第16話 羽衣子-②
男が私を抱き上げたまま、庭に面したほうの御簾を上げて外に出て足早に簀子を駆ける。その時、階を上がってきた少年に出くわしたのが目に入った。
「なに、誰、あんた。それ、ここのちび……姫君でしょ」
いつもの仏頂面に加え、訝しげな目で男を睨む。ささらを待つと言っていた伸弘だった。おそらくまだささらと会えずにいて、時間を潰していたのだろう。それでもよかった。
「助けて、伸弘……っ」
男の手が緩んだすきに口元の手をずらして叫ぶ。咄嗟に伸弘が姿勢を低くしていつも佩いている太刀に手をかけたけれど。
「あ、今日は置いてきたんだった」
と間抜けな声を出すものだから、思わず「伸弘のばかっ」と言ってしまった。
「うるさい、なっ!」
「ぐ……っ」
私の暴言に言い返ししながら、伸弘は男のスネを蹴って膝をつかせたすきに私を男から引き剥がしてくれる。そのあと思いっきり、その拳をみぞおちにめり込ませた。
「か、はっ」
男が揺らぎ、簀子に倒れる。
「今のでしばらくは起き上がれないでしょ。ちょっと待ってて」
男がすぐには起き上がれない様子を見て、伸弘はどこかへ行ってしまう。
まさかこんな私を置いて、どこへ行くというの……?
「の、伸弘……待って……!」
「内府の、末……姫……」
骨が折れてしまったかと思われるほどの勢いで殴られたのに、五位蔵人はまだ私に手を伸ばしてくる。逃げようとしたけれど、足がもつれて立ち上がれないうちに高欄に背が当たってしまった。
また掴まれる手。私が抵抗する力を利用して起き上がった男が覆い被さろうとした時、どっと音がして男が階から転げ落ちる。階の支柱を支える土台である石に頭を強か打ち、どうやら気絶したみたいだった。
伸弘が戻ってきたのだと思って振り向いた瞬間、私はあの匂いに抱きしめられていた。
走ってきたのか、胸を上下させている有明兵部卿宮――宮さまだった。
「み、宮さま……?」
「っ、その姿、まさかとは思うけど」
着ているのは単のみで、足元にあるはずの袴もない。ついでに襟の合わせも肌蹴ていたとあってはそう思っても仕方がないのは分かっているけれど。
私の有り様を見た宮さまは色をなして地面で気絶している男を睨みつけた。
「な、何もされていません、から……」
「何もされていないわけがないだろう!」
怒鳴るような声。
『何もされていないわけがない』と宮さまに言われて、あの男が喉元に這わせた舌の感触と、動けないよう拘束されて強く握られた腕の痛みが蘇ってきた。自ずと体が震えてくる。
もし伸弘がすでに帰っていたとしたら? 宮さまが来てくださらなかったら?
そう思うだけでも身の毛がよだつ。
そんな私を、宮さまは安心させるように強く抱きしめてくれた。
「あーあ、ちょっと派手に蹴りすぎたんじゃないの。血は出てないみたいけど見事に伸びてるよ」
いつの間にか階の下にいる伸弘が、気を失っている男の傍らに座り込みどのような状態なのか伝えてきた。宮さまはそれに一瞥して、足りないくらいだ、と返事を返す。凍てつきそうなほど冷えた声なのに、伸弘は視線もそのままに動じなかった。
「伸弘。そなたの頭を呼んで、その男をどうにかしてくれないか」
「楽兄を? 高く付くよ」
「構わない。彼は五位蔵人だ。貴族のことをよく知る道楽に処分を任せたい」
「……分かった。あんたには恩があるから、楽兄も頼まれてくれるさ」
「頼んだ」
宮さまはそう言って、私を抱えながら立ち上がる。
体がふわりと浮いたことに驚いて、思わずその首に抱きついてしまった。その広く逞しい肩が一年前とは違うように思えて、先ほどとは違った意味で体がわななくのを感じる。
宮さまに触れていることが、こんなにも泣きそうで、嬉しいの。
回している腕を離し難くて宮さまに運ばれるがまま、ぎゅっと目を閉じていたら私の部屋へ連れて来られていることに気がついた。
