ちい姫さまの恋事情 スピンオフ

あかをほどく

揺れる結紐<ささら>

 この春で十五の歳を迎えた私は、お仕えするお方さまのご厚意で成人の証となる裳着の儀をあげることになった。本来であれば裳着は親が取り仕切るものらしいけど、私には親がいないから、お方さまが代理となってくださった。

 盗賊の頭の娘として生まれ、実の父親からは疎まれていたから、実質今の頭の楽兄が私を育ててくれたと言ってもいいくらい。あまり良いとは言えない環境で育った私を暖かく迎えてくれたのが当時大納言家の末姫さまだったお方さまだった。感謝してもしきれないくらい大事にしてもらえて、姫さまがご結婚されたときも変わらずお側においてくださり、無事にここまで大きくなることができた。

「結婚するとなれば、裳着をやらなければだめよ。成人もしていない子を結婚させたとあっては兵部卿の宮の尊厳に関わることだわ」

「でもお方さま。私が結婚するのは――」

「世間一般的にはならず者と呼ばれているわね。でも相手が雑色であれ盗賊であれ、ささらが宮家に仕える女房ということには変わりないわ。わたくしが立派に送り出してあげたいの」

 そう言ってお方さまは私の隣に座る、”相手”のほうを見る。

 もうすぐ私の夫になる、のぶ兄。

「なに?」

「いいえ。ちょっと心配なだけ」

「俺が盗賊だから、とういうこと?」

「だから悪い、ということではないの。でも良いことでもないでしょう? ねぇ、前から言っているけれど、うちに……殿に仕える気はない?」

「ないよ」

 間髪入れずに否と答えるのぶ兄。お方さまがこうやってお声がけするのも、何度目かわからない。私と結婚するのなら、盗賊なんてものよりもしっかりと身を立てたほうがいいんじゃないかしらって。お方さまも兵部卿の宮さまの奥方となってお子もいる今、私の後ろ見として将来を案じてくださっているのが分かる。

 でものぶ兄は頑としてそれを断り続けてきた。のぶ兄にとって、家族のように育ってきた居場所を離れるなんて、考えられないのだと思う。その気持ちも痛いほど分かる私には何も言えなかった。

 私だって楽兄のいるあの場所は、里と呼べるほど大切な場所だったから。

「相変わらずね」

 分からずや、といったふうにお方さまが大きなため息を付きながら困ったように私に笑いかける。

 そうして私の裳着は、寒さの和らぐ初夏の初めに行われることになった。


 お方さまと浮草さんが一緒に選んでくれた卯の花襲の袿と蘇芳の唐衣。

 その重なる重みに成人としての重さも感じて、自然と背筋が伸びる。

裳唐衣もからぎぬに負けないくらい、我が家の女房どのは美しいね」

 そう言いながら、腰結役こしゆいやくとして務めてくださったのはなんと殿である兵部卿の宮さまだった。女房の腰結役など兵部卿の宮さまほどの方ともなれば考えられないことだけど、”この者はこの邸で大切にされている女房なのだ”と示す意図があるそうで。拾われた盗賊の娘に対してここまでしていただくのは過ぎたことです、と言ったけれどお方さまにも押し切られてしまった。

「身に余るご厚意になんとお礼を申し上げたらよいか……」

「晴れの日にそんな顔をするのではないよ。北のお方がそうしたいと言うのだから素直に受け止めて、後ろめたく思うよりも堂々と振る舞ってくれるほうが私も嬉しい。ほら、あそこにいる路唯みちただを真似たらいいよ」

 にこやかに微笑む殿が今日の裳着に招待した楽兄に視線を促す。殿がご用意してくださったおろしたての濃紺の直衣を身にまとい、見慣れない立烏帽子までつけていて官位持ちの公達のよう。

 路唯というのは楽兄が貴族だった頃、賜った名前なのだそう。さすがに盗賊としてここに出入りするわけにはいかなかったので、それなりの変装として身なりや名前を工夫して貰っている。私の裳着にかけつけたいとの楽兄たっての願いで、私も楽兄に来て貰ってとても嬉しかった。

「本来なら親代わりの俺が腰結役をしたかったんだが、なんせあのなりじゃあなぁ。まぁ宮さんがやるとなれば箔なりなんなりつくだろう。よかったな」

 楽兄は申し訳無さそうに言ったけれど、私は首を横に振った。楽兄がやったとしても私はそれでもよかったんだもの。路唯として優雅に手を振る楽兄に私も振り返す。仕立てたばかりの真新しい直衣が少し固いのか、動きにくそうでちょっと笑っちゃった。

