第7話 対称
前帝の三の宮である有明の宮さま。彼の住まいは五条にある前右大臣の邸だという。
その邸は有明の宮さまが曽祖父である前右大臣にたいそう可愛がられていた縁から、是非にと貰い受けたのだそうだ。
「遠路はるばるようこそ、ちい姫。我が邸へ」
「お招きいただきありがとうございます」
一条から五条への道のりで牛車に揺られた私を、嬉しそうな有明の宮さまが出迎えてくれた。普通、邸の主自身が客人を出迎えるなんてことはまずない。
宮さまは普通の人ではないからと、私はそれを気にしないで牛車を降りた。
唯一連れてきた女房、浮草が横から顔を隠せと
以前、有明の宮さまがわざわざ返してくれた扇は使っていない。何をどうしたのか、あの短期間で有明の宮さまの香が染みついてしまっていて、使うに使いきれなかった。否が応でも宮さまの匂いがするのだもの。お気に入りだったのに。
「ちい姫、案内するからこちらへおいで」
「……」
「大丈夫、ちゃんと衛門督も呼んでいるから安心して?」
「……っな、」
「ほら、行こうね」
宮さまは私の心の中を見透かすように、目を細めて笑い私の手を引いて歩き始めた。
私は上気してしまった顔を見られまいと、深く扇に顔をうずめる。私の顔って、そんな分かりやすいのかしら。
宮さまの女房と浮草を引き連れながら歩いた先に、良い香の匂いがする部屋にたどり着いた。待機していた女房がするすると御簾を上げてくれる。
ふんわりと香る匂いは、どこか甘くて切なさを感じさせる。
なんという香を使っているのだろう?
私は顔を隠すのも忘れて、物珍しそうに部屋を見渡してしまった。
「ここが今日、ちい姫に用意した部屋だよ」
「ありがとうございます。すごく良い香りがするお部屋ですね……」
「特別な部屋なんだ、ここは」
私を御簾のうちへと促した宮さまは、柔らかい笑みをこぼした。
「僕のおばあさまが使われていた部屋だよ」
宮さまのおばあさまといったら……今上帝より三代前の皇后さまのこと。
そんな恐れ多い方の部屋に案内するなんて、宮さまったらどんな神経しているのかしら! 私のような者が入れるような場所ではないはずなのに!
「わ、わたくしなんかが使っていいお部屋では……」
「いいんだよ、ちい姫は。僕が無理やり招待したようなものだからね」
宮さまは優しく笑って、私を茵へと座らせてくれた。宮さまはといえば、長居する気はないらしく軽やかな仕草で廂間へと踊り出る。
見ててね、と小さく呟いた。
「何かおっしゃいましたか?」
「いや……この後のことが凄く楽しみだなって、思っていただけだよ」
「この後、なにかされるのですか?」
宴に余興はつきもの。歌の読み比べとか、香の合わせとか。そういうことは事前に知らされるものだけれど、宮さまは私に何も言ってくれなかったから、今日は何が催されるのか分からない。
首を傾げる私の唇に、宮さまの人差し指が触れる。
「内緒。楽しみにとっておくといいよ」
「……っ」
私はその人差し指が触れたことにより、恥ずかしくなってしまった。宮さまが私の唇にあてた人差し指を、愛おしげに自分の唇へと触れさせたから。
私は宮さまの軽率な行動が信じられなくて、慌てて後ろのほうに後ずさりした。そのためか宮さまは置いて行かれた幼子のような顔をする。
何だか、この方がさまざまな女性の心を射止めるのも分かる気がした。
「それじゃあ、僕は行くから。楽しんでねちい姫」
私の頭をひと撫でした宮さまは颯爽と姿を消し、私は恨めし気にそれを見送ることしかできなかった。
「姫さま、有明の宮さまとはあのような方でいらっしゃったんですね。なんて麗しい……」
「騙されては駄目よ浮草。あの笑顔に幾人もの姫君が泣かされてきたと言うではないの。あと、前は宮さまに近づくなとか言ってたじゃない」
