9話 どこまでも北沢さんは底が知れない

 つつがなく学校での一日を過ごして迎えた放課後。普段なら一人で帰るか泉から寄り道の誘いを受けるかの二択なのだが、そのどちらを選ぶこともなく教室で待機していた。登校している時は早めに帰ることができると内心嬉々としていたというのに、今は荒野の中で吹き抜ける木枯らしを浴びているような気分だった。


 別段、北沢さんから依頼されることに嫌気がさしているわけではない。むしろ、クラスメイトに頼りにされている分、クラス内での立ち位置が危ぶまれていない証明になるのだから、安定した生活を望むのなら願ってもない話である。

 それもたった一月というできたばかりのクラスを先導するリーダーシップを発揮している北沢さんからの依頼となれば、その影響力は他と比較するまでもなく明らかだ。承認欲求に飢えている生徒であれば、喜んで食いつく儲け話にもなりえるだろう。


 依頼や協力の申し出を引き受けることの利点はわかっているつもりだが、無償の労働にすら喜びを感じ始めたらいよいよ奉仕精神でも芽生えてきそうで別の意味で危機感を覚えてしまっている。

 後に社会人となってからはそういう心持ちの方が何かと都合が良いのかもしれないが、少なくとも学生の内は労働に喜びを見出したくはない。働いたら負けという精神は日々を生き抜くための処世術なのだ。世の中はいつ何時も厳しいのだから、自分を甘やかすことを負い目に感じる必要はないと思いたい今日この頃。


 そんな反骨精神を見越してかは知らないが、生徒会室に集合するのではなく教室に残るように言う時点で逃げることを許さないという意思がひしひしと伝わってくる。いっそのこと、両手に綺麗な銀色の手錠でもされていた方が諦めもついて気が楽というものだ。


 ……そういえば、少し前にも似たような感覚に陥っていた気がする。あの時は取調室で尋問でも受けているようだったが、今度は付き添いで署まで連行か。次はいよいよ裁判所にでも立たされるんじゃないだろうか? 弁護人不在な時点で開廷前からチェックメイトなんだよなぁ……。


 思考を巡らせたところで都合よく論破してくれる言霊が撃てるようになるはずもなく、そうこうしているうちにクラスに残っている生徒は談笑にふけっていたり机を向かい合わせて問題集を開き始めたりと、各々の放課後を過ごし始めていた。


「――――お待たせしました。それでは早速、生徒会室まで向かいましょうか」


 頃合いを見計らっていたのか、クラス全体を一瞥してから北沢さんは俺の席に立ち寄ってくる。既に移動する準備はできていたため、首肯して立ち上がり彼女に続いて教室を後にした。つかず離れずの距離を保ちつつ、人だかりが解消され始めた廊下を歩きだす。


「今更な気もするけど、生徒会の仕事って部外者が関わってもいいものなのか?」


 間を埋めるだけの突発的な質問をすると、北沢さんは足取りはそのままに顎に手を添える。


「そうですね……生徒会の運営方針は学校によって異なる場合がありますので一概には言えませんが、この学校においては勉学に限らず生徒の自主性を優先しています。学校行事の進行を生徒会に一任しているのも、その一環というわけですね。その活動に責任感を持つことは良いことですが、生徒会であるからといって特別視される理由にはなりません。あくまで生徒の代表ですから、そういう意味では私と朝霧さんに違いはありませんよ? 

 とはいえ、今回は個人的に依頼させていただいてますから、その責任は全て私にあります。ですから、朝霧さんが特別気にするようなことはありませんよ」

「ご丁寧にどうも。でもどうせ頼むなら、協力的な生徒を見繕ってもよかったんじゃないのか? 北沢さんが声をかければ、喜んで手を貸す生徒は大勢いるだろうに」

「残念ながら、今回は手短に済ませたい案件ですからね。引き受けてくれれば誰でも良い、ということにはなりません。何を言われようと私の人選が覆ることはありませんから、大人しく観念してください」


 北沢さんは半身だけ振り返ると、意味深な笑みを浮かべながら揶揄うような素振りでこちらの顔を覗き込んでくる。


「……それはまた物好きなことで」


 細められた碧色の瞳はこちらの思惑を見透かしているようで、そこから逃れるように視線を逸らし足を動かす。北沢さんは少しだけ足を止めて隣に並ぶと、そのまま歩調を合わせてきた。


