第3話 彼の部屋で

「だって、相田あいださんは、うちで一番熱心な生徒さんですから」

「ああ、なるほど、そういうことでしたか……」


 思わず苦笑してしまう。いろんな無料講座に参加しまくっていて、しかも痩せようと必死に頑張っているから、スタッフに覚えられてしまったのだ。ますます頬が熱くなる。穴があったら入りたい気持ちだ。


「それに、相田さんって背が高くて……」

 心が身構える。傷つくことを言われるんじゃないかと、緊張状態になる。

「素敵だなって思ってたんです」

「あ……」

 一気に緊張がゆるんだ。私の心の一番弱いところをぐっと鷲づかみにされたかのよう。

「でも、あの、デカい女って可愛くないですよね、夫からもよく言われるんです……」

 我ながら変なことを言っているなと思うが、口が勝手に動いてしまう。気が動転している、というより、舞い上がっている、ということなのかも。こんなに綺麗な男の子に素敵っていわれて、がらにもなくドキドキしていた。


「だから私なんて全然ダメで……背が高いんだから、せめて痩せなきゃいけなくて……」

「え? 相田さんって十分スリムじゃないですか、痩せる必要ないと思います」

「そう……ですか……でも背が高いくせに太っていて、みっともないって夫が」

「いや! 相田さんは今のままで素敵だと思いますよ。旦那さんはどうしてそんなことを……」


 彼は、そこで言葉を飲んで、少し視線を泳がせてから、意を決したように、私にまっすぐ目を合わせてきた。


「それで、先ほど聞いてしまった電話なんですが……失礼を承知で言わせてもらいますと、製薬会社が浮気を治すって、ちょっと怪しくないですか」

「う……」

 もちろん怪しいと思う。そんな怪しいところに電話を掛けていたことを知られてしまうなんて、さらに恥ずかしい。ああ、家に帰ってから電話すればよかった。でも、今すぐどうにかしたいという気持ちを抑えられなかったのだ。


「浮気をするような夫なんて、治療するより別れたほうがいいんじゃ……」

「先生」


 彼はアシスタントだから厳密には先生ではないのだろうけれど、ほかに呼びようもないし、たまに生徒に指導をしていることもあるから、そう呼んでも差しつかえないだろう。


「それは……立ち入りすぎですよ」

 たしなめるように、でも冗談っぽく聞こえるように、少し微笑みながらくぎを刺した。もうこれ以上、この話題に触れてくれるなという言外のメッセージでもあった。


「す、すみません」

 彼が顔を真っ赤にしたのを見て、私は慌ててしまった。こんなふうに恐縮されてしまうとは思わなかったのだ。立ち聞きとはいえ、聞き捨てならないと真剣に意見してくれただろうに。

