ワイルドハントの黒妖犬

からっ風文庫

第1部

第一部序章

 石炭の煤が世界を覆っていた時代があった。一九一四年のロンドン。

 あの頃は夜の霧が死人の肺に残った息のように、病を運ぶと信じられていた。

 まだヨーロッパの人々が夜の恐ろしさを煮詰めて、神話と異形を作り出していた頃の名残だ。夜は戦争よりも余程、このときは恐ろしいものだった。

 その夜の化身が、黒い馬を操り空を駆けていた。

 羽などないのに、その足は霧の上の、星一つ見えない空を疾走する。

 空を裂いて現れたのは、ワイルドハント。 嵐を引き連れやってくる、黒い軍団の騎行だった。

 騎士の群れが追っていたのは、地上を切るように走る一匹の黒い犬だった。 

 犬は霧と闇を味方に、ただただ我武者羅に走っていた。 生き延びるために。 


「逃がすな! 逃がせばまた厄災が起こるぞ!」


 ワイルドハントの一人が、怒声を上げて鼓舞をする。 

 黒犬は生物の法則を無視した速度で地上を走っていたが、それでも軍団の馬のほうが速かった。

 騎士の一人が槍で黒犬を突き刺そうと、馬上から襲い掛かる。突き刺さる寸前に黒犬は時間を止め、騎士の槍は宙に浮き、霧の粒は空中に留まる。

 そしてまた、時間が動き出す。 

 騎士の鎧が激しく砕け、黒馬が吠え、霧が赤く染まった。 


「ひるむな! 今、確実に黒犬は仕留めやすくなっている! 数で攻めろ! 隙を作れ!」


 何度も何度も“刻”を裂きながら、黒犬はひとりで戦い続けた。 

 だが時間以外の力を封じられ、黒犬は一歩ずつ、死へと追い詰められていった。

 最後に、背後からの首を狙った一撃によって、黒犬は倒れた。自身の血で溺れ、窒息の苦しみにジタバタと必死に手足を藻掻く彼女の体を、二撃、三撃と槍が貫いた。

 ワイルドハントが歓声を上げながら、黒犬が絶命するのを見届ける。 

 痛みと、苦しみと、それから寂しさ。 

 自身の生の大半を占めるこの三つを、死ぬ寸前にも抱えながら、彼女は死んだ。 


 かすかな声と、やわらかな手。 黒犬の身体に毛布がふわりとかけられる。 

 黒犬はぱちりと目を開けた。真っ赤な瞳が、荒んだ夜の残り香を映していた。 


「また虐められたときの夢、見てたの?」


 そっとその背を悲しそうに、それ以上に愛おしそうに、少女は撫でた。


「もう大丈夫。怖い人なんていないよ」


 黒犬は、しばらくじっと少女を見つめていた。今までの痛みを思い出して。

 だが次の瞬間には、いつもの幸せに溢れた目に戻っていた。 


「おやすみ、アプフェル。愛してる」


 そして二人はそのまま、ゆっくりと朝まで眠るために目を閉じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る