「まあ、わたくしとしたことが。そうですわね。気を緩めてはいけませんわね。姫さまにあのようなことをされた宮さまがおかしいと思っておりますわ」
「相変わらず皮肉屋ね……それとも嫌味かしら?」
私が頬杖をついて目を座らせると、浮草は曖昧に笑って、宮さまが出て行った廂の御簾をゆっくりと下ろした。あらためて部屋を見渡すと、多くもなく少なくもない几帳や衝立などの美しい調度品がちょうどよい間隔で配置され、部屋の品格を上げているように感じる。
部屋に控えていた女房いわく、宮さまが移り住んだ時からこの部屋は
「わたくし、姫さまについてきて良かったですわ。このように体験できないことができましたもの。ささらやほかの女房たちに自慢できますわ」
「浮草についてきてもらったのは、わたくしが心細かったからなのだけど……。喜んでいるなら、いいわ」
手を合わせて嬉しそうに笑う浮草なんてあんまりみれないから、私はため息をつきながらつられて笑って許してしまう。心細かった、なんて。本当は私一人で宮さまの邸に乗り込むなんて危険なこと、できなかったからに決まっているのだけれど。普通、身分の低いものが高い者のもとを訪ねる時は、女房など引き連れては行けない。私が宮さまにわがままを言ってお願いしたら、宮さまはあっさり了承して下さったから浮草を連れてこれたのだった。
それからしばらくこちらの女房達と談笑して、私は西の対で母屋に近い部屋へと案内された。宴は日が沈んでから始まり、夜中まで続く。そんな遅い時間に帰るなんてとんでもないから、私には先ほどの部屋が宛がわれたのだった。必然的に今日は宮さまの邸に泊まることになっている。
「こちらの部屋は殿方のお客人には見えません。また、若宮が他にご招待された姫君方がいらっしゃいます。大納言さまの二の姫さまは、こちらの廂間へどうぞ」
「ご案内、ありがとう」
几帳で仕切られた廂間の一番奥のほうに、私と浮草が入る。
「他の姫も、招待されているのね」
「まぁ、姫さま。立派にやきもちですの?」
「そうじゃないわよ、浮草っ」
慌てて否定するあまり語尾が上がってしまい、まるで図星のように浮草には聞こえてしまったかもしれない。
全然、違うのに。ただ、招待した姫は私だけだと思っていたから。
浮草から目を逸らし、降りている御簾の向こうを見つめた。寝殿の正面にある中庭に、大きな舞台のようなものがあって、楽人と思われる人たちが音合わせをしているように見える。そろそろ始まるのだと、ちょっと気持ちが高揚したところで。
「もし、こちらの女房さん」
「あ、はい。何用でしょう?」
先ほど案内してくれた女房が、声をかけてきたので浮草が対応する。
なんだか私に対して、申し訳なさそうな顔。
「予想外にお客人が多く、人手不足で困っておりますの。もしよろしければ、お手伝いして下さらないかと思いまして。いえ、だめならいいんです」
本当に困っているのが伝わって来て、浮草がこちらに目配せをしてくる。もちろん、という意味も込めて私は軽く頷いた。
「お手伝いしてきますわ、姫さま」
浮草が誘いにきた女房と出て行こうとした時、ふと振り向いた。
「そうですわ、姫さま」
「なあに、浮草」
特徴であるつり目を、これでもかと強調させた浮草が私に詰め寄る。
「わたくしがいないからといって、むやみに出歩いたり、御簾の外へ出てはなりませんよ」
「もう子どもじゃないのよ。それくらい分かっているわ」
まるで私がそうするに決まっているとでも言うかのようで、ちょっと癇に障って、私は口をとがらせた。
絶対にしないって、断言はできないけれど。
一度きつく私を見て、頬を緩ませると、浮草は失礼しますといって部屋から出て行った。ぽつんとひとり残された私の耳に入るのは、几帳で仕切られた廂間の向こうにいる他の姫君の声。聞き分けられるだけでも、三ないし四人はいるみたい。