着いたよと言われて優しく降ろされたけれど、袿や袴などが打ち捨てられたままのそこは、今の私にはあまりにも耐え難くて直視できない。離れて行きそうな宮さまの袍を握りしめる。
だめだと分かっていても、体が言うことを聞かなかった。
また独りでここに残されていくのが、怖いの。
「……宮さま、どうかお願いです。もう少し、このままで……」
声を絞り出して懇願すると同時に、宮さまが私を包み込むようにその腕の中へいざなってくれた。胸いっぱいに宮さまの薫りを吸い込み、ひどく安堵する。
こうして抱きしめられるなら、宮さまがいい。
どの殿方よりも、ここより安心できる場所なんてないわ。
「……そろそろ、行かなければ」
しばらく私を宥めてくださった後。宮さまが私の肩をぐっと押し、その腕の長さほどの距離が私との間にできてしまう。
また、宮さまと会えなくなってしまうのだと思うと素直に頷けない。こんなわがまま、宮さまを困らせてしまうだけなのに。ここで見送ってしまえば、二度と会えなくなってしまうような気がして。
「宮さまは……わたくしのことがお嫌いになったのですか」
ずっと聞きたかったことが、つい、と出てきてしまった。男に襲われそうになっている私を助けてくれた宮さまに、私のことを嫌いになったのかなんて訊くのは失礼だって分かってる……けれど。
訊いてしまったのはまだここに居てほしいという願いからのものだった。
「それは本気で言っているの」
宮さまの低い声。びく、と自分の体が強ばるのが分かる。
私の肩に置かれた手に力が入り、少し痛い。
「僕が……どんな想いで」
絞り出すような声音に耳を傾けようとして、突如視界が反転する。
唇に温かいものが触れて、息ができなくなった。
「ん……っ」
また離れて、塞がれる唇。宮さまの深い口付けに、体が縛り付けられたように動かない。初めての感触に頭もついていかない。
宮さまに、何をされているの……?
幾度か唇と唇を重ねた後。自然と涙を流していた私にはっとして、宮さまが「僕も」と小さくつぶやく。
熱い眼差しが、私を射て。
「あの男と同じだ……」
「……え?」
「そんな姿のちい姫を見て、我慢ができなかった。己の欲のまま、抱いてしまうところだった」
宮さまが近くにあった袿を手繰り寄せ、私の体に被せて背をそむける。
袿を被せられたということは、着ていなかったということ。近くに緋袴も脱ぎ捨てられた状態で放置されている。私はといえば着ているものは単のみで、足はむき出し、襟の合わせは大きく開いて肌が露出していたのを思い出した。
これでは襲ってくださいと言っているようなものだわ……!
「も、もも申し訳ございませんでした……!」
恥ずかしさで体中が熱くなり、被っていた袿を慌てて羽織り直し、足元はとりあえず袿の裾で覆う。なんて醜態を見せてしまったのだろう、と宮さまをみるけれど、宮さまは先程の行為を悔やむように、両手で顔を覆っていた。
「ちい姫は悪くないよ」
「で、でも……っ」
「僕が悪い。自分から一年も離れていたくせに、ちい姫が他の男のものになるところだったと思うと体が勝手に動いてしまったんだ」
話し方が、以前の宮さまに戻っている。そして、私のことを『ちい姫』と呼んでくれたことで顔がにやけてしまう。
『ちい姫』と呼ばれることが泣きそうなほど、嬉しいなんて思わなかった。
「あんなことをされたのに、どうしてちょっと笑っているの」
「宮さまと、またこんな風にお話できることが嬉しいのです。内府の末姫なんて呼ばれて、随分と遠いお方になったのだと思っていたから……」
「僕だって兵部卿宮だなんて呼ばれたくなかったよ」
「宮さまのほうから、そう仕向けたのではありませんか」
そうだったね、と宮さまは私に向かって笑ってみせた。それは久しぶりに見た、宮さまの笑顔で。
す、と宮さまの右手が私の頬に触れてくる。
「無事でよかった、ちい姫」