「おめでとうささら。こうしてみると、わたくしよりも大きくなってしまったのね」

 腰結の様子を見守っていたお方さまが横に並び立ち、私を少し見上げてくる。お方さまの背が縮んだのではなく、私がそれを超してしまったこと。目に見えてわかる成長の証。

「いっそうお方さまがお可愛らしく見えるようになりました」

「ささらったら、もう……」

 嘘じゃない。姫さまだった頃からあまり変わっていないから。小柄なところも、ふわふわしたおぐしも全部すき。

 殿のもとに戻ろうとするお方さまの妨げにならないように避けたところで、つんっと長い裳に軽く引っ張られてしまう。

「ほらほらささら。裳には常に気を配らないと。座るときも広がりを意識して、気を抜かないようにね」

 と私の裳を直しながら浮草さんが困ったように言うけれど、どこか嬉しそうで。

 ああ私は、私を大事にしてくれる人たちといることができて、本当に幸せだなと思った。


 裳着も終わり数日後。今日はのぶ兄が私の局に来るのでお役目を早々に終えて身嗜みを整える。裳着の際に切った下がり端がいかにも成人しました、といった感じで少し恥ずかしい。小物を入れている箱からのぶ兄から貰った元結を取り出し、下がり端の根に結びつける。これで少しは紛れるかもしれない。

 この結紐は楽兄からの贈り物だと聞かされたけれど、楽兄が贈り物をする時は食べ物が多いからすぐにのぶ兄からだって分かった。その時を思い出してついつい頬が緩む。あの頃から少しずつ、少しずつのぶ兄を意識するようになっていって。

 お方さまと話しているときはずっと硬い顔をしているのに、私といるときはとても柔らかく微笑んでくれる。楽兄よりも顔を見せることが多くて、私の体調を気遣ったり、たまに贈り物をくれたりする。

 兵部卿の宮さまのお客さまをもてなす時もあってさまざまな殿方を見てきたけれど、のぶ兄ほどかっこよくて素敵な人はいないと思った。何より隣にいて安心できるし、大事にしてくれる。誰にも見せない顔をしてくれると気づいた時、胸が高鳴って。のぶ兄と会うたびにその気持ちがだんだんと大きくなってこれが恋だという感情だと知ったのは、一年くらい前だった。

「俺はささらと、結婚するつもりだよ」

 背が伸びて、少年らしさも抜けて。肩幅も広く声も低い大人の男の人になったのぶ兄に何気なくそう言われて、何の会話をしていたのかも分からなくなるくらい私は舞い上がった。のぶ兄が私のことを”結婚相手”として考えてくれていることが何よりも嬉しくて。

 そしてそれと同時に、不安になった。

 私がのぶ兄のことを好きだって、恋してるって気づかなかったら不安なんて感じることなかったのに。そうであってほしくない。そうであってほしくないのに、どうしてものぶ兄に訊けていないことがある。

 ――のぶ兄は、どうして私と結婚したいの?

 今日は、ちゃんと訊かなければ。

 背中が引き攣る感覚はとうの昔に忘れていたのに。


 「裳着、おめでとうささら」

「ありがとう、のぶ兄」

 私の小さな局に、ひと目を忍んでのぶ兄はやって来る。だって盗賊だから、他の女房や家人には知られてはいけない。浮草さんは存在をかろうじて知っているけれど、顔までは見られたことがない。それくらい、私たちの逢瀬は公にできないことだった。

 そのことに不満をもったことは一度もない。のぶ兄との関係が変わるなんて思っていなかったのだから。

「ささらも成人したことだし、これでやっとささらを迎えることができる」

 すごく待ったんだ。のぶ兄が私の手を取りながら呟く。

 待った。それはいつからなんだろう。のぶ兄はなぜ私を迎え入れようと思ったのだろう。怖くて訊けない。でも訊かないと、私は納得できない。

「ねぇのぶ兄、訊いてもいい……?」

 のぶ兄の手を握り返して、私は問う。怖くて顔が見れない。

 のぶ兄がうん、とうなずいた気配がしたから、私は口を開いた。

「のぶ兄はどうして、私と結婚したいの」

 私のことを、好きだからって言ってほしい。恋という気持ちなら、妻として愛しているという気持ちが伝わってくるなら、なんでもよかった。

 それなのに。

「……俺がささらに消えない傷を負わせたこと、ずっと忘れてない。俺のせいで苦しんだこと、一生かけても償いきれないけど、ささらにあんな思いはさせたくないから傍で守っていきたいんだ」