浮名たつ有明の宮さまとあって、きっとみんな美しい容姿をした姫君ばかりなのかもしれない。私は勝手に想像をして、自分で卑屈を感じてしまっていることに気付き頭を横に振った。
別に、そんなことどうでもいいじゃないの。今日は宴を楽しみに来たのだから。
そうこうしてると、夜の宴の会場から、澄んだ旋律の笛の音が人のざわめきを瞬く間に無音にさせた。
「始まるのね」
私は呟いて、御簾のほうへ歩み寄り、耳を澄ませた。
なんて、人がせっかく宴の雰囲気に浸ろうとしたときに限って、他の姫君たちの声がそれを邪魔してくれた。私は一人だから話す相手もいないし、少しさびしいけれど、もう少し気を使ってくれても良いのではないかしら。やれまあそうなの、やれええそうですの。
でも、聞いたことのある単語が聞こえたから、私は思わず耳をそばだててしまった。
「ねぇ、ご存じ? 今宵の宴はあの朧太刀の君がいらしているそうよ」
「まぁ。朧太刀の君と言えば、衛門督さまではありませんか」
柾路さまのことだ……!
特定の人物が浮かび上がったから、姫君たちの声から情報を手に入れようと息を潜めた。有明の宮さまは呼んで下さっていると言っていたけど、柾路さまとはお会いしていないから、それが確かなものであるとは断定できない。
ただ噂話にまでなっているのだからきっと確かなことなのだろう。
「有明の宮さまと衛門督さまがご交遊関係にあるとは聞いたことありませんわ」
「ええ、わたくしも。でも今宵はお二人、特別な催しをされるとか、もっぱらの噂ですのよ」
「あら、そのようなことはもっと早くおっしゃっていただかないと。衛門督さまは有明の宮さまに劣らず素敵な殿方だとお聞きしていますの。お二人が並んだら、さぞお美しいことでしょうね」
彼女たちはまだ、柾路さまを見たことがないのだろう。それが分かっただけでも、なんだか私が特別な存在に思えた。だって並んでないとはいえ、私は有明の宮さまも、柾路さまも、顔を知っているんだもの。それでいてお話もしたことがある。
気持ちの良い優越感に自然と頬が緩んでしまったのも束の間に、外にある舞台では楽の音が止んでしまった。
「あら、どうなさったのかしら」
隣の姫君の声に私も同感、と御簾を少しだけついと上げた。そうすることで見えたのは、この世で見たこともないほどの、なんとも優雅で艶のある情景が広がっていた。
「有明の宮さまと、柾路さま……?」
舞台へと向かう二人の青年の姿。それは正しく、私の知る三の宮さまと衛門督さまであり、それでいて私の知る彼らの姿とは異なっている。
二人は色味の違う
舞台に上がった二人は一度客席に深く礼をすると、向かい合う。
そうして、静かな竜笛の音が空気に混じり、舞の始まりを表現していた。
―――内緒。楽しみにとっておくといいよ。
有明の宮さまが去り際に言っていたのは、このことだったのだわ。私を驚かすために、柾路さまと舞を踊ることにしたのだ。こんな二人を見せつけられて、惹かれないわけがない。
私は目を逸らすことができず、それどころかもっと近くで見たいと御簾に手をかけてしまった。
浮草が出ちゃだめって言ってたけれど……少しだけだから、大丈夫よね。きっと。
体が通れるくらいまで御簾を上げ、私は己の欲望のままに簀子へと足を進めた。後で咎められようが怒られようが、今はそんなこと考えるよりも先に、宮さまと柾路さまが生み出す雰囲気にのまれてしまうかのようだった。
余計な音が一切ない、旧右大臣家の庭舞台。そこに、邸の主と衛門督が舞装束を着て視線を交わらせている。ぽん、と鼓の音が二人を立ち上がらせた。
ゆっくりと、でも目を逸らすことなくお互いに太刀を抜きとる。
「朧、太刀……」
柾路さまが手にしているのは、彼が愛用していると知られる古い太刀。
舞台の四方に置かれた篝火に照らされて、ぼろぼろと欠けている刃を光らせている。