 その幼くもある純粋な親切心に、胸の奥があたたまるのを感じた。


「謝らないでください。先生のおっしゃること、本当はよくわかっているんです。ただ、私は弱いから、別れたくても別れられない。自分でも情けなくなります」

「相田さん」

 彼は一歩前に踏み出した。

「僕でよければ相談に乗らせてもらえませんか。その、浮気を治すとかいうところよりは信用できるんじゃないかなと。自分で言うのも何ですが……」

「でも……」

「僕じゃ頼りにならないでしょうか」

 そう言われてしまうと断りづらい。浮気のことはもう聞かれてしまったわけだし、いっそ相談相手としては適任かもしれない。

「だから、その奇妙な製薬会社に相談するのはやめてください。そこ絶対怪しいですって。関わらない方がいいですよ」

 私は返答を濁して、曖昧に笑ってみせた。彼は困ったようにその綺麗な顔をくもらせていた。




 その後、彼とカフェに行った。プール近くにあるカフェで、あまり客がいなくて、通りに面したガラス窓から行き交う車を眺めながら、話を聞いてもらった。

 夫のこと、ダイエットのこと、それから生活費のこと。しゃべることで気持ちの整理がついたのか、少し気持ちがすっきりした。


 彼のことも聞いた。名前は如月きさらぎ幸希こうき。大学3年生で21歳だから、私より6つ年下ということになる。



 その日以来、たびたび二人で会うようになった。


 最初はお互いのことを話すだけだったが、一緒にどこかに出かけることがふえ、話をするようになって一月も経たないのに、もう彼の部屋にまで行ってしまった。


 ただ、一線は越えていない。何度か誘われて、心が揺れたことはあったが、自分は既婚者であるということを考えたら、どうしてもできなかった。




 その日、午前のダイエット教室に出て、昼食休憩の幸希くんとともにプールを出ると、彼の部屋に行った。

 部屋に入るなり後ろから抱きしめられ、その手が胸元に伸びてくる。服を脱がされそうな気配を感じて制止した。

「ダメですよ」

 手がひっこんだかわりに、うなじにキスを落とされ、熱い吐息がかかった。

 ごめんなさい。彼の切なげな吐息に、罪悪感を抱く。でも、私はまだ不倫に踏み込むことができない。人が見たら、もう既にまぎれもなく不倫をしているじゃないかと言うかもしれないけれど、それでも一線を越えないということにこだわっていた。


 夫への愛は冷めており、心は年下の彼に向かっている。とっくに堕ちているのだから、行けるところまで行って何が悪いのかと、彼を求めてしまいそうになるときもある。けれど、私はそれを押し殺す。


「相田さんのご主人は気づいているんでしょうか?」

「何に?」

「あなたのうなじのすっと伸びた美しさに。すごく色っぽいですよ」

 いまどきの大学生はお世辞も上手だ。そう自分を誤魔化しても、頬が上気するのは隠しきれない。


「プールで初めて相田さんを見たときから、綺麗だなって思ってたんです」

 彼が本当にそう思ってくれていたら嬉しい。けれど、冗談のふりをして聞き流さないといけないときもある。自分の欲望を抑えたいときなどは特に。


「もう上手なんだから……。それより、おなかすいたでしょう? 今日はどこに出かけましょうか。何かつくってもいいけれど」

 ふいに、私のスマホが鳴った。びくりと身をすくませてしまう。何か後ろめたいことがあるみたいに。これではまるで……まるで不倫でもしているみたいじゃないか。


 私が狼狽えていると、彼がキスしてきた。絡み合うキスの深さが、罪の深さを物語るようでくらくらする。

「ん……もう、ごはん食べなきゃ……お昼休憩が終わっちゃいますよ」

「でも、もう少しだけ……」

 人妻が若い男の部屋を訪れ、服を着たままとはいえ体温を交換する。それは間違いなく夫への裏切りだった。



 一度でも人を裏切った人間は、二度目も平気でやるようになるのかもしれない。


 スマホの着信は、製薬会社からのものだった。きっと浮気治療の面談日が決まったという連絡だろう。私は、そちらに相談に行くつもりだ。もちろん夫にも彼にも内緒で。


 彼には二重の意味で言うことができなかった。怪しい製薬会社に相談に行くのをとめられていたからという理由と、夫との再構築の可能性を捨てていないことを知られたくないからという理由で。


 夫の浮気が治ったら、付き合っていたころみたいな優しくて楽しい夫に戻ってくれるのではないかという期待があった。私を家政婦ではなく、ひとりの女として見てくれるんじゃないか……そんな夢を見てしまうのだ。夢が現実になることなんてないと頭ではわかっているのに。

 私が彼と一線を越えることを拒否している本当の理由は、まだ夫を諦めきれないからなのかもしれない。なんて自分勝手なんだろう。

 

 いつの間に、自分はこういうふうになってしまったんだろうか。夫を愛して、それで、ただそれだけで良かったはずの人生だったのに。どうして、こうなってしまったんだろう。





 数日後、私は指定された製薬会社を訪れていた。

 それはくしくもダイエットを始めてからちょうど2カ月、減量の成果を夫に報告する日でもあった。


 減量報告は夜、夫の帰宅後だ。

 だから、この日は朝から何も食べず、空腹に耐えながらプールで泳ぎ、午後3時過ぎに製薬会社に向かうため、電車に乗った。


 1時間ちょっとで到着したアクウェイズ製薬という会社は、5階建てのこぢんまりとした建物で、レンゲの咲きみだれる田んぼに囲まれ、背面には小さな裏山を持っていた。

 笛の音のような音がして見上げると、晴れた空を野鳥が舞い、高い声で鳴いていた。

 製薬会社というのは大会社というイメージだったから、のどかな里山の雰囲気に少し驚いた。こんな小さな建物で研究なんてできるのだろうか。あるいは、ここは事務所というやつで、薬は別のところでつくっているのかもしれないが、それにしても……。


 覚悟はしていたが、やっぱり胡散臭い。

 そもそも製薬会社と浮気相談になんの関係があるのかもわからなかった。



 だけど、私は足を止めることなく正面玄関へ向かうと、受付で名前を告げた。

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