この毒に身を焦がせば

ゴオルド

第1話 DARVO――モラハラ浮気夫

 暖房の効いた市民プールの女子更衣室で、目をつぶって体重計に乗った。

 そっと目を開けて、そこに表示された数字を確認し、がっくりと肩を落とす。

 もしかしたら水着が濡れているせいで、重くなってしまっただけかもしれないと思い、着替えて、肩ほどまである髪も念入りに乾かしてから再度測ってみたが、表示される数字はさっきと変わらなかった。


「……4キロしか痩せてない」

 残り1カ月。あと6キロ痩せなければ離婚されてしまう。



 夫の浮気を問い詰めたのは、今日からちょうど1カ月前、2月のこと。


 私の名前は相田あいだ三緒みお。二十代後半で専業主婦、子供はなく、三十代前半の夫に浮気されている。

 恋愛結婚で、夫は中小企業のサラリーマンで、住まいは家賃の安さで選んだ駅から徒歩25分の2LDKの賃貸マンション。貯蓄はあるにはあるけど自慢できるほどの額でもなく、夫の義実家とはイマイチ不穏な関係。特に義母が無理。というか義父もおかしい。つまり、私は日本のどこにでもいるような、まあまあ平凡なサレ妻である。


 犬でも飼っていれば良かったかもしれない。犬なら少なくとも私の味方になってくれたかもしれないし。猫でもいい。不倫発覚で傷ついた心が癒やされたに違いない。文鳥も可愛くていいな。ハムスターもいい。今さらこんなこと考えても遅いんだけど。



 夫の浮気の証拠――たくさんあるが、たとえばホテルやアクセサリーの領収書、不審な無言電話、もしやと思いこっそりのぞき見たスマホに残っていた不倫メッセージ……そういったものを突きつけて非難すると、夫はふて腐れたような顔をしたものの、あっさりと認めた。

 

 何となく嫌な予感がした。

 普通こういうときって必死に否定するものなのでは?

 なんで簡単に認めたの? それだけ愛がないってことなのだろうか。浮気発覚でついた傷とは、また別の傷が心につけられた。


 浮気を認めた夫は、謝るどころか、その真逆の行動に出た。

「おまえがデブだから悪いんだ」

「女を怠けているから」そんなことを言って、「俺の浮気はおまえのせいだ」と私を責めたのだ。


 その上、浮気相手の写真まで見せてきた。

 背の低い、細身の若い女性だった。それもかなりの美人だった。


 夫もやせ形で、背も低いほうだ。だから、どこかのテーマパークで撮ったと思われる二人の写真は「ぴったりお似合いのカップル」という感じがした。


 夫の胸あたりまでしかない女性と、肩に手を回した夫が、四角い枠の中で幸せそうに笑っている。私が相手だったら絶対にできないポーズだ。私が膝を曲げればなんとかいけるかもしれないけれど。



「彼女が着てるワンピース、俺がプレゼントしたんだ」

 二人の写真が表示されたスマホ画面を指さす。桜色のふんわりしたワンピースは、とても愛らしくて、まるで妖精のよう。

「なんでそんな……妻の私には服なんて買ってくれたことなかったじゃない。可愛い服なんて一度も」

 それなのに愛人には買ってあげるんだ。ひどいよ。非難を込めて睨んだが、なぜか夫は胸をはって、力強く頷いた。

「それだよ!」

「え?」

「俺はさあ、女の子に可愛い服を買ってあげたりしたかったの。それなのにおまえは無駄にでかくて、ごついから、女の子に服を買ってあげるっていう夢を、俺は我慢させられてたんだ。おまえの体型のせいで、俺は不幸だったんだぞ」

「……なに……それ……」

「だって、おまえって可愛い服とか、こういうピンクのふりふりしたやつって全然似合わないじゃん。自覚ないのか?」

「自覚はある……けど……」

 私は女性としては背が高いほうで、それがコンプレックスだった。可愛い服なんて絶対似合わないと思う。そういうキャラでもないし。でも、そんな私を、結婚前の夫は格好良いと言ってくれていたのに。あれは嘘だったのだろうか……。


「それだけじゃない」

 夫は口元に笑みすら浮かべて、たたみかけてくる。

「おまえが仕事を辞めたいって言ったとき、反対せず、養ってやるって言ったのは、おまえを愛していたからなのに。それなのに、ちょっと体型に気をつけることさえ嫌がるのか?」

「それは……」

 夫は、どう言えば私をやりこめることができるのか、よく知っている。

「専業主婦になるっていうおまえの希望を俺はかなえてやったのに、可愛い女の子に服を買ってあげたいっていう俺の夢は我慢させられてるの、おかしいだろ」

「でも、だからって、浮気は……」


「はあ? 口ごたえするのかよ。そんなことだからほかの女で息抜きしたくなるんだろ。見た目だけじゃなくて性格まで可愛くないなんてさ、そんな女房といると息が詰まるんだよなあ」