「宮さまと伸弘が助けてくださったおかげです。本当に、ありがとうございました」
「伸弘が呼びに来てくれなかったらと思うと、背筋が凍るよ。ちょっと最近噂を聞いたからって忍び込んでくるような男に、ちい姫を攫われたんじゃたまらない。……あの柾路なら、ともかく」
私は首を横に振る。ここで柾路さまの名を出したのは、まだ私があの方を想っていないか確認するためだと思ったから。男に襲われたとき、柾路さまのことなんて少しも思い出さなかった。助けてほしいと願ったのは他でもない、目の前にいる宮さまだったのだから。
安心させるように頬に添えられている手にすり寄ると、宮さまが険しい顔をする。
「ちい姫、そんな風に男を煽るのはよろしくないよ。だから攫われてしまいそうになるんだよ」
「煽るだなんてそんな。先程の殿方と、宮さまは全く違います……!」
「どう違うっていうの。柾路とも違うって、言える?」
宮さまが私の頬を両手で包み込んで、視線を合わせてくる。
どう違うか。そんなの私の態度で分かりきっているはずなのに、宮さまは意地悪を言う。
私の気持ちが切り替えられるまで、ずっと待っていてくださった一年だったのだろう。そんなことも分からなかった私は、独りで感傷に浸って泣いていたなんてね。
宮さまはこんな風に、私から目を逸らさずにいてくれたのに。
ただひたすらに。
「宮さま。わたくしはもう、柾路さまのことは想っておりません。宮さまからいただいたこの一年という時間のなかで、心を癒やすことができました」
「柾路について行かなくても、よかったの」
「宮さまを置いて、行けるわけがありません。わたくしの有明の月を置いて」
そう。宮さまは私の心の夜が明けるまで待っていてくださったの。
じっと、宮さまの瞳を見つめる。瞬きをすると、長いまつげが震え、目が細くなる。
そしてまた、宮さまのお顔が近づいてきて――。
「ちい姫! 大丈夫か、ちい姫」
突如として響く、私を呼ぶ大きな声。御簾の外からどたどたという足音と共に近づいてくる。もしかして気を利かせた伸弘が、今度は兄さまを呼んできてくれたのかもしれない。でも、いくらなんでも今来なくてもいいじゃない。
宴に来ていた男に襲われた、と聞いただけで卒倒しそうな兄さまなのに、私と宮さまが二人きりでいたなんて知ったらどうなるか想像に難くない。
「兄さま……」
「見つかってはまずいな……僕はここを出なければ。こんな状態のちい姫と一緒に居たことが知れたら、それこそあの五位蔵人と同じ扱いをされてしまう」
「そんなこと……っ」
「案じることはないよ。そんな顔をしないで、ちい姫。またすぐに会えるだろうから」
宮さまの手がもう一度私の頬を撫でて、名残惜しそうに御簾を上げて部屋を出る。
ちょうど兄さまとかち合ったようで、私の宿直をしていたのだとあれこれ脚色を含みながら事の顛末を話しているのが聞こえてきた。
頬に残る温もりに、自分の手を添える。体が熱くなるのを感じて、頭を振った。
兄さまが来なかったら、宮さまはまだここに居てくださったかしら。
高鳴る胸を必死で抑えながら呼吸を整えていたら、兄さまの後を追って部屋に入ってきた浮草に、私の惨状を見られてこの世の終わりと言わんばかりに叫ばれたのだった。
「まぁ、なんて不届き者なのかしら。わたくしたちのちい姫を襲った挙げ句、攫おうとしただなんて! もうお父さまや翔光くんには任せてはおけません。ちい姫はわたくしが預かります!」
そう言って憤怒した姉さまがとんでもないことを言い出したのは半月ほど前。
このままこの邸に置いてはおけないと、内裏に戻る予定を半年ほど早く繰り上げ、姉さまはまたたく間に私ごと登華殿へと帰ってきてしまった。お父さまは不甲斐ないといった顔をして姉さまを止めることができず、兄さまも我が家より内裏に勝る警備はないだろうと異論を唱えなかった。