 七つの時からある背中の傷。

 願っていたものとは違う、いちばん聞きたくなかった答えが心をえぐる。

 分かっていたからこそ聞きたくなかった。

「なに、それ……。私の背中の傷のこと、ずっとそんなふうに思っていたの」

「そんなふうにって……ささらを傷つけたのは俺だから、俺が責任を取るのは当たり前だろう」

「当たり前? 私はのぶ兄に責任を取ってほしいなんて思ってないよ……!」

 あまりの憤りとどこにぶつけたらいいか分からない怒りに、私は慄えた。だって、こんなのってあんまりだ。のぶ兄が私と結婚する理由は、私がすきだから、恋しいからではなく、ただ私への罪悪感から逃れたいためだったのだから。

 分かっていたけれど、改めて言われると受け止めきれない。

「見て……!」

 自分の襟の合わせを引っ張り、肌が見えるのもお構いなしに肩を出す。そしてのぶ兄に背を向け、その一筋の太刀傷をみせつける。

「っ、ささら」

 のぶ兄の動揺した声が響く。

「これが、のぶ兄が気にしている傷だよ。見て分かるでしょう。もう治ってるの。痛くないのよ……!」

 冷たい空気にさらされて逆立つ産毛を感じながら、私はゆっくりとのぶ兄のほうへ振り返った。のぶ兄はのぶ兄自身がたった今斬りつけられたように、苦しそうな顔をして目を逸らしている。

 そんな顔が見たいわけじゃない。のぶ兄に苦しんでほしいから、傷を見せたんじゃない。

 分かってほしいの。

「この傷はね、もう水が染みたり、ひりついたり、熱を持ったりなんてしないの。痛まない古い傷跡なんか私は気にしていないのに、どうしてのぶ兄がそれを蒸し返すの」

 もう一度のぶ兄の手を取って、その軽く汗ばんだ手を直に私の胸へ、肌へと触れさせる。

「私はね、のぶ兄。背中よりもここが痛いのよ……」

 伝わるだろうか。早く脈打つ鼓動と、傷を受けたあの頃よりもずいぶんと膨らんだそこに。傷よりも大事な何かに。

 大きくなって女として成長した私に気づいてほしかった。

「……やめてくれ」

「のぶに……!」

「やめろ、ささら」

 抑えていたよりも強い力でのぶ兄は手をすり抜けさせて、着くずれた私の衣を手早く整える。のぶ兄がよく楽兄のお世話をしているのを見ていたから、それは馴染みのある気遣いだった。

 恋人なんかじゃなく、家族としての、距離感。

「……初夏と言ってもまだ寒いだろう。風邪をひくと大変だよ」

 ああこのひとは、やっぱり私を女としてみてくれていない。

 それをむざむざと突きつけられているようで。勇気を出して気持ちを伝えた私が、ただただ惨めで滑稽だった。

「ねぇのぶ兄。のぶ兄にとっての結婚ってなに? ただ責任を取るってだけなら、そんな結婚したくない」

「ささら、」

「私、のぶ兄と結婚できない」

 こんな状態の私たちが結婚して夫婦になるなんて、とても想像できなかった。



 「ささら。どうしたの」

 お方さまの声ではっとする。お方さまのお髪を梳る手が止まっていたようで、私はすぐに再開した。これから殿のお帰りがあるというのに、お方さまの身支度を疎かにしてはいけないもの。いつもは浮草さんと一緒にやるけれど、たびたび内大臣家に戻るので、今日は私ひとりだけ。

「お方さま、なんでもないですよ」

 お方さまの気遣いに、そう返事を返す。とはいえ昨夜のあれから一睡もできていない。のぶ兄に結婚の断りを入れて、何か言われても聞く耳も持たず追い出してしまった。

 でも、後悔してない。

 あのまま二人でいたって、何も解決しなかったと思うから。

「伸弘から、何か言われなかった?」

 お方さまはのぶ兄が来ていたことを知っているので、気になっているのだろう。のぶ兄の名前を聞いて、昨夜の憤りが蘇ってくる。お方さまを心配させたくないのに、言葉となって飛び出していく。

「のぶ兄、なんて言ったと思いますか。”ささらを傷つけたのは俺だから、俺が責任を取るのは当たり前だろう”って言ったんです。たしかにこの傷はのぶ兄がつけたものです。とても痛かった。でものぶ兄が自分の意志でやったわけじゃない。のぶ兄は悪くない。のぶ兄だって傷ついてるのに、ずっと私に負い目を感じて私のためだけを考えて生きている。そんなこと、私は望んでないのに……!」

 痛くもない背中の傷がじんじんと脈を打つ。

 この傷があるから、結婚するの?

