14話 季節が移り行こうと、彼ら彼女らに変わりはない。

 中間テストも無事に終わり、試験勉強に拘束されたストレスと解放された喜びをそれぞれ発散したであろう翌日。澄み渡る空の下、松籟しょうらい高校の校舎には青嵐が吹き抜けていた。


 桜で彩られていた通学路の景色は緑一色へと変わり、早くも夏用の制服に着替えている生徒の姿がちらほら見受けられている。


 まさに爽やかな一日の始まりにふさわしいと言いたいところだが、主張の激しいお天道さまとアスファルトから伝わる熱気というミスマッチによって台無しになっていた。


 朝の天気予報では何度目かの初夏の始まりだとアナウンサーは言っていたが、真っ只中の間違いではないのかと疑いたくなってしまうほどだ。少なくとも、暑さ対策もなしに出歩けるような環境じゃない。真剣に日傘の使用を検討しようかと思うくらいだ。


 家を出てから電車の時間までいつも通りのはずなのだが、今日はその道のりで感じる疲労感が一段と重かった。これからさらに過酷になるのかと思うと、季節の移り変わりが待ち遠しくなるどころか悩みの種に代わってしまいそうで、それが残念でならない。


 春夏秋冬を慈しんでこその日本人だろうに、なんて内心知ったような口を叩きながら今日も今日とて俺の平穏な生活に代わり映えはなさそうだった。


「あづ~~い、どける~~! 朝からこれとか昼まで持たねぇって~~」


 ――――前言撤回、朝から面倒なことが起きそうな予感しかしない。


「……いつまでそうやって唸ってるんだ。もうかれこれ10分近くそうしてるけど」


 伸ばしきった背中に声をかけてみるものの、後ろの席を陣取って机に突っ伏している男、いずみ恭介きょうすけからは身動き一つする気配さえ感じられない。

 腕の隙間から覗かせている感情の抜け落ちた顔を見ていると、ぽっかりと開かれた口元から笑顔で魂がコンニチハしてきそうだ。


「わかってるよ、文句ひとつでこの暑さがどうにかなってくれるわけじゃないって。けど言わずにはいられないんだぁぁ~~」

「気持ち切り替えるためとはいえ、テスト明け早々よくやるよな。この暑さで朝一、時間いっぱい走り込みなんて」


 流し目にクラスを見渡してみると、泉と同じように体を伸ばしてピクリとも動かない生徒が散見される。まるで海岸に打ち上げられてしまった魚のようで、言葉にしがたい悲壮感が漂っていた。


「朝からシャトルランみたいなことさせられるなんて思わなかったっつーの。竹内先生、ほんと容赦ねーんだから」

「いいことじゃないか。部活動に熱血指導してくれる教師なんて、そうはいないだろうし」

「それはそうなんだけど、流石にテスト明け直後にやることじゃねぇよ~。おかげで朝から喉カラッカラだ。でも今は一歩も動きたくねぇ~」


 力なく垂れ下がった泉の手に握られていたスポドリは既に飲み切った後のようだった


 飲み過ぎも良くはないが、かといってこの暑さで水分を取らない方が余計に危ない。それに、そろそろ今日の授業も始まろうという頃合いで泉を放置するのも後ろの席の人に申し訳ないし……ここは必要経費ということで割り切ることにしよう。


「俺も喉渇いてたし、それと同じのでいいなら今から買ってくるけど。どうする?」

「え、まじ!? いるいる! ちょーいる!! 正直バテそうだったし、すっげーありがたい!」


 立ち上がりつつそう尋ねると、勢いよく顔を上げた泉は目を輝かせて首を縦に振った。

 こういうとき、相手の好意を迷わず受け取れるのも泉のいいところだと思う。ほんと、見習うところが多い友人だこと。


「おっけ、じゃあ行ってくる」


 あまりのんびりして遅刻扱いされるわけにもいかないため、教室を出てから早足で階段を下りていく。自販機は校舎一階の正面玄関を出てすぐのところだ、寄り道しなければ一分とかからずにたどり着ける。


 水とスポドリを一本ずつ購入し、暑さにやられる前に来た道を戻ろうと校舎へ入る。そのまま階段へ向かおうとしたところで、エントランスのほうから歩いてきた一人の生徒と鉢合わせた。


「――――っ」


 目の前に現れたその生徒が視界に入った瞬間、思わず息を呑んだ。


 校舎を吹き抜ける風になびく暗色系のミルクティーベージュ。満遍なく梳かれた色艶のある髪は肩にかかる毛先まで乱れがない。

 マネキンのように均整の取れたスタイルと相まって、その気がなくても視線が惹きつけられてしまう。完全に油断していたとはいえ、迂闊にも足を止めてしまっていた。


 対して目の前を通り過ぎようとするその生徒はまるで関心を示しておらず、淡香色うすこういろの瞳は前を見据えたまま微動だにしていない。


 泉から話は聞いていたから反応がなくても驚きはしないと思っていたが、いざ目の当たりにするとそう上手くはいかないらしい。


 夜宮やみやかすみ。この松籟高校に通う同じ一年生であり、学年の中でも注目を集めている生徒の一人であり、そして俺にとっては色々と複雑な事情を抱えている女の子だ。


 一応顔見知りというか、ただの顔見知りと呼ぶのも少し違う気がするというか。友達と呼ぶには距離感が間違っているし、他人と呼ぶには不要な情報が多すぎる。

 俺にとって夜宮霞とはどんな人物かと問われれば、非常に面倒くさい美少女同級生という回答が浮かび上がるのは明白だった。本日のおまえが言うな選手権も盛況だな、参加者は俺一人だけど。


