男の痩せた瞳を見るなり、女（おんな）楼主（ろうしゅ）の鹿野（かの）はにたりと厭らしく口端を吊り上げて咥えていた煙管を外した。

「御小柴（みこしば）ぁ、いいのを連れて来たじゃないかい」

「そうでしょう！　こいつぁ隣町の裏長屋を、まるで亡霊のように歩いてやしてね。食い扶持（ぶち）もなけりゃあ頼る当てもねぇってんで、連れて来たんでさぁ」

　艶のある板敷に面した内所（ないしょ）には、鹿野と、女衒（ぜげん）の御小柴が座っている。一方、外では男が一人呆（ほう）けた顔で突っ立っている。二人に比べると身なりがみすぼらしく、寿命幾ばくかの毛並みの悪い猫か鼠のような男だった。見るからに卑賎（ひせん）である。しかしまだ若く、顔立ちや背丈の見込みだけは充分で、それがこの女楼主の目に留まった。

　内所の中央、派手な縁起棚を背に座した鹿野は、蛇のような目をキュッと細めて男へ手短に訊ねる。

「借金はなんぼだい。家族がいるのか孤児（みなしご）か。歳は？」

「……、……おいッおめぇに聞いてんでぇ！　早く答えねぇか！」

「あ……。親は……いなくて。歳は……分かりません」

「借金は？」

「多分……ありません……」

「そうかい。それじゃ、おまんま食いに来たってこったね」

　彼女の言葉に、男は一つこくりと頷いた。

「安心しな。人様にゃぁ言わないが、うちで働いてるのはなにも借金の形に売られた奴だけじゃない。あんたみたいに生きるのが下手で、野垂れ死ぬ寸前でここに来た奴もいっぱいいる」

　すると御小柴は福々とした顔の皺を深めて、鹿野へ向き直った。

「それじゃ、買い取ってくれるんで？」

「ああ。……だけどおつむの方はうちの（禿）子たちより酷いねぇ……こりゃあすぐには見世（みせ）に出せない」

「ま、まぁ……ちいとばかし白痴（はくち）の気（け）はありますが、なぁに、きっちり教え込めばすぐですよ。なんなら、口なんか開かねぇ方がいいでさぁ。黙ってた方が、かえって華があるってもんで」

「そうだねぇ……お前さん、名前は？」

　他人事のようにぼんやりとしていた男は、その面（おもて）で鹿野を見たまま、今度は緩く首を横に振る。

「名前、ない……でも、町の人の小間使いして……こま、って呼ばれてた」

「そりゃ、また随分安直だね。でもまぁいいや、こま。あんた見たところ十八かそこらだろうが、まだ客取りは出来ないよ。数ヶ月は十（とお）そこらの禿たちと一緒に、読み書きや芸事を習う。いいね？」

　こまが頷いたのを見て、御小柴はそれ以上に何度も、深く頷いた。

「良かったなぁこま。ここはこの男廓（おとこくるわ）ん中でも一等良いとこだ。それにおめぇ、まだ女の味を知らねぇんだろ？　この姐（ねえ）さんほど上（・）手（・）ぇ（・）女（・）は他にゃいねぇ、しっかり習いな」

「やめとくれよ、あたしの話なんかしないどくれ」

「いやいや本当のことでさぁ。町を歩けば分かるでしょうよ、皆があんたを褒めらぁ」

「んなことよりも今はこまの話だよ。どう転ぶか分からない男だがまあ、たまには博打もいいさね」

　己の懐を探った彼女は手始めに、三両を女衒へ投げ渡したのだった。

***

　御小柴は金を受け取るとそそくさと白藤屋を後にした。時刻はちょうど昼四ツ（朝十時）。鹿野は通りがかった若衆へ、二階で忙しくしているであろう遣手（監視役）を呼ぶように言ってから、いまだ板の間に突っ立つこまを手招いた。彼の足取りは心許なく、はたしてちゃんと床を踏めているのかも分からないほどにふらついている。

「もちっとこっちに」

　適当なところへ腰を下ろしたこまへ、鹿野が煙管の先で傍の畳を叩く。するとこまは黙っていざり寄り、言われたところへきちんと正座し直す。「どれ顔を、」と手招かれ、黙って身を乗り出した。

