい」
「ああ」
カンカンと音を立てて、その男は確かに今そこの階段を上がってくる。麦穂は息を呑んで体をこわばらせていたが、その男の顔が見えた瞬間唖然とした。────勝哉だった。勝哉も口を開いて驚いている。しばらくの間、二人は目を大きくさせて、お互いに凝視していた。
「おい、何やってる?」
「どうしたんだよ、アル」
勝哉は咄嗟に声を出した。
「ッなんでもねえ!!」
「……なんか怪しいな。おいアン。見てこい」
「オッケー」
階段を軽快に上がってきたその男は麦穂を見るなり、叫んだ。
「女だ!! 女がいる!!」
「なんだと?」
麦穂は逃げようと腰を浮かせたが、アンと呼ばれた男に肩を捕まれ、地面に押し倒された。そして腕を両方掴まれたまま強引に引きずられ階段を降りさせられる。
男たちに囲まれた麦穂は冷や汗を流しながら、口の片端を上げてみせた。
「なるほど……ここは最近巷で噂になっている犯罪グループのアジト……つまり悪の根城というわけですね」
「ハッ、いつまでその達者な口が続くか見ものだな」
勝哉が汗を流しながら口を開いた。
「ボス、俺がこいつを黙らせとくから────」
ボスと呼ばれた男は間髪いれずに勝哉をぶん殴った。殴られた勝哉が派手に吹っ飛ぶ。地面に手をついた勝哉は、ダラダラと流す鼻血を袖で拭う。麦穂は顔を青ざめさせた。
「待て、こういう時は……マニュアルがあるんだった」
「またかい、ボス。いい加減格好つかないからやめろよな」
「うるせえぞ、ディー」
ボスは胸ポケットから小さなノートを取り出し読み始める。麦穂は唖然としてそれを見ていた。なんだか知らないが……その間に助けを呼ぼうと麦穂はポケットに入れていたスマホを操作する。しかし麦穂に目を光らせていた男の一人が叫んだ。
「おい!! こいつ何かしてるぞ!!」
スマホを持った手を男が蹴り飛ばし、スマホが手を離れ滑っていく。そのまま手を強く踏まれて、麦穂は顔を顰めた。ボスと呼ばれた男が片眉を上げて麦穂を見下ろす。
「抜け目がねえな。そういう女は嫌いじゃねえぜ……あったぞこのページだ。ふむふむ。女に有効な口止めは……ま、性暴力だな。当たり前か調べるまでもなかったな」
麦穂はゾッとして、冷や汗を流した。ボスは携帯を持って麦穂に向けた。
「お前ら、絶対に口外しようだなんて思わないようにしろ」
抵抗するも無理やり押さえつけられる。男たちはニヤニヤと口元を緩めていた。麦穂はこれほどの恐怖を今まで味わったことがなかった。
「離して!! 離してよ、誰か、助けて!────」
「チッうるせえぞ」
叫んでいると、パンという破裂音、そしてあまりの痛みと衝撃で目の前が真っ白になった。遅れて、ジンジンと熱を持って痛む頬から、平手で叩かれたのだとわかる。
「俺はもっと美人の方が好きなんだよな……」
「つべこべ言ってんじゃねえ。黙らせるだけだろ」
「ま、そうだな」
麦穂がギュッと目を瞑り、男の手が胸元にシャツを掴みボタンを引きちぎったとき、────音がした。
これは……バイクの音だ。
「なんだ? コレーがやっときたのか?」
様子を見に行った男が、しばらくして悲鳴をあげる音がした。そして、扉が轟音と共に蹴り飛ばされて吹っ飛ぶ。
こめかみに青筋を浮かべ、瞳孔が開いた目で、廃墟の中に足を踏み入れてきたのは、翔吾だ。
麦穂はホッとしたあまり涙が込み上げてきた。それにしても何でここがわかったのだろうか。疑問に思った時、視界の隅で勝哉がヘラっと笑って自分のスマホをみせた。翔吾は腕をまくり、男だちを睨み据えながら勝哉に言う。
「後で一発殴らせろよ」
「……おう」
そこからは翔吾の独壇場だった。拳を握った翔吾は次々と飛びかかってくる男たちの攻撃を軽々と交わすと、男たちを殴り飛ばし、蹴り飛ばす。相手は多勢だと言うのに一歩も引いていない。殴り、殴られ翔吾は口の片端をあげる。気付けば翔吾の拳は返り血でべっとりと濡れていた。時折口には尖った犬歯がみえ、瞳がギラギラと光る。一度喧嘩となれば、獰猛な男だ。血がこんなに似合う男もいないだろう。麦穂はぽかんと口を開き、目を大きくさせて見つめる。フラフラと立ち上がると、自然と胸に手を置いていた。
麦穂は初めて出会った時のことを思い出していたのだった。
それは何ヶ月も前。画材を買った帰りのことだった。駅への道を見失った麦穂はフラフラと見知らぬ道を歩いていた。その時、近くの路地に男たちの喧騒が聞こえたのだ。好奇心が抑えられず、麦穂は少しだけ覗いてみることにした。その選択が麦穂の運命を変えるとは知らずに。
その男を一目見た瞬間に、麦穂は稲妻に打たれたようだった。
そこにいたのはダビデ像も裸足で逃げ出すような美人だった。艶やかな青みがかった黒髪から覗く、野生み溢れる切れ長の目は翠を反射する。黒がよく似合う男だった。剥き出しの腕に走る筋肉質なラインは色気が匂い立つようだ。その美しい男が嘲笑したように口角をあけ、拳を振り抜く。その男から放たれる言い表しようのない迫力に、麦穂は圧倒された。
まさに、麦穂の世界が崩れた瞬間だった。
息もつけない衝撃の中、麦穂はかろうじてこれが恋だと悟っていた。スケッチブックを取り出し鉛筆を滑らしたのはもはや反射だった。
「あ、私のことは気にせず!そのまま、そのまま続けてください!」
麦穂は夢中になって翔吾を描いた。ただこの奇跡を、美しいひとを、ずっと描いていたかったのだ。
「は?舐めてんのか、なんなんだよテメエ」
「舐めてはないです、描いてはいましたが」
麦穂はもう一人の男に殴られかけても歯牙にもかけなかった。殴られるくらいなんだって言うのだろう。こんなに美しいものを描けたのだから、それくらい安い代償だと思っていたのだ。
……あの時、頭に鮮烈に焼きついた翔吾と共にいれることは麦穂にとって、まさに降ってわいた奇跡だった。彼の一言一言が、彼と過ごす時間の一秒一秒が、宝石のような価値があった。
麦穂が可愛らしい椿のような乙女だったのならつまらないことは何も気にせず堂々とアプローチできたのかもしれない。しかし現実には違う。身の丈にあっていない相手だと麦穂は正しく理解していたのだ。
最後の一人を一発KOした翔吾がこっちに駆け寄ってくる。さっきまでの獰猛な様子はなりをひそめ、心配そうに眉を寄せている。
麦穂は震える手を握った。その震えは恐怖からではない、感動でだ。
あの時の衝撃を上回る、歓喜とも呼べる名前のつかない衝動に麦穂は今、突き動かされていた。描きたい。早く、一刻も早く。
「っ最高です!! これこそ私の求めていたもの……」
声が震える。
「大丈夫か、どこか痛むのか。まさか、頭でも殴られたのか!?」
頬を赤く染めて支離滅裂なことを叫ぶ麦穂に心配する翔吾。しかし麦穂は気にもせずに目を爛々と輝かせながら叫ぶ。
「見つけました!! 私のミューズ……!!」
絵を描きたい。今はただそれだけだった。
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