でもその太刀が、ちゃんと実用できているのを私は知っている。通常舞に使われるのは飾太刀なのに、どうやら宮さまの持っている太刀も真剣のようで、普通の舞とは少し違うようだった。
二人の容姿が美しいこともあるけれど、一風変わった舞に魅了されてしまうのは招待客みんな同じみたい。誰一人として口を開いていないことが、話し声ひとつ聞こえないことから察することができた。
まず、宮さまが太刀を振り翳し、相手に切りかかろうとする演舞を見せる。もちろんそれはあくまで舞だから実際にはそんなことしないだろうけど。それを柾路さまが華麗によけ、宮さまの次の手を素早く朧太刀で受け止める。
宮さまの太刀を跳ね返し、今度は柾路さまが応戦する。
次第に笛の音が荒々しくなり、ぽんぽんと鼓も彼らの演舞に合わせて高らかに鳴り響く。それは演舞なのに、限りなく本物に近い太刀の競い合い。
細かく打ち合わせをしていないと間違えて相手を切ってしまいそうなくらい、動きが早い。
ひやひやするのに、目が逸らせない。
長い袖を翻し、重い袴を滑らせ跳躍する。
これは確かに、舞だった。でも、本当に戦っているみたいで。
振り上げる太刀が弧を描く様は、ちょうど夜空に浮かぶ三日月の形に似ていた。その三日月を背に、宮さまが太刀を構える。柾路さまは篝火のもと、宮さまに
目にもとまらぬ早さだったから、瞬きをする瞬間も惜しいくらいで。
「まるで、月と太陽みたい。……宮さまが月で、柾路さまが太陽」
対称的なふたり。
「そうかな」
ごく当たり前のように、私の背後で声が聞こえたとき。
舞が終了したことで数多の歓声と拍手がこの場所を包み込む。
「……え? きゃ……っ‼」
声を確認しようとした刹那、すごい力に腕を掴まれ私は簀子から落ちそうになった。地面にぶつかる。そう感じて目を閉じたとき、地面ではなく生身の人間に抱きとめられていた。
「俺には衛門督のほうが月にみえるけど」
少年が、その姿からは想像できないくらいの力で私を持ち上げている。ひざ下と背中に腕を回され、でもあまり優しいとは言えないくらい無造作に。
このときほど御簾を出て、端近にいたことを後悔したことはない。先ほどの声は、この少年のものだったのだ。
「だれ、か……‼」
「声を張らないで。まあこの状態じゃあんたの声は誰にも聞こえないだろうけど」
「んぅ……っ」
彼が着ていたのは狩衣。その肩口に頭ごと押し付けられ、助けを求められないように口を塞がれてしまった。
ついてない。こんな目に遭いすぎる私は本当についてないんじゃないかしら。あまりの息苦しさに私は身を捩るようになんとか少年から逃れようとしたけれど、力が強すぎる。
「んーっ、んー!」
「そんなに暴れないでくれないかな。ただでさえ抱えてなきゃいけないのにさ」
重いなら、下ろしてくれたらいいじゃない。そう言い返してやりたいのに、離してくれそうもない。それどころか彼の腕が、暴れる私の体を強く圧迫する。
さらに苦しさが増して。
「黙る? 黙ってくれたら息をさせてあげる。でも抵抗するようだったら……殺すよ」
「……っ!」
命を奪うと言っているのだ。私を抱える少年に、体と同じように命が委ねられている。それを知ったとたん、恐怖で体がすくんでしまった。彼の声は冗談を言っているように聞こえなかったから。
こくこくと、首が勝手に頷いていた。
「
彼の呟きとともに、私は息が出来るようになった。それでも息苦しい気がするのは、脅されたからだろうか。身が縮んでしまって、上手く息が出来ない。
……あ、れ? ちょっと待って。……楽兄? どこかで聞いたことのある単語。
楽兄、楽兄、楽兄。あ……。
『いやぁ、お姫さんが俺のこと知らないからさ』
『そんなことよりも、さっきの牛飼童が大内裏へ向かって逃げました。いつ検非違使のやつらが来てもおかしくないですよ』
『そいつはやばいな。分かった、他の奴らは退散しろと伝えておけ』
『楽兄も早く』
思い出したわ……!