　彼女の冷やりとした指が、こまの滑らかな肌に触れて顎を掴んだ。左右、上下に動かされ、まじまじと見る。

　それは極々純粋な眼差しで、厭（いや）らしいところは少しもなく、まるで商人に薦められた壺や錦織（にしきおり）の着物でも見るかのような、静かな品定めであった。こまはずっと顔を俯かせていたが、ぐいと顎を上向かされたのにつられて、伏せていた目を上げる。

「なんだい」

「その……いえ」

　口篭もった彼にも鹿野は短い哄笑（こうしょう）を返すだけで、あっさりと手を引いた。間もなくして、遣手（やりて）が階段を下りてやって来る。

「はいはい遅くなりました、ゐすけの野郎がね、またポカをやらかしたんですわ」

「そうかい。ほら、こっち座っとくれ。新しく入った子だよ。名前はこまっていうんだけど」

　言われて二人の正面に腰を下ろした遣手は、いまだ鹿野の方へ身体を傾げているこまを見て驚きに眉を上げる。

「こりゃまた、上等が来ましたね」

「だろう？　だけどまずは、禿たちと一緒に最低限のことを教えてやんな」

「その間のメシ代は」

「んなもんはすぐに取り戻せるだろうさ。この子は借金で売られたんじゃない」

「はぁ、そおですか。あい分かりました。こま、わっちは遣手の揚羽（あげは）ってんだ。遣手ってのは、あんたら娼妓（しょうぎ）の世話役みたいなもんだよ」

　揚羽は長い髪を女のように結わえていて、痩躯の身体は萌葱（もえぎ）色の着流しに包まれている。細やかなパーツが揃った面（おもて）の中でも一等目立つ見事な柳眉が、会話の最中で時折神経質に持ち上がる。薄い化粧が施されていて、その外貌（がいぼう）はどう見ても普通の男ではなかった。

　こまはこの、目に毒なほど艶美（えんび）な空間にもよくよく馴染む男を眺めた。彼の色遣いは決して派手ではないが、丁寧に作り上げられた芸術品そのものである。同時に揚羽からは、真白い象牙細工（ぞうげざいく）が時間と共に薄く黄ばんでいくような、年増の雰囲気も感ぜられた。

「この格好が気になるかい？　そりゃあ、外から来たんだから無理もないね。……わっちも前までは、ここで娼妓として働いててね。年季が明けたって、染みついたモンは中々抜けないのさ。女形（おんながた）は皆こんな見た目と話し方だから、早く慣れちまいな」

　揚羽は言いながら、みすぼらしい彼を頭の先から爪先まで眺める。

「あんた……身体が大きいから女形は無理だね。顔は綺麗なのに勿体ない。女形が一番稼げるんだよ」

「いや、こまには、男も女も両方とらせる」

　そんな主人の言葉に、揚羽はヒェッと小さな悲鳴を漏らした。しかし余計なことは一切と口にせず、ただこまを手招く。

「励むんだよ」

　立ち去るこまの背にそんな言葉が投げられた。「先（ま）ずは風呂だよ」と言う揚羽は足早に歩きながら、時折は横目に、心許ないこまの様子を眺めるのだった。

　さて、その日の夜（よる）見世（みせ）が始まる少し前。

　内所のさらに奥の間に按摩（あんま）を呼んだ鹿野は、畳の上に寝そべって極楽の唸り声を上げていた。

「あぁ～……気持ちが良いねぇ……あんたの按摩がこの世で一番だよ……」

「相変わらず肩が酷いですねぇ。また読み物ばかりしてたんでしょう」

「まぁね……うッ」

「ちょいとばかし強くしても？」

「あぁ構わな、あいたたたッ」

　足をばたつかせて悶えているところに、スパンッと障子が開く。そこに立っているのは、艶のある黒髪を乱した一人の娼妓であった。彼は狐目を恨みがましく吊り上げて、綺麗に結い上げられていた筈の前髪の、垂れ落ちた一房を雑に撫で上げる。

