季夏の夕暮れに波立つ歌声

　あれは丁度、夏と秋の狭間の季節だったと思う。

　俺は休暇中、趣味の1人旅行にでかけることにしたのだ。

　折角なので少し贅沢し、海が近くに見える絶景の旅館に泊まる。

　旅館内にて小説を書き終え、俺はノートパソコンをそっと閉じ、俺は大きなため息をつく……。

　多分、程よい疲れとやり遂げた安堵から出たんだろうな。

　気が抜けた俺は、ふと窓の外をぼんやりと眺める。

　彩雲（さいうん）とオレンジ色に染まった空の境が、なんとも清々しく思える。

　夏の終わりを告げるが如く、ひんやりとした風が部屋内を爽やかに吹け抜けていく……。

　それがまた何とも心地く、だからか俺は、思わず座ったまま瞼（まぶた）を閉じてしまう。

　だからか、チリンという風鈴（ふうりん）の涼し気な音色が鮮明に聴こえる。

　ん……なんだ？　風鈴の音色以外にも何か聴こえるが……はて？

　俺は立ち上がり、もう一度耳を澄（す）ます……。

　……成程、外の海辺からか。

　俺はその音が無性に気になり、スポーツサンダルを履（は）き旅館の外に飛び出す。　

　正面に見えるは、沈みかけた太陽。更にはオレンジ色に染まりし、静かに波うつ海辺だった。

　そんな幻想的な風景の中、良く見るとその少し薄暗くなった海に人がいるではないか。

　人⁉　ふむ、崖下（がけした）の向こうから、あの海辺にいけるな。

　俺は急いで崖下まで回り込み、先程の人影らしきものに近づいて行く。

　気が付くと、透き通った歌声が聞こえてきた。

　なんて素敵な歌声だろうと、俺はその人に向かって「……あの……」と、恐る恐る呼びかける。

　「この時期に夕方に海に浸かっていると風邪を引きますよ？」俺はその人にそう言いたかった。

　いや、違うそうじゃない。

　本当はただ話かける口実が欲しかっただけだ。

　が、俺の言葉は発することは無かった。

　理由は彼女の歌声を聴いてしまったから。

　優し気で温かく、でも何か威厳（いげん）を感じる。

　……深い……そう、まるで深海ように深い歌声。

　それにまるでバイオリンのように響く、繊細な声色……。

　俺は思わず聴き惚（ほ）れ、呆然と立ち尽くしてしまう。

「……誰？」　

　いつの間にか歌は終わり、彼女は俺に気が付きゆっくりと振り向く。

「お、俺は夏野終（なつの　しゅう）……」

　と、俺は少しドギマギしつつ、名を名乗る。

「えっ！　……あ、あははは……っ！」

　彼女の失笑に、俺は少しむっとする。

「何が可笑しんだい？」

「い、いや、だって貴方の名前、そ、その季節的にタイムリー過ぎて……」

　……夕陽を浴びオレンジ色に染まる彼女の笑顔は、まるで向日葵（ひまわり）のように明るくとても眩しくて……。

　濡れた栗色の柳髪（やなぎがみ）が、細いなで肩にしなやかにかかる彼女のあで姿に……俺は思わず目を奪われて……。

　歌声もだが、なんて魅力的な人なんだろうと、俺は思わず怒りを忘れ、彼女の名を知りたくなった。

「……あ、あの、貴方のお名前は？」

「私の名前は……秋野始（あきの　はじめ）……」

「えっ！」

　その名に俺は思わず軽く呻（うめ）く。

「……うそうそ……あはは……！」

　彼女は天真爛漫（てんしんらんまん）な笑顔と共に、沈んでいく太陽に向かって、俺から逃げる様に海に入り、泳いでいく。

「くそっ！　待てよ！」

　俺は上着を急いで脱ぎ、半ズボン一つになり海に飛び込む！

　幸い半ズボンは水陸両用だ。

　という事で俺は怒りよりも彼女に近づきたい一心で、無心になってガムシャラに海水を掻き分けていく！

　スイミングスクールに数年通っていた関係で、幸い泳ぎは得意だったし、クロールで全力で泳げば追いつける自信はあった。

　なにしろ相手は可愛らしい女性、俺は男だ！　負けるはずがない。

　……が、何故か不思議と彼女に追いつけない。

　次第に手足が鉛のように重くなっていく感覚に気付いた時は遅かった。

　く、くそっ！　秋の海は思ったよりも冷たく寒い。

　だからか、思ったよりも自分の体力の消費は激しかったのだ。

　そして、彼女を見失ってしまった俺は……気も失って……。

　……。

　気が付くと、俺は自分の旅館の自室で座布団（ざぶとん）を枕（まくら）に横になっていた。

　な、なんだ、夢か……。でも、何だかとってもリアル溢（あふ）れる夢だったな……。

　俺は起き上がり、お茶を飲もうと、ふと丸テーブルに目を移す。

　……ん？　何だこれ？

　良く見ると、ノートパソコンの隣に書置きがあるではないか⁉

　その白い紙きれを見ると「明日もまた夕暮れ時に遊ぼうね！　秋野始(仮名)より」と書かれてあったのだ。

　じゃ、あれは夢じゃなかったのか⁉

　すっかり目が覚めた俺は、急いで立ち上がり、窓から見える外の海景色を見る。

　そこには、すっかり暗くなった海とその波音がサアサアと聴こえ、その波音に調和された静かで深い彼女の美しい歌声が聞こえた気がしたのだ。