私の牛車を襲った盗賊が言っていた呼び名だ。確か……鬼灯道。頭領の名前が道楽。そして今、私を仏頂面で脅しているのが、あのとき頭領の後ろで松明を持っていた少年だった。名前は思い出せない。
「あなたは、盗賊ね……!」
「思い出したんだ。今さらそんな警戒したって遅いと思うよ」
「……っ」
彼の正体が分かると、先ほどよりももっと恐怖心が募ってしまった。見たところだいぶ小柄に見えるのに、力は想像以上に強すぎることが先ほどの無理やりな口封じで理解できた。私もそんなに馬鹿じゃないから、この力の差で逃げ切れるなんて思ってない。
でも、どうして私が捕えられてしまうの?
「わたくしを、どうするつもり?」
「知らない。俺はただ楽兄にあんたを連れてこいって言われたから、こうするまで。別にあんたを殺そうなんて思っていない」
盗賊の少年は、無表情に任務をこなしているだけだと言う。頭領に言われたからと、自分の意思で私をどうこうする気はないようで。
殺さないと聞いて安心したら、体の力が一気に抜けてしまった。
「俺の名前は
殺すことくらい簡単なんだからさ、と。伸弘と名乗った少年が私の体を横抱きから肩に担ぐように持ち直す。
「きゃ……っ」
一気に視界が逆転して、目まいがした。大納言家の姫として生まれて、こんな無造作で配慮の足らない扱いを受けたことのない私は、彼のなすがままになってしまう。
このままどこに連れていかれるのだろう。
あの道楽という頭領は、私を利用して何をしようとしているのだろう。
私がこんな状況になっていることを気付いている人は、いるの……?
「……っうぇ……ひ……っく」
命の危機を感じて、というよりも誰も助けにきてくれないかもしれないという寂しさに、私は涙がこみ上げてくるのを抑えきれなかった。
ちい姫と呼ばれて、親兄弟女房たちみんなに愛されてきた自覚がある。だからこそ、慣れない場所で一人で恐怖と闘うのは、ひ弱な私にはとても辛いことだった。私はこれまでどれほどの人に愛されてきたのか、どんなに安全が保障された中で暮らしてきたのか。
こんな目にあって初めて思い知る。
「浮、草……っ、ささら……姉さまぁ……っ」
「あーもう、背中でぐすぐすと泣かないでくれないかな? やりにくくて仕方ない。誰か来たらどうするのさ」
旧右大臣邸西の対の死角に逃げ込んだ伸弘は、苛立ちながら私の体を揺らし、泣きやむようにと歩くのをやめた。赤子をあやすが如く、その仕草だけは先ほどまでの扱いと違っていて、私は少し戸惑う。
「っ、う~……っ」
「……これだからちび姫とは関わりたくなかったのに」
驚くべきことに、大きくため息を吐いた伸弘がとった行動は、私を地面に下ろすことだった。砂利道の砂と石の感覚が直に足裏に伝わり、私は目を見開いて彼を見た。
まだ完璧に青年になりきれていない、幼さの残る彼の顔が不愉快そうに歪められている。その視線が私ではなく、通り過ぎた向こうを映していることに気付くのに、そう時間はかからなかった。
「あんたが泣くから、俺が面倒くさいことになったじゃないか」
「え……?」
その言葉に、私は振り向いた。強い風が厚い雲を流し、三日月がゆっくりと顔を出す。
「そこにいらっしゃるのは、一条大納言殿の姫君ではありませんか?」
藍の濃い二藍の衣装を身にまとった、先ほどまで舞台で演武を披露していた人がそこにいた。じっとこちらを見据えて、右手には愛用の朧太刀を握っている。いつでも構えられるように、抜き身で。