 じゃあそれがなかったら? 傷も何もない、私だったら?

 私とのぶ兄の間に、何が残るというのだろう。

「のぶ兄は私じゃなくて、私の傷を見てる。それに気づかないうちは、私も、のぶ兄も幸せになれないんです。一緒にいても意味がないから。だから断ったんです、結婚」

「こ……断った、の!?」

 黙って聞いていたお方さまが驚いて私の方に振り向いた。その拍子に櫛にお髪が引っ掛かり、引っ張られてしまう。

「お方さま、お髪が」

「大丈夫、よ。そんなことより伸弘との結婚を断ったなんて……。好きだったんでしょう、伸弘のこと」

「……はい。とても大好きです。もし添い遂げるとしたらのぶ兄がいいなって、気づいたらそう思うようになっていました。でものぶ兄は私に恋してない。ずっと家族のまま、稚い妹のような存在だと思ってる。お方さま。この結婚を断ったこと、間違っていますか……?」

 のぶ兄は私に恋してない。

 自分で言って、涙が出てくる。私はとても恋しいと思っているのに、のぶ兄はそう思ってくれていない。そう思うと、心が締め付けられるように、苦しくなった。

「間違っていないわ、ささら」

 お方さまの手が私の頬に触れる。溢れた涙を優しい手付きで拭ってくださるので、ほろほろとまた溢れだす。

「実はね、あなたがまだ稚いときに、伸弘がささらのことを頼むと言っていたの。迎えにくるまで預かってくれって」

「迎えにくるまで……」

「わたくしは嫌って言ったわ。ささらがわたくしのもとを離れるときは、ささらの意志で出て行くの、って。ささらがここにいたければ、ずっといてもいい。いつまでもわたくしの可愛いささらでいてほしいもの」

「おかたさまぁ……っ」

 抱きしめてくださるお方さまの優しさに、甘えてしまう。

 もう成人したのに。裳も付けて、鬢削ぎだってやったのに。

「ささらが悩んでいるのなら、すぐに答えを出さなくていいわ。裳着をしたからと言って、焦って大人にならないで。わたくしだって、すぐに大人になったわけじゃないもの。たくさん間違って、いろんな経験をして、大きくなったんだから」

 あの頃の姫さまはもう、いない。お子を産んで母となり、すばらしい女人になった。私のことも母のように慈しんでくれて、温かい。

 結婚なんて忘れて、ずっとこのお方にお仕えするほうが私にとっていいのかもしれない。そんなことをぼんやりと思った。


 しばらくして、兵部卿の宮さまがお帰りになられた、という声がする。お方さまに慰めてもらっている間ずっと泣いていた私は、鼻をすすりながら急いでお迎えの準備をした。

「おかえりなさいませ、殿」

「ただいま羽衣子」

 御簾をくぐり、黒の束帯に身を包んだ兵部卿宮さまがお方さまのおられる茵へとお座りになって一息ついたところで、袍の留具である受け緒を外しながらきょろきょろとあたりを見回し、お方さまにたずねる。

「ちい姫は」

 このちい姫、というのはそう呼ばれていたお方さまのことではなく、半年ほど前にお生まれになったお二人のお子である姫君さまのこと。その姫君さまを殿がちい姫と呼ぶたびに返事を返してしまっていたお方さまを思い出して、私は人知れず微笑んでしまう。

「ちい姫はおねむでしたから、乳母にお願いしていますわ」

「そう。それは邪魔してはいけないね。ちい姫がお目覚めになったら、連れてきなさい。私はこちらの大きなちい姫と仲良くしているから」

 殿は近くにいた女房にそう声をかけ出ていくのを見送ると、お方さまがもう、と殿を軽く小突いて笑う。

「こちらのちい姫はおねむでない? 僕があやそうか」

「殿、いい加減にしてくださいまし」

 いつもじゃれあって仲が良いお二人を見ているのも、私は楽しい。

 お二人のような関係のことを夫婦というものだと、改めて感じた。

「そうだ。ささら、そなたに話があったんだった」

「わ、私ですか?」

 急にこの邸の主が私へ話しかけたので、驚いて肩をはねてしまった。

「出仕の後に右中将に呼び止められてね。ささらのことで」

「右中将さまと言えば、先日ちい姫の五十日の祝いに素敵な衣の贈り物をしてくださいましたね。その右中将さまがうちのささらにどのようなご用件が……?」

 お方さまが殿と私を交互に見て首を傾げる。

 私は話が見えなくて、分からない。だって、右中将さまなんて知らないもの。ちい姫さまのお祝いの席でもお手伝いはしていたけれど、たくさんの殿方がいたし、どのようなお名前で、お役職で、なんて覚える間もなく忙しくしていたから。