「なんだってあんな阿呆（あほう）を入れたんだい！」

　鹿野が頭を上げて男の様子を見やる。髪を乱した男の、紅の乗ったおちょぼ口は悔しげに歪められて、今にも噛み千切れてしまいそうである。

「そんなに唇を噛み締めたら、折角の紅が剥がれちまうだろうに」

「そんなこたぁ、どうだっていいのよ！　あんな馬鹿みたいな木偶（でく）の坊（ぼう）、顔だけじゃないかい！　なにさ、わっちが男にばっか媚びへつらってるから嫌んなったんだろ！　もうわっちは用済みってかい！？」

　捲し立てる男に、鹿野は長い溜息を吐いて身体を起こす。

　その間にも男の、紫の着物の中に仕舞われた長い足は悔しげに地団駄を踏んでいた。

「銀之丞（ぎんのじょう）、一体どうしたっての。ったく……なんでお前さんは、新しいのが入る度にそんなことになっちまうんだろうね」

　銀之丞と呼ばれた男は、支度もそこそこに二階の座敷から下りて来たと見え、帯の結びも着物の合わせも滅茶苦茶だった。それでも彼はお構いなしに、縋るように鹿野へ詰め寄る。

「ねぇ今から抱いておくれよ、そうすれば今日はイイ子にするからさぁ」

「今日はってなんだい、駄目に決まってるだろうよ」

　間髪入れずに否定の言葉を浴びせられた銀之丞は、媚びた顔から一転して目尻を吊り上げた。

「はぁ、銀之丞。お前は時々強情になるけど、本当は聞き分けのいい子だってちゃあんと分かってるんだから、皆を困らせるのはもうお止し。髪もこんなに乱れて……綺麗な顔に悋気（りんき）なんざこさえて、勿体ないったらありゃしないよ」

　言いながら銀之丞の頬に触れ、親指で口の縁（ふち）を撫でる。それだけで主人を睨めつける刺すような視線が緩むのを、彼女はしかと心得ていた。

　そこへ、再び廊下が騒がしくなる。次にどたどたと内所へ入ってきたのは揚羽である。彼は鬼の形相で、銀之丞の首根っこを引っ掴んだ。

「てめぇ！　何やってんだいこんなとこでッ！　こんの色ぼけ野郎が！」

「アッ、やだ、離せったら！」

　着物の裾を乱しながら引き摺られていく様は下手な狂言のようで、まさに喧噪極まれりの大騒ぎである。

　鹿野はふぅと一息ついて、二人を見送ってからやっと、じっと大人しくしていた按摩を振り返った。

「すまないねぇ、いつも騒がしくて」

「いーえ。お銀さんは今日もお元気なようで」

「元気過ぎて困っちまうよ」

「にしても、新しいお方が入られたんですか」

「ああ。ちょいとばかし頼りなくて、ぼけっとした男だけどねぇ。でもね……何というか、目がいいんだよ」

「目、ですか……」

「目は心の窓って言うだろう。そいつぁこまって名なんだけど、こまの目は魂を落っことしちまったみたいに虚ろでねぇ。でも乾いたあの目が少し潤んで光れば、男も女もきっと一緒くたにや（・）ら（・）れ（・）ちまう」

「へぇ、そりゃあまた、なんだか凄みのあるお方で……」

「そうさ。こまの心にはぽっかりと大きな穴が空いちまってんだ。それでその穴が、目を介して人を吸い寄せんのさ。時たまいるんだよ。ああいう、人を喰っちまう魔性を持った奴が」

　すっかり衿（えり）を正して腰を据えた鹿野の横で、話を聞いていた按摩は眉尻を下げて、恐縮して身体を縮こめた。

「あっしには学がないもんで、姐さんの言うことはよく分かりませんが、とにかく凄いお方が入ってらしたんですねぇ。次に来る時はどんなお話が聞けるか、楽しみにしております」

「ああ、そうしておくれ……さて。表はもう混んでるから、裏口から送ろうかね」

「いつも手を貸してもらいまして、すみませんねぇ」

「いいんだよ、あんたにゃいつも世話んなってんだから」

　鹿野はそう言って、按摩の腕を支えながら内所を出た。

　夜見世を控えて慌ただしい若衆（わかしゅう）や娼妓たちが、擦れ違いざまに二人へ声を掛けていく。彼女は裏の戸口まで按摩を送ると、その手に多めの労賃を握らせるのであった。