「柾路、さま……」
「姫君、なぜこのようなところに……っ」
柾路さまが私の姿を確かめようと駆け寄ろうとした。だが、隣に立っている少年が私を後ろ手に隠し、彼を制してしまう。
「衛門督、だっけ」
「……そなた、姫君をどうするつもりだ」
眉を訝しげに潜め、柾路さまは伸弘を睨む。部屋の裏路にいるはずのない、大納言家の姫。その姫を連れ出すかのように一緒にいた、素性の知れない狩衣を着た少年。
その光景は誰が見たって良いようには捉えられない。それに、命を狙われたことのある私だからこそ、柾路さまはこの状況をあまり好ましくは思っていないと思う。
「見てわかるでしょ。連れて行こうとしてるのさ」
「それは聞き捨てならない。姫君は高貴な身分のお方だ。そなたなどが穢してよいものではない」
盗賊に攫われたとなると、噂となって世間に知れ渡ってしまうだろう。そうなると、私の未来に
「姫君をこちらへ返してもらおうか。そうでなければ、そなたを傷つけることになると思うが」
「俺、結構強いよ。まぁ、さっきやってた舞の太刀筋見てたら、あんたも相当な使い手だってのは分かるけど」
と、そこまで言って伸弘は自分の左腰に手をやる。ただそれは空をかすめ、彼は首をかしげながら二、三回ほど何かを確かめるように自らの腰を叩いた。
「あー……佩きもの忘れてきた」
しまった、という風にする彼の腰には、柾路さまに応戦するための武器がない。それでも盗賊なの? と思わず立場を忘れて問いただしたくなるほど。きっと普段は太刀を忘れずに持ち歩いているのだろう。でも今はそれがなく、彼は事実武器を持っていない、無防備な生身の人間でしかない。
そのことが分かっても、柾路さまは決して警戒心を解こうとはしなかった。伸弘の身のこなしを見て、ただびとではないことが分かってしまったのだわ。構えた朧太刀は下げない。
「太刀がないんじゃ、こちらが不利なのは目に見えてる」
呟いた彼は、私のほうを振り向き、一度私を見る。
そして何を思ったか私の肩を掴んで、強い力で柾路さまのほうへと突き飛ばした。
「姫君……!」
それに応えるように、柾路さまは即時に私の体を抱きとめる。
「痛ぅ……!」
柾路さまが受け止めてくれたものの、突き飛ばされた拍子に右足首に激痛が走った。利き足である右足に力を込めると痛みが増すから、上手く自分の体を支えられない。
よろける私の体を不思議に思ったのか、柾路さまが腰に手を回して転倒を防いでくれた。
「姫君、どこか……?」
「あ、足が、っ」
きっと普段から動かないからだと、私の体の鈍さに叱咤したくなる。もっと動きに敏感で足に踏ん張れるだけの力があったなら、こんな怪我なんてしなかった。
だって、姫なんだからしょうがないじゃない。運動なんてできないんだから。
「よかったね、今日は見逃してあげる。……というより、俺が面倒くさくなっただけだけど。命拾いしたねちび姫」
「わ、わたくしなんか攫っても何も得なんてしないわよ! ってあんたの頭に伝えなさ……!」
じわじわと、骨に響くような痛みが走り、語尾が小さくなってしまった。
それに気付いた伸弘は首を傾げ、あぁ、と自分で納得する。
「右足が震えてる。ただ突き飛ばしただけなのに、足首ひねるなんてどんくさいなぁ。さすがちび姫」
「う……るさいわね!」
「姫君、あまり大声を出すと怪我に響きます。……そなた、もう用がないのなら即刻立ち去れ」
柾路さまが目の前の少年に鋭い視線を向けた。