「褒め言葉として受け取っておきます。 ――――物好きといえば、ついでに一つ聞きたいことがあったんです。朝霧さん、中学生の頃は何か部活動をされていたんですか?」

「いや、してない。小学生から今に至るまで変わることのない帰宅部だ、誇らしいことにな」


 単純に換算すれば今年でちょうど10周年を迎えるわけだ。昔は何をすることもなく帰る己を恥じたものだが、今となってはいついかなる時も定時に帰るという精神の持ちように清々しさを覚える。


「…………それのどこに誇る要素があるんですか?」

「ちょっとした冗談だ、気にしないでくれ」


 澄み切った返答をしたつもりだったが北沢さんには響かなかったようで、彼女は困惑の表情を浮かべていた。どうやら共感は得られなかったらしい、実に残念だ。


「……それはそうと、どうしてそんなことが気になったんだ?」

「最初のきっかけは先日の体育祭の時です。朝霧さんは徒競走に出られていましたが、随分と走り慣れているように見受けられました。練習の時も体力に余裕があるようでしたから、運動部で走り込みの経験がおありなのかと思いまして」

「まさか、そういう素振りを見せていないだけだよ。もし余裕があるように見えたなら、それは単に走者の組み合わせのおかげだ。俺を含めて全員、部活動に所属していなかったわけだし。俺が特別どうこうというわけじゃない」


 体育祭での徒競走の順番なんて、大体は五十音順か背の順かの二択だ。そこから運動部に所属している生徒とそうでない生徒を分け、公平を期すといったところだろうか。後は実際に走ってみて、ゴールまでの時間に大きな差が生まれないように調節すれば、見栄え上の問題はなくなるというわけだ。


 そして部活動に所属していない生徒で運動が得意だというケースはそれほど多くはない。そんな彼らが優先するのは最善を尽くすことではなく、それらしく乗り切ることだ。クラスメイトから非難の目を向けられないように、真面目に取り組んだという過程を残すことが重要であり、その結果がどう転ぼうと問題にはならない。


 ためにならないことに労力を割こうとしないのは当然の対応だ。むしろ下手に目立つ方が返ってリスクを生むことになる。何もしなければ何も起こらない、という考え方は平穏な日常を守るうえで必須なのだ。


「……そうですか。あまり腑に落ちませんが、そういうことにしておきます」


 北沢さんは訝しむようにこちらを観察していたが、それも束の間のことでそれ以上の追求をするつもりはなさそうだった。こちらとしても無闇に掘り下げられた結果、手を抜いていただの、サボっていただのと難癖をつけられても面倒だから内心ほっとしている。まぁ、北沢さんに限ってそんな邪推はしないだろうけれど。


「そうしてくれると助かる。で、最初のきっかけってことはそれ以外にも何かあったのか?」

「それ以外となると、ちょうど今日の出来事ですね。泉さんの方から球技大会における男子の部、種目はサッカーでのメンバーについて申し出がありました。その中に朝霧さんの名前がありましたから、そのつながりですね」

「あいつ、もう連絡してたのか……根回しが早いなぁ」

「こういうのは言ったもの勝ちなところもありますからね、彼はそのあたりをよく理解されています。流石はクラスの中心にいる人物の一人、ですね。小耳にはさんだ話だと、体育祭明けから榎森さんとお付き合いしていると聞きましたし、今後の学内における泉さんの影響力は更に大きなものとなるでしょう」

「意外だな。北沢さんもそういう話に興味があるなんて」

「クラスの人間関係を知らずしてリーダーは務まりませんから。それが色恋であればなおのことです。今時、風紀の乱れだなんてお堅い考えでは上手く立ち回ることなどできませんよ」

「……色々と苦労が絶えなさそうだな。俺には到底真似できそうもない」


 さも当然のようにクラスの全容を把握していると断言するあたり、感服というよりも末恐ろしさが勝る。


 勉学に運動能力、人脈にカリスマ性、その全てにおいて立ちはだかる者を圧倒する――――それこそ、北沢由莉が教師を含めて多くの者から支持される最たる理由だ。単純明快であるが故に、その盤石な強さが揺らぐことはない。彼女を敵に回したら最後、平穏に過ごすどころかまともな学校生活を送ることすらできなくなるかもしれない。


