48. 失踪

 ぼくの耳学問の「先生」は、夏鈴かりんさんだけではない。《無噤-TSUMUGU-》で初めて知り合った、ある先輩芸人からもさずかっている。そのひとは読書家で、研究書だけではなく小説も読むし、洋書もすらすらとページをめくることができる(ところをぼくは見ていた)。


 そしてそのひとは、本の話をする相手を、いつもさがし求めていた。だから初対面のぼくに、なんのためらいもなく話しかけてきて、一時間も拘束こうそくされてしまった。もちろん、お話を聴くこと自体は楽しかった。


 で、ややこしい話になってしまうのだけれど、その芸人――源弁慶大納言みなもとのべんけいだいなごんさん(本名は角中かくなかさんというらしい)は、夏鈴さんの恋人なのだ。ぼくはそのことを聞いたとき、ちょっと動揺してしまった。


 たとえ恋をしている相手ではなくても、親しくしているひとに恋人がいることを知ると、少しだけ見る目が変わってきてしまう。


 角中さんは、現役の大学生で、夏鈴さんと同じキャンパスで学んでいるというし、お笑いライブで一緒になることもあるらしいし、仲が深まるというのは、ありえなくもない。


 ぼくは、里歩りほさんのおかげで、《無噤つむぐ》でも「仲間」がたくさんできた。里歩さんには、感謝してもしきれない。


 それなのに、ムスコさんは、挨拶あいさつはぶいてたいへんなことを伝えてきた。


卯月うづきから、四条しじょうくんのところに、なにか連絡が来てないか?」

 卯月――というのは、里歩さんの名字だ。

「まだなにも来てないですけど……なにかあったんですか?」


 ムスコさんが言うには、昨日、里歩さんは《無噤》に顔を見せなかったのだという。それも、なんの連絡もなく。そこで、家を知っているという源弁慶大納言さん――角中さんが、舞台終わりに訪ねてみたのだけれど、そこにはいなかったらしい。


 なにか不穏ふおんな気配を察した角中さんが、あちこち探し回ったものの、どこにも姿が見えないし、何度電話をかけても通じないし、メールの返信もない。しかしこれだけの理由で警察に駆け込むわけにもいかず、その日は捜索をあきらめてしまったのだという。


 だけど、今日の午前中の舞台にも姿を見せなかった。今度は、角中さんだけではなく、ムスコさんたち芸人仲間も、いそうなところを探してみたり、連絡を試してみたりしたが、なんの音沙汰おとさたもない。


「今日の午後から予選なのに、ごめんな。こっちのことは気にしなくていいから、がんばれよ。じゃあまた」


 角中さんは、ぼくと里歩さんが、仲がいいことを知っていたけれど、連絡先は交換していなかったため、ムスコさんに電話をかけてもらったとのこと。交友関係の広い里歩さん。しかしだれも里歩さんの行方ゆくえを知らない。


 ムスコさんは「気にしなくていい」と言うけれど、ぼくの脳裏によぎるのは、あの約束のことだ。今回のことは、きっと、あの件とかかわりあいがあるに違いない。


 ぼくは震える手で里歩さんの連絡先を探しだし、電話をかけた。なかなか繋がらなかった。もう手遅れになっているんじゃないか。そんな不安にさいなまれているとき、電話の向こうから「優理ゆうりくん……」という、震え声がかすかに響いてきた。


「里歩さん? ムスコさんから事情を聞いて連絡しました。なにかあったんですか?」


 出し抜けにそうたずねてしまったことを、後悔した。こんな詰問きつもんみたいな口調だと、里歩さんを萎縮いしゅくさせかねない。


 音符のない五線譜の上をすべっていくような沈黙。その沈黙を破るには、思いきった勇気が必要だった。


「いま、どこにいるか、教えてくれませんか?」

 ぼくは冷静をよそおった風にして、里歩さんに歩み寄る。

「…………」

「もし差し支えがあるのなら、だれにも言いません。ぼくにだけ、教えてくださると――」

「家」

「家……ですか?」

「うん、わたしの家」

「でも、角中さんが行ったときには……」

「無視した。電気を消して、押入れに……押し入れのなかに、ずっといる」


 例のストーカーが、なにかしでかしたのだろうか。だとしたら、ムスコさんに連絡をして、警察にまで走ってもらわないと――と思ったら、里歩さんは、ぼくの想像とは違う「解答」を震えた声で伝えてきた。


「わたし、もうだれも信じられなくなった。どんなに親しいひとでも、わたしの敵のように見える。昨日の朝、、そう思ってしまって……」

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