そ、そうだった。
柾路さまが私を支えてくれていたのだった。それを忘れてはしたなく大声を出してしまうなんて、姫失格だわ。とても恥ずかしくなり、思わずうつむいてしまう。
「言われなくても帰るよ。すぐにまた会うことになりそうだけどね」
じゃりっ、と砂と草鞋の擦れ合う音がして、私が顔をあげたときには盗賊の少年の姿はどこにもなかった。
また会うことになりそう……ですって⁉
驚愕の発言に目まいがしそうになった私は、自然に体が傾いて力が抜けそうになる。
右足に力を入れるけど、痛みで踏ん張れそうにない。
「姫君、足をくじかれていらっしゃるでしょう。無理はいけません」
「へ、平気ですっ。これ、くら……ぃっ⁉」
私を案じた柾路さまが顔をのぞいてきたけど、恥ずかしくて顔が見れないから、思わず伸びてきた手を撥ね退けてしまう。でも柾路さまは放っておくどころか、すぐに私の両足を拾って抱きあげてしまった。
いきなりのことに、落ちないように柾路さまの首に手を回すしかなくて。私を心配する精悍な顔との距離は、息がかかるほど近い。
ううううそっ……! ま、柾路さまのお顔がこんなにも近くにあるなんて……っ!
「しっかりと捕まっていてくださいね。私が責任を持って部屋までお連れしますから」
よく通る低い声が、私の耳朶に届き、その耳を熱くさせる。私は何も言うことができなくて、ただぎゅっと柾路さまの肩にしがみついた。
先ほどの伸弘の抱き方とは、まったく違う。まるで人形を大事に扱うような、優しい腕。私に負担をかけないように、強く、でもひどく丁寧に力を込める。心の臓があまりにもうるさくて、激しくて、何かに呼応する。
どうしてそんなに、私を気にかけてくださるのだろう。
どうして、こんなに胸が張り裂けそうになるのだろう。
「柾路さま……」
「他にどこか痛みますか? 姫君」
「あ……いえ、なんでもないです」
その答えを知りたくて柾路さまを呼んでみたけれど、何と言ってよいか分からなくて。結局は答えが見つかりそうになかった。
柾路さまに抱かれながら歩いたのは、ほんの短い間。
けど私にとってはとても長く感じられて、高鳴る鼓動を悟られないように必死になって隠そうとしていた。足がずきずきと鼓動と同調するから、その速さは異常だった。
私に宛がわれた部屋まで柾路さまに送り届けてもらうと、案の定浮草が凄い顔をして、私を出迎える。泣きたいような、怒りたいような。
「姫さま! 今までどちらにおられたのですか⁉ ご心配申し上げたのですよ‼」
「ごめんなさい……浮草」
「またわたくしの言いつけを守らず、簀子まで出てしまったというところなのでしょう」
「う……まったくそのとおりです」
今さら隠そうとなんて思わない。だってあれは私が抜けだしたことによって起こってしまった事件なんだもの。つまり、私が大人しく御簾の内側から宴を楽しんでいれば、起こることもなかったこと。
「ちい姫……僕も心配したよ。この女房からいなくなったと聞いて驚いたんだから」
「あ、有明の宮さま……っ」
浮草の後ろに立ってたのは、この宴に招待してくれた有明の宮さま。
私の失踪事件で、もしかして宴を台無しにしてしまったのかしら……。
宮さまは私を見て、頭を撫でながらふわりと微笑む。
「でも無事で良かった。衛門督、ちい姫をどこに連れまわしていたの?」
「ち、違います有明の宮さま……っ!」
ふと有明の宮さまの視線が柾路さまに向けられてしまったので、私は慌てて柾路さまの前に立って、首を振る。そしたらまた右足が悲鳴を上げてしまって。