 ……なんというか。北沢さんといい夜宮さんといい、俺がここ数日関わった女子生徒はどうしてこうも物騒なのか。一歩間違えたら地雷踏み抜いて終わりとか、死にゲーにもほどがある。何が攻めた方が勝てるだよ、そのお花畑な考えが焼け野原へと変わる未来しか見えないだろこれ。


「そう大層なことはしていませんよ。それに、意外なのは朝霧さんの方ではないですか? こういった催しに進んで参加するような方だとは思っていませんでしたが」


 脳裏に浮かぶゲームオーバーの文字に内心うなだれている最中、さして気にも留めていない様子で北沢さんは問い返してきた。


「今回は泉に誘われたから参加しただけだからな。誘われてなかったら一日中隅で応援するだけだっただろうし、ありがたい話だ」

「泉さんが? ……そういう経緯でしたか。泉さんが発端なら、今回提出されたメンバーの人選も妥当なところですね。同じくサッカー部所属の水無みなせ春樹はるきさん、それ以外は横つながりで数を揃えていますから、揉めることもなさそうですし」

「どうだろうな。俺は泉以外とはほとんど関わりがないし、実際に話してみるまでは何とも言えない」


 同じクラスメイトであっても友達の友達なんて赤の他人と大差ない。人が寛容でいられるのは他人事に対してであって、当事者となれば否が応でも許容するか排斥するかを迫られる。


 別に仲良しこよしにできるか、という話ではなく上手くやれるかという簡単な話だ。例え不干渉であっても互いの距離感を尊重したうえでの結果であるのなら問題はなく、どれだけ会話がはずもうとも相手に気を許していないのなら、遅かれ早かれ、いつか必ず綻びが生じる。


 とはいえ、今回の球技大会だけで考えれば、泉を中心に形成されたこのグループはテスト明け一週間限定で成立するものだ。当日に余程の失態でも晒さないかぎり、グループ内での関係性に悪影響を及ぼすことはまずないだろう。いちいち気にし過ぎても返って逆効果だ。

 

 まだ先の事をとりとめもなく思索していたところで、ふと、横にいる北沢さんが静かに笑っていることに気が付いた。


「……北沢さん? 何か面白いところでもあった?」

「いえ、そういうつもりではなくて。気を悪くさせてしまったのならすみません。ただ、なんといいますか……朝霧さんは、よくわからない人だなと思いまして」

「わからない? 例えばどんなところが?」

「そうですね……クラスメイトとの関係性を重視していながら、積極的に関わろうとはしていないところ、ですかね。慎重派というよりも、単に臆病なだけな気がしますが」


 おもむろに微笑みを浮かべた北沢さんから出た言葉は、容赦なく胸に突き刺さった。彫刻刀を走らせるように鋭利なその言葉を素直に受け止められるほど俺のメンタルは厚くなく、言葉が詰まりそうになるのをぐっと堪える。


「……率直な意見をどうもありがとう。次からは思いやりの心を忘れないでくれると助かるよ」

「心外ですね。私は誰に対しても真摯に向き合っているつもりですよ?」


 興味本位で聞き返した自分を恨みつつ、苦笑交じりにそう答えた。しかし北沢さんは涼しげな顔のままそれを受け流し、何事もなかったかのように前へ向き直る。その足取りについていくこと数分、俺たちは生徒会室の前に到着した。


 北沢さんは胸ポケットから取り出した鍵で扉を開き、室内へと入っていく彼女の後に続いていく。


 生徒会室のレイアウトは会議室のそれと似ており、中央には向かい合わせに並べられた折り畳み式のテーブル、奥の隅には資料棚がそれぞれ配置されていた。恐らく体育祭で使ったと思われる小道具が詰まったダンボールが寄せ集めになって端に置かれているが、これらはそのうち学生会の誰かが片づけることだろう。