 ――――と、そんなことはいいとして。偶然顔を合わせて素通りとするというのも気分が悪い。とりあえず挨拶くらいはするべきだろう。念のため周囲を確認するが、近くに生徒の姿は見受けられないため、気にする必要はなさそうだ。


「おはよう、夜宮さん」


 極めて自然に、他の生徒にするときと同じ声音で夜宮さんに声をかける。


 ――――しかし、当の本人は反応する素振りを見せず、おぼつかない足取りで階段の方へ歩いていく。まるで亀のような……というのは流石に大げさだが、明らかに緩やかな歩調のまま上り始めていた。


 手すりに掴まるというより、なかば寄りかかっているようなその体勢は、正直危なっかしくて見ていられなかった。


 だからといって手を貸そうものなら、それこそどうなるかわかったものではない。


 夜宮さんの所属する一年4組があるのは通路の奥側、つまりは3組を通った先である。人目に付かずにというのはまず不可能であり、仮に俺がスニーキングの達人だっとして、夜宮さん本人からの追求は免れない。


 見て見ぬふりをするのもどうかとは思うが……不確かな足取りに反応の悪さ。そして過去のやり取りを振り返るに、あれが何なのかは疑うまでもないことだろう。まさかあれほど重症だとは思いもしなかったが。


「……朝が苦手、なんて可愛らしいレベルじゃないだろ。これは」


 驚きのキャパシティを越えてしまったのか、つい声に出してしまっていた。


 結局、夜宮さんがひとしきり上っていくのを都度見送りつつ教室を戻ることになり、その頃には散っていたクラスメイトは全員席に着いていたのだった。


「遅かったじゃん。てっきり暑さのあまりサボりに行ったのかと思った」

「今からでも遅くないぞ? 共犯なら付き合うけど」

「馬鹿言うなよ、今日これ以上絞られるのは勘弁だって」


 軽口を叩き合いながら買ってきたスポドリを泉に渡して席に戻る。それとほぼ同じくして担任が教室を扉を開いた。


 ……しかし、これからどうしたものかな。


 SHRショートホームルームを聞き流しながら、今後の方針について考えを巡らせる。


 ――――助けを求めるのならば、必ず夜宮霞の味方をする。


 あの日言葉にしたその誓いを違える気はないが、現時点ではあまりに情報が少なすぎる。そもそも何から、どうやって助けるのかと問われても形のある答えは見つかっていない。傍から見れば、支離滅裂な妄言で理解を求めるだけ徒労に終わることだ。


 けれど全てを理解してから動くのでは遅すぎることもある。彼女の抱えているそれは、きっとその類のものだ。だからこの誓いの是非を論じるのは後回しにしていい、問題にすべきは夜宮霞の現状だ。


 他の生徒との交流は皆無に等しく、先ほどの有り様からも見て取れるように彼女自身の生活態度にも改めるべき部分がある。

 泉恭介の言葉を借りると、ディスコミュニケーションここに極まれりというのは学校という組織で生きていくには致命的な要素に他ならない。


 もちろんそれ自体が悪いわけではない。ただ……残酷なことかもしれないが、この場所で夜宮霞はそういう風に生きられないという事実は、いずれ受け入れてもらわなければならないことだ。


 そしてもう一つ大きなポイントになるのが、誰であれ異性からの告白を断らないということ。

 これについては夜宮霞だけでなく、周囲を取り巻く環境そのものが悪影響を及ぼしている。より具体的に言及するのならば、この状況を良しとしている何者がいるということだ。


 いくら夜宮霞が他の生徒と一線を画す容姿をしているとはいえ、誰の手引きもなしに学年も問わず告白を受け続けるような事態に追い込まれるとは想像しがたい。週に一度や二度ならともかく、ほぼ毎日というのはあまりにも出来過ぎている。


 それに、以前第1体育館で鉢合わせたときについても不可解なことがある。これは調べればすぐに裏が取れるだろうけれど、それ故に使い物になるかどうかは怪しい。せいぜい面白がっている奴がいるという根拠になる程度のものだろうか。


 ひとまずの方針としては夜宮霞と交流を持ちつつ周囲の人間について調査、怪しい人物が浮上すれば一人ずつ――――

 

「……それじゃあ、授業の準備をして待っていてくださいね」


 ――――よくない方向に進もうとする流れを修正するため一度思考を完全に閉じると、ちょうどSHRが終わったところだった。教室から担任が出ていくのを窓越しに見送り、手にしたままの水を口にする。


 常日頃戒めているというのに、余計なことまで考えてしまう悪癖には我ながら辟易としてしまう。こんなふざけた座右の銘まで借り受けていながら、何という体たらくか。


 “無気力・無頓着でノープロブレム”

 何があろうとも心を乱さず、あるがままに流され受け入れる。そういう生き方も悪くはないと教えてくれた人がいて、そいつのおかげで今こうして平穏な日常を過ごすことができている。


 その事実も、彼女と交わした約束も、反故にするような真似は決して犯してはならない。


 あくまでも手を貸すだけであって、自分の手で夜宮霞の抱える問題を解決しようとするのは筋違いだ。

 朝霧あさぎり涼也りょうや夜宮やみやかすみは他人でもなけれな友達でもない、求められれば応じるというだけの一方通行な関係性であり、それ以上もそれ以下もないのだから。


 その結果、また同じ結末をたどるというのなら――――所詮、朝霧あさぎり涼也りょうやの価値などその程度のものでしかないというだけの話だ。

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