51. 掴みそこねて

 身体中の痛みが、ぼくを弱気にしていくのなら、痛み止めを飲めば、強気になれるのか?――いや、ぼくを弱気にしてしまうのは、ぼく自身のこころの弱さであって、ぼくを強気にしてくれるのは、周りのみんなのおかげだ。


 そでから舞台へ飛び出すとき、誰かがぼくの背中をポンと叩いた気がした。その手は、絶叫ぜっきょうさんの手のようで、芽依めいの手のようで……少なくとも、大切なひとが背中を押してくれたのはたしかだ。


 ぼくは、勢いよく飛び出さなければならなかった。こんな見た目だけれど、ネタをするのに支障はないということを分かってもらうために。もしイーゼルとフリップをゆっくりと持って出てきたら、お客さんたちは心配をしてしまう。


 そして、この痛々しい見た目を、ネタのつかみにする。


「どうも、四条優理しじょうゆうりと申します。昨日、度胸試しをしていたんですよ。橋から川に飛びこんでみろってあおられましてね。それでケガをしたんです。その相手は、小学生だったんですけどね」


(あっ、スベってる)


 失敗した。舞台袖ぶたいそでで思いついたことを、よく吟味ぎんみせずに言うものじゃない。こころのなかで、深呼吸をする。あせる気持ちを落ちつける。気を取り直して、本ネタへと入っていく。


「ぼく、高校生なんですけど、いわゆる陰キャでして、クラスのすみの方で学校生活を送ってまして、そうすると、妄想ばかりするものですから、考えついたんですよ……」


 フリップを一枚めくる。

 そこには太いマジックペンで、こう書かれている。


《スーパーマンになるためには》


 自作の言語を使うというのは、奇をてらいすぎていたのだ。先人の作ったフォーマットを使い、唯一無二のオリジナリティで装飾する。そうしたことができるのが、だ。


 だけどぼくは、このネタに「オリジナリティ」と言えるようなものを持ち込むことができなかった。ネタを作り込む時間が、あまりに少なすぎた。それでも、ひとつだけをもっている。


 リュシアン・フェーヴル。アナール学派の先鞭せんべんをつけた歴史学者だ。哲学書を読んでいると、哲学以外の分野の本を参照しなければ、理解が進まないことがある。だけどぼくは、フェーヴルの議論がなにも分からなかった。そこで、夏鈴かりんさんは(自分も聞きかじった知識だけど、と前置きをして)ぼくに、この学派について教えてくれた。


 アナール学派は、伝統的な歴史学が、事件史などの大きな枠組みに傾倒するのに抗する形で、人々の営み全般を対象にした新しい歴史学を提唱した。ざっくりと言ってしまえば、歴史の教科書に太字で書かれているような人物ではない、後世に名前も知られていない人々を、歴史の主役にしたのだ。


 夏鈴さんのこの説明は、とてもすっきり理解することができた。なぜなら、名も知られていないぼくが、大勢のひとの前で漫才を披露ひろうしたという経験が、まさに、注目されていなかった存在が、注目されるようになったという「転回」といつにしているからだ。


 舞台の上に立った主役は、おもしろいか、おもしろくないかだけで、観客のひとたちに評価される。そしていま、。主役は、逃げてはいけない。堂々とするんだ。たとえ、だとしても。


「困っているひとを助けるのが、スーパーマンのあるべき姿ですよね。例えば、不良にからまれているひとがいて、そこに割り込んでいくんですよ。そしてこう言うわけです」

《そのひとから、手を放せ!》


 間違えて二枚フリップをめくりそうになってしまう。親指の付け根がれているから。


「すると、不良はうろたえるわけですよ」

《だれだ、お前》

「……ってね。ここでね、ビシッと言うわけですよ」


 ぼくの声と、画用紙に書かれた文字が物語を繋いでいく。

 このあとが、最初のボケだ。


 だけど、そのとき――足下に、フリップの束が落ちた。掴みそこねてしまったのだ。いまの話題に、まったく関係のないところが、あらわになって……その一枚も、間もなくして、イーゼルから自然と離れてしまった。




【参考文献】

1. アナール学派に関する記述は、以下の文献を参照しています。

・フェーヴル・リュシアン(長谷川輝夫訳)『歴史のための闘い』平凡社ライブラリー、1995年。

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お別れの日に「また会おう」と言えるように-2年4組のエイリアンⅡ- 紫鳥コウ @Smilitary

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