もっとも、一度盗賊に攫われた身。面倒事に巻き込まれやすい体質だと思われているみたいで……姉さまの過保護が強く出てしまったのだろう。
あのときの五位蔵人本人はどうなったのかわからないけれど、殿上人(てんじようびと)の噂では病に倒れ復帰は望めないだろうということになっているらしい。宮さまが道楽に依頼したのは、貴族的解決だった。単純に懲らしめるだけではなく、社会的地位を奪うというやり方をしたのかもしれない。さすが、としか言いようがなかった。
こちらに来てからというもの、最初は登華殿の若い女房たちが私の話し相手にと頻繁に出入りしていたけれど、数日経つ頃にはその数も減り一人になることも多くなった。 何の準備もせずこちらへ来てしまったので、付き女房である浮草やささらもいなくてとても寂しい。姉さまともいつも一緒にいられるわけではないので、一人御簾の外を眺めて呆ける時間が増えてしまっていた。
そんなとき浮かぶのが、宮さまのお顔で。
宮さまと触れ合えるほど、あんなに近くにいたことがまるで夢のよう。夢か現か、呆けていると次第に分からなくなってくる。
助けて貰ったお礼に文を出そうにも、最近まで返事など来なかったし、来たとしても『そのようなことはなかった』と返されることが怖くて、筆を取ることもできなかった。
私はいつまで、ここにいれば良いのですか。
そう訊ねたときの姉さまの返答は『ちい姫を任せられる殿方が現れるまでよ』という一言だった。
私を任せられる殿方なんて、そんなの……。
「お暇ですか、二の姫さま」
私が姉さまとのやり取りを思い返していると、近くに居た女房が声をかけてきた。初めて内裏へ訪れたときに案内をしてくれた、姉さま付きの女房である松風。こちらへ来てから、何かと気にかけてくれてとてもありがたい存在だった。
「そうね。今日は女房もどこかへ行っているみたいで……」
「さようでございましたか……。よろしければ弘徽殿へ参りませんか」
「弘徽殿?」
「えぇ、ただいま承香殿の女御さまのお計らいで、女御さまがいらっしゃらない弘徽殿をお借りして内裏の女房たちへ物語の読み聞かせる催しをしているのです。どちらの女房でも参加してもよい場ですので、二の姫さまもいかがでしょうか。お暇つぶしにはなるかと」
「それは素敵ね。ぜひお伺いしたいわ」
「かしこまりました。すぐにお支度いたしましょう」
女房たちが急に手薄になったと思っていたけれど、そんなことがあったのね。私がぼけっとしていて、彼女たちの話を聞いていなかったのかもしれない。しっかりしなくては。
以前、私が参内したときには居なかった承香殿の女御さま。入内してまだ半年ほどの新しい左大臣家の姫君で、お人柄は朗らかで明るく、とにかく人を集めて賑やかにすることがお好きな方だと聞いている。姉さまも悪い気はしていないようで、賜った殿舎も近く仲も良いみたい。
私は松風に先導されて、弘徽殿へ渡る。その催しは西廂である細殿で行われているらしく、足を踏み入れれば色とりどりの装束に身を包んだ女房たちが座していて、物語の読み手の声にうっとりと耳を傾けていた。
女房たちは十数名はいるかしら。思ったよりも規模が大きいみたい。近くに居た女房が私の姿に気づいて席を空けようとしたけれど、私は首を横に振る。後から来た者は後ろで聞かなくてはね。
姉さまに報告に行くという松風を見送り、私は塗籠の近くに座った。読み聞かせのお話は、どうやら恋の物語のよう。
参議である公達と、身分違いである
そうよね。音沙汰がないとこちらへの関心がなくなってしまったのかと思ってしまうわよね。嫌いになったのかと、思ってしまうわよね。
うんうん、と聞いていたところでだんだんと自分のことのように思えてくる。
……宮さまは、私のことを迎えに来てくださるのかしら。
物語は幸せな結末へと向かう。
私はただ、待っているだけでいいの?