「そう。その五十日の祝いで、酒に呑まれた右中将を介抱したのがささらという細長の女童だったと」

 あ、とその日のことを思い出す。たしかに酔って透渡殿にもたれ掛かっていた殿方がいたので、酔い冷ましになればとお水を差し上げたのだった。裳着前だから、細長だったことも一致している。

 その殿方は差し上げた水を飲み干したのでしばらく仰いであげていたけれど、有明の宮さまのことを素晴らしい、尊敬している、と口々にいうので私も悪い気はしなくて。誠実そうなお人だった。

「あの方が右中将さま……」

「彼はたいそうささらを気に入ったみたいだよ。裳着を済ませたら結婚を申し入れたいって言ってきたんだ」

「え……っ、え!?」

「殿、お待ち下さい。かの方は中納言家の姫君とご結婚されてまだ日も浅いと聞いています。それなのにささらとも、なんて……」

召人めしうどとしてだろうね。しかし、しょうとしての体裁は保つと言うし、ここへ通う許しがほしいとのことだった」

 話が突飛すぎて、ついていけない。

 一介の女房だから、こんな簡単に扱われてしまうのだろうか。まるで、物みたいに。

「それで、殿はなんとお返事を……」

「もちろん、断ったよ。ささらには伸弘という約束された者がいるからね。そうだよねささら。……って目が赤いね、どうしたの」

 殿が私の目元に気づき、伺ってくる。そうだった。先程までお方さまの胸を借りて泣きじゃくっていたのだった。

 のぶ兄のことでも頭がいっぱいなのに、まさかの右中将さまの申し入れにまた混乱しそう。お断りしてくださったことがありがたい、けど……。殿にも伝えておくべきだよね……。

「えっと……そののぶ兄との結婚を、断ったんです」

「え、それはまた……思い切ったね」

 殿が顎に手をあて、苦笑いをする。いつもお二人に対してあたりの強いのぶ兄がふられた、ということに対して呆れ半分、同情半分といったところなのだと思う。

 断った経緯と事情を説明すると、殿は「断って正解だよ」と仰ってくださった。

「齢二十歳を超えていつまでも女ごころを分からない伸弘少年には困ったものだね。そうなればここはひとつ、彼の成長のためにも試してみてはどうだろうか」

「試す、とは……」

「断ったといっても彼のことを想っているんだろう、ささら」

 殿の優しい眼差しに嘘をつくことができず、私は頷く。夫婦にはなれなくても、のぶ兄のことを嫌いになんてなれない。

 俯いた視線の端にあかの色。揺れる結紐はまだ、解きたくない。

「右中将には悪いけど利用させてもらおう。やはり前向きに考えると伝えて、さ」

「殿、さすがにそれはやりすぎでは……。ささらだって意に沿わない殿方は」

「やります」

「ささら……!?」

「私、そのお話お受けします。のぶ兄が変わらなかったら、右中将さまの召人になっても構いません」

 この選択が間違っていることは重々承知の上。私のことを妻として見てくれないのぶ兄と結婚するくらいなら、誰かの妻になるほうがずっといい。だって、このままのぶ兄といると絶対に苦しくなる。触れてほしい、愛してほしいって思ってしまう。

 そうなる前に、私がなんとかしないといけないんだ。諦めないといけないんだ。

「覚悟を決めた女人はどうしてこうも美しいんだろうね、ちい姫」

「ささらが悲しい思いをすることだけは避けてくださいね、宮さま」

「むしろ伸弘少年がどう成長するのかを楽しみにしていればいいよ」

 殿がいたずらを思いついた童のように片目をつぶり、お方さまに相槌を打つ。

 こうなった殿は止められないのだと、お方さまが言っていたことを思い出した。


 のぶ兄が悪いんだから。

 私を、私の心を見てくれないならいらない。

 いらないもの。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る