見えないものたちの交響詩
- ★★★ Excellent!!!
剣と魔法、勇者と聖女が登場するファンタジー。
しかし、そこで描かれる人々の悩みや社会の軋轢は、私たちの暮らす現実の延長線上にあります。
かつて世界を救った聖女モルゲンは、今は街角の小さな雑貨店で微生物の研究に没頭しています。
聖女の華々しい奇跡ではなく、パンを膨らませる酵母や、紅茶の香りを豊かにする菌といった、目に見えない小さな存在の働きにこそ、世界の真実があることを、この物語は教えてくれます。
物語の軸となる「共生」というテーマは、微生物たちの営みを通して、驚くほど豊かに、そして深く描かれています。
異なる菌が出会うことで美味しいチーズが生まれる「発酵」のように、人間と魔族、考え方も生き方も違う者たちが交わることで、新しい文化や関係性が生まれていく。
反面、時には腐敗し、傷つけ合う「抗生」の関係もあれば、一方的に利益を吸い上げる「寄生」のような不均衡も存在する。
そんな世界の複雑さをありのままに見つめながら、それでもモルゲンたちは「共に生きる」ための、より良いレシピを探し続けます。
嫌いなものを無理に好きになる必要はないけれど、困っている誰かのために椅子を一つ用意してあげる。
そんなささやかな優しさこそが、この息苦しい世界を少しだけ変えるのかもしれません。
登場人物たちがそれぞれに抱える「呪い」と、そこからの「癒し」の過程。
勇者アルトゥールが背負う壮絶な過去の傷、差別の中で育った弟子が抱く歪んだ愛情、そしてモルゲン自身が自分にかけた、恋心を忘れるための呪い。
彼らの痛みが繊細に描き出されるからこそ、私たちは彼らの葛藤と選択に深く感情移入してしまいます。
そして、そんな彼らが互いの弱さや過ちを認め、赦し合い、不器用ながらも支え合おうとする姿に、救いを見出します。
完璧な人間など、どこにもいません。
誰もがみな傷つき、迷いながらも、誰かのために、そして自分自身の幸福のために一歩を踏み出そうとします。
幸福とは、遠いどこかにある特別なものではありません。
誰かと食卓を囲んだり、失敗を笑い合ったりする日常の中にこそ宿る、ごく身近なものです。
目に見えない菌が世界をゆっくりと変えていくように、一人ひとりの小さな思いやりや、諦めない心が、この社会をより良いものへと「発酵」させていくのかもしれません。
自分の周りの世界を、昨日より少しだけ優しく見つめ直したくなる。そんな素敵な読書体験でした。