ひゅう、と上げられている御簾を通り道に風が入ってくる。その風に乗って、慣れ親しんだ薫りが私の鼻をついた。すぐ近くの、塗籠から。
そういえば弘徽殿の塗籠といえば、宮さまと初めてお会いした場所だった。鉢合わせただけでなく、ひと目見て連れ込まれてしまった場所。
私が想うあまり、その塗籠から宮さまの香の薫りが漂ってきたのかもしれない。
その時はそう、思い過ごすことにした。
物語を読み聞かせる会はおよそ三日に一度開かれていた。当然、暇な私も興味があるので参加させてもらっていて。
楽しそうに聞いている女房たちの邪魔にならないよう、私はいつもの塗籠の近くが定位置になり、そこで毎回物語を聞くのと同時に、あの香の匂いも感じることが多くなっていった。
何かがおかしいわ……。
そう気づいたのは、四度目の今日。塗籠の戸が少し開いているのを知りつつも、物語に夢中で誰も閉めようとしない。そのままにしていても大丈夫かと思った矢先、また宮さまの香が強く香ってきた。
もう、我慢ができない。
このまま何も知らないふりをしているよりも、早く確信を得たい。
この一年をそうしてきたように、ただ迎えが来るのを待っているだけではだめだって分かるから。
私のほうから来てほしい、と期待している香が匂う――。
私は意を決して周りの女房たちが誰もこちらを見ていないのを確認すると、するりと塗籠の中に入り込む。
入った途端むせかるような甘い薫りと、よく見知った人影に思わず息を止めてしまう。薄暗い塗籠の奥。思った通りの方が扇を仰ぎながら、私の姿を見ると目を細めた。
とくんどくんと鼓動が耳を打つ。
「こんなところで何をしておいでですか、有明の宮さま」
外に漏れぬよう小声で問いを返せば、宮さまは近くへ来るように手招きをしてくる。
この塗籠に私と宮さまを隔てるものは、何もなかった。
「やっと来たね、ちい姫」
「やっと……? もしや宮さま、わたくしがここへ来るのをずっと待っていたというのですか」
「その通り。ちい姫が僕を見つけてくれるように、いつもの香をわざと強く焚いているんだ。ちい姫から勝手に借りてしまった扇も、僕の香をちい姫に届けるお手伝いをしてくれた。ありがとう」
宮さまが扇をついと差し出すので、私が反射的に受け取ろうと手を伸ばした途端、その手を掴まれ、優しく引っ張られた。体勢を崩した私を片腕で優しく抱きすくめて、宮さまの息が耳をくすぐる。
「み、宮さま……っ」
「会いたかった……!」
先程の飄々としたものとは違う、心の底から絞り出したような掠れた声。その一言にどれだけの想いが込められているか、痛いほど分かる。
顔を上げ宮さまの瞳を覗くと、かすかに煌めいていて。とても綺麗だなって思ったの。
私も泣きそうになるくらい、宮さまとこうして会えたことがとても嬉しい。
「……わたくしも、です。宮さま。私もお会いしたかった」
「本当に?」
「本当です。宮さまと以前のようにお話するどころかお会いすることすらできなくなって、いつしか宮さまのことばかり考えるようになってしまいました。わたくしにとって、宮さまはかけがえのない大切な方なのです」
「あぁ……ちい姫が僕のことを考えてくれているだなんて、夢みたいだ。本当は、離れたくなかった。でもあのまま離れなければ、僕は自分を抑えきれなくなりそうだったから。できる限り接することをやめて、ちい姫につれない態度をとってしまったんだ。……こんな僕を許してくれる?」
「もちろんです、宮さま。わたくしのことを一心に想ってくださっている宮さまですもの」
「ちい姫……」
宮さまは私の手を取り、優しく握り締める。とてもあたたかい。
「ねえちい姫。僕はもう、待ってあげられない。もう、手放すことができない。柾路にも、ちい姫の噂を聞いて想いを募らせている他の男たちにも。兄の右少将にさえ、他の誰にも盗られたくないと思ってる。それでも、いいのかな」
宮さまの震える声。それに反して、先程までどくんどくんとうるさかった私の心は不思議と落ち着いている。