「ごめんなさい……」

 私が謝ると、夫は、やれやれ、という顔をして、私にダイエットを命じた。



 私は身長が170センチあるから、56キロは決して太っているほうではない。しかし、夫が言うには、女は背が高いなら余計に痩せて華奢にならないと可愛げがないのだそうだ。夫は私より背が低いのを気にしているところがあり、背が高い女はせめて痩せていないとダメだと言い放った。


「縦にも横にもデカい女って、可愛くないじゃん」


 浮気をした夫がいけないのに、なぜ私が体型についてダメ出しをされないといけないんだろう。なぜ夫のほうが被害者であるかのような顔をしているんだろう。いつのまにか被害者と加害者が逆転している。うちの夫婦はいつもこうだった。


 私が夫に文句を言うと、なぜか私が謝ることになり、夫は私を許し、それで喧嘩が終わる。終わったことになる。私は心にもやもやが残るけれど、それを飲み込んで、夫のために細々とした家事をする日常に戻る。


 私たちって、いつからこうなってしまったんだろう。


 今回、夫は私の体型をなじるだけでは満足しなかった。


「おまえのせいで俺は不倫なんかしなきゃいけなくなったんだから、その謝罪として痩せて綺麗になってみせるのは当然だよな? そうだなあ、2カ月で10キロ痩せてみろよ」

「10キロも!? そんなの無理だよ」

「じゃあ、離婚するか」

「そ、それは……」

「2カ月で10キロ。もしできなかったら、罰としておまえに渡す生活費は月2万円にする」


 生活費が2万円になるという脅しは、私から正常な判断力を奪うのに十分すぎるほどだった。どうして浮気された側が謝罪するのかという疑問も不満も一瞬でかき消されてしまった。


 生活費が毎月2万円になったら、どうなる?

 混乱した頭で必死に考えた。

 きっと食費だけで使い切ってしまうだろう。日用品を買う余裕もないはずだ。あとスマホは解約するとして、髪も自分で切るしかない。いや、だめだ、外見で手抜きをしたら、夫から「女を捨ててるハズレ妻」と責められてしまう。「おまえが綺麗にしていないから、俺はよその女に目が行くんだ」という夫の声が聞こえてきそう。美容代を確保しつつ、2万円で生活なんてできるのだろうか。無理にきまっている。だから10キロ痩せなければいけない。でも、ダイエットに失敗してしまったら? それで2万円で生活できなかったら?


 私は捨てられてしまうのだろうか。

 離婚の二文字が頭をよぎる。

 それだけは回避したい。

 でも、夫を愛しているわけではない。


 本当のことを言うと、もう愛情なんかなかった。ずっと前から。


 夫は結婚前はよくしゃべり、よく笑う楽しい人だったのに、結婚したとたんに変わってしまったのだ。いや、本性をあらわしたといったほうが正確かもしれない。夫は私に対して一切の優しさも愛情も示さなくなった。私は家事をする家電製品みたいなものだと思われているんじゃないかという気すらする。人間としても女としても見てもらえず、それでいて綺麗にしていないと責められて、ずっとレスで、ついには浮気まで……。でも情けないことに別れられない。


 私はずっと専業主婦で、もう働ける自信がないのだ。

 結婚前は働いていた。でも、もともと生理痛が酷く、仕事を毎月必ず休んでしまうことがきっかけでパワハラを受けることになった。それで心身の調子を崩して退職した私には、もうフルタイムで仕事をする自信はなかった。夫からも「おまえなんかに仕事なんて無理」とたびたび言われていた。そう、私なんかには……。


 ひとりでは生きていけない。

 お金を稼げない。頼れる実家もない。

 それなら我慢するしかない。

 生活費2万円では、どう考えてもやりくりできない。

 だから2カ月で10キロ痩せるしかない。


 夫の本心はわかっている。私に渡す生活費を減らし、浮いたお金を彼女との交際費にまわしたいのだ。だから痩せろと言いながらも、私がダイエットに失敗するのをむしろ期待しているはず。私が苦しんだり悲しんだりすることさえ、夫にとってはちょっとした暇つぶし程度のものに過ぎないのだろう。


 こいつは自分から離れられない、そう確信した男は、女に対してどこまでも残酷になれるのだ。


 こんな男、一生を添い遂げる価値はない。

 そうわかっているのに、私はダイエットを頑張るしかないのだ。





「大丈夫ですか」

 声を掛けられて、意識が引き戻された。


 更衣室の隅でタオルで頭を拭いている中年女性が、私のほうを見ていた。

「もし悩んでいるのなら、女子トイレに行ってみたら?」

 そんなふうに声を掛けられるほど、私は思い詰めた顔をしていたのだろか。

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