「お待たせしました。こちらが体育倉庫内に保管されている備品のリストです」


 部屋全体を俯瞰していたところに北沢さんからA4サイズの紙を数枚挟んだクリップボードを手渡される。目を通すとコーンやらライン引きやら、倉庫内でよく見かける備品の名前がちらほらと見受けられ、それぞれ保有数や状態についてまとめられていた。


「運動場にある倉庫の方が備品の数が多いので、そちらは私が担当します。朝霧さんは第1体育館の方にある倉庫内の備品がそのリストの通りになっているか、確認をお願いします。一度確認したものだから間違いない、なんて先入観は持たないようにお気をつけくださいね?」

「重々気をつけることにする。これ以上仕事が増えても面倒だしな」

「今回も頼りにさせていただきますね。それでは早速取りかかりましょう――――と言いたいところですが、その前にもう一つだけ」


そこで一度言葉を区切り、北沢さんはこちらへ一歩踏み出すとまるで宣誓でもするかのように胸に手をあてる。


「朝霧さんにはこれまでにも何度か協力していただきましたが、それに見合うお礼ができていません。ですから、近いうちにその埋め合わせができればと思っているのですが、朝霧さんは私に何か要望などありますか? 私に協力できることがあれば、力になりますよ」

「要望? うーん、ありがたい話ではあるけど、急にそんなこと言われてもなぁ……」


 存外、こういう風に意見を求められると中々思いつかないものだ。泉相手なら適当に何かしら奢ってくれという一言で済むが、北沢さんとはそういうことをする仲でもない。


 どうしたものかと思案しつつ、目の前に立つ北沢さんに視線を合わせる。

 同じクラスかつ話す機会も多かったため意識することもなかったが、北沢由莉も夜宮霞と同じく美人という言葉がよく似合っているように感じられる。


 重さを感じさせない艶やかな黒髪、端正な身だしなみを引き立てる洗練されたスタイルに曇りのない碧眼。清楚という言葉がよく似合うその姿は、たとえ群衆の中であっても見失うことはないだろう。

 

 とはいえ、ただ単に容姿が整っているというだけの話ではない。礼節を重んじる姿勢や佇まい、凛々しくも棘のない声音と整然とした所作。日常の中で当たり障りもなく行われる一挙手一投足が優雅であるからこそ、その在り様は特別なものになる。


 それに加えて文武両道を併せ持つというのだから、外見的な要素で欠点というものが見当たらない。正直、ここまで非の打ち所がないと入学する高校を間違えていないかと疑いたくなるレベルだ。


 そんな完璧超人に頼み事をするとなると、喜びというより警戒心が勝ってしまう。なんというか、後々になって取り返しがつかないことになりそうな予感がしてならない。恐れを知らない無敵の人であれば、劣情を隠そうともせずセクハラ紛いの返しを難なくしてみせるのかもしれないが、何事も勇敢と蛮勇を履き違えてはいけないのだ。


 かといって気持ちだけで十分、なんて無難な回答を出そうものなら今後ただ働きを強いられ続けるのが目に見えている。タダほど価値の高いものはなく、無責任な発言は時に命取りとなる。


 脳内でポクポクと木魚を鳴らすこと5回。出てきた結論はというと、長々と思案した割には何とも情けないものだった。


「……悠々自適に定時帰宅できる権利、とか?」


 チーンというお決まりの効果音が再生される中、恐る恐る提案してみた。

 北沢さんも予想外の回答だったのか、呆然としたまま瞬きの回数が若干増えている。その後どうしたものかと逡巡していたが、やがて答えが出たのか喉に手を添えて声の調子を整えると、困ったように頬を緩ませた。


「――――申し訳ないですが、その要望には応えられないですね。できれば今後とも、朝霧さんとは協力し合える関係で在りたいと思っていますから」

「……都合のいい小間使いが欲しい、の間違いじゃないのか?」

「ふふっ、そのあたりはご想像にお任せしますよ」


 不服であるとありありと態度で訴えてはみたものの、今度は満面の笑みでひらりと避けられてしまった。これ以上異議申し立てをしたところで意味はないと、肩をすくめながら諦めをつける。


 何を気に入って俺なんかに目を付けているのやら……こうして依頼を手伝うのはそろそろ片手で数えきれなくなりそうだが、北沢由莉という同級生について今の俺にはまだ推し量れそうもなかった。

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