この方を待たせてしまったぶん、私はどんなことをしてあげられるのだろう。おそらくこの先ずっと、この真心を少しずつ返していくしかないのだわ。
そうだとすれば、答えはひとつしかない。
私は宮さまの問いに頷き、宮さまの頬を両手で包み込む。そして。
「宮さま。わたくしと、結婚してください」
宮さまの見開かれる目。信じられないとしばらく瞬きをしたのち、宮さまの頬の血色が色濃くなっていくのが薄暗い塗籠の中でも見える。そして私も同じように肌が上気しているのを否めない。なんだか、じわじわと暑い。
大胆なことをいったものだと、自分でも自負している。女人から求婚するだなんてそうあることじゃないもの。
でも長らく別の方を想っていた私が、今は宮さまを想っているという本心を伝えるにはそれが一番良いと思ったから。
「ずるいよ、ちい姫。あれだけ僕のことを焦らしておいてそんなこと言うなんて」
「ずるいわたくしは、お嫌いですか?」
「好きだよ。すきだ。ようやく、僕だけを見てくれた……」
「きゃっ……?」
宮さまが一度私を強く抱きしめたあと、急に立ち上がり私を軽々と抱き上げてしまうので、外に漏れそうなくらい大きな声を出してしまった。
今の私は唐衣や裳まで着けているのに、宮さまはそんな重さも感じないような力強さで、しっかりと私を支えている……けれど。
「み、宮さま……? どちらへ?」
「登華殿の女御さまへ結婚の許可を得に行くんだよ」
「そんな、外ではまだ他の女房たちがいるのに……!」
「構わない。物語を読み聞かせるという場なら尚更、見せつけてやればいい。ここから始まった有明兵部卿宮と、内府の末姫の物語を」
そう言って宮さまは勢いのまま塗籠を出る。私には成すすべもなく、兵部卿宮さまが、内府の末姫さまが、と女房たちがざわめくのをただただ顔を隠してその場から離れるまで耐えるしかない。
でも、宮さまが言った『有明兵部卿宮と内府の末姫の物語』という響きはこの数日耳を傾けたどの物語よりも鮮明で、魅力的だった。
本当に、語り尽くせないくらい。
背が小さなせいか『ちい姫』と呼ばれ、連れ込まれたり、攫われたり、襲われたり。
様々な物事に巻き込まれた。
そんなときはいつも宮さまが助けて、護って、抱きしめてくれた。
私にはもったいないくらいのお人だけれど、また何かに巻き込まれるなら宮さまが良いと、心からそう思った。
「ちい姫。いや、ちい姫……?」
登華殿の中門へ差し掛かった時、宮さまが何かを話しかけたので顔を上げると、小難しい顔をした宮さまが首を傾げている。
「僕の妻になる人をもうちい姫とは呼べないな。ちい姫と呼べぬなら、なんて呼ぼう」
ちい姫とは本来生まれたばかりの稚い姫のことを指すので、宮さまは私のことを呼べる別の呼称を所望している。
つまり妻になるのだから本当の名を教えてほしい、と言っているのは分かるけれど。
は、恥ずかしい……!
宮さまと出会ったとき、『あなたに名前を教える必要はありません!』なんてぶっきらぼうに言った気がするもの。だって、名を教えるのは夫婦になることを意味するのだから。
「ち、ちい姫で構いません」
「構わなくないよ。僕らの間に姫が生まれた時、なんて呼んだらいいか分からなくなってしまう」
「なっ……! 子どもの話なんて気が早いです……っ」
「そう遠くない未来の話だよ」
依然抱き上げたままの私を見上げて、早くと急かす宮さまはまるで構ってほしい童のようで。その輝かしい笑みに私のほうが根負けして、折れる。
でも伝えようにもここは往来。
ただでさえ女房たちが顔を見合わせこちらの様子を伺っているのに、とてもじゃないけど口に出して言えないから、宮さまの肩口まで身を屈る。
そして、宮さまの耳元に手を添えてやっと聞こえるくらいの小さな声で、私はささやいた。
ちい姫さまの恋事情 完
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