「……痛っ」
「姫君!」
「ちい姫?」
有明の宮さまが手を差し出すよりも、柾路さまのほうが早かった。わき腹に腕を入れられ、抱えあげられる。簡単に浮き上がる、私の体。
……なんだか、子どもみたい。
「足を怪我されているのですから、もう少し自覚なさならないと酷くなってしまいますよ」
「は、はい……っ」
素直に返事を返すと柾路さまが満足そうに笑って、私を下ろしてくれる。
でも肩にはまだそのぬくもりを残したまま。
「宮さま。柾路さまは、わたしくを助けて下さったのです」
「助けて? 何があったのか話してくれるかな、ちい姫」
「はい」
有明の宮さまに説明するために、部屋に入る。私と浮草、有明の宮さまと柾路さまで対面するように座り、私はことのあらましを話し始めた。
「盗賊……? この邸に、盗賊が忍び込んでいたって言うの?」
驚いた表情を隠せない宮さまは、呟くように訊いてきた。
「はい。彼は以前、わたくしを襲った盗賊の一味です。その時顔を見ているので覚えています」
「そんなまさか。この邸の警護は厳重で、それこそ内裏に劣らないくらいなんだけれど……」
不審な輩が入り込んでいたとあって、宮さまが難しそうに眉をひそめる。そこに柾路さまが、静かに口を開いた。
「警備が厳重であれば、忍び込むのは難しい。ともすれば内部に密偵がいたということでしょう。内側に外の者と通じた者がいれば、入るのは容易い。有明の宮さまだけではさすがに邸の者の管理は大変でしょうから」
宮さまの管轄内で起こったことなので責任がある、と諭すように言われ、宮さまの表情が曇ってゆく。柾路さまに反論があるようではなく、反省の色をした表情。
「そう、だね。ごめんねちい姫。僕がちゃんとしていればこんなことにはならなかったのに……」
「そんな、謝らないでください、宮さま。浮草の言いつけを守らなかったわたくしが悪いのですもの…っ」
「しかし姫君。今宵はもうこちらにとどまらないほうがよいでしょう」
頭を下げる宮さまにあたふたしていると、柾路さまが真摯な眼差しを私に向けてきた。
「また会うかも知れない、とあの輩はそう言っていました。だとすれば、こちらにいることは狙いやすいと言うことです。姫君の身を案じれば、こちらにとどまることはなさらなほうが良いかと……」
「そうだね、衛門督の言うとおりだ。これ以上僕の邸でちい姫を危険な目にあわせたくない」
「宮さま……」
普段から衛門督という官位をもって出仕している柾路さまは、さすが考えることが検非違使さながら。いかに私の身を護るか、ということを考えて発言してくださっている。
浮草がしきりに頷き、私に帰りましょうと目で言ってきて。
でも……。
ここで帰るとして、あの内裏からの帰り道みたいに今度は道楽という頭が出てきて襲われないとは限らない。
「ご安心ください、姫君。私が責任を持って一条大納言邸までお送りいたします。翔光にもこの件を話して、姫君を盗賊から護ることを相談しなければ」
私の不安を察したのか、柾路さまはお任せ下さいと頼もしい言葉で安心させてくれた。
柾路さまは兄さまのご友人だから、私を気にかけてくださるだけなのだろうけれど……。兄さまの妹でなければ、ここまで親身になってくださったかしら。
「ちい姫が帰る途中にまた襲われてはたまらない。僕からも、ちい姫を無事に送り届けるようにお願いしよう。ちい姫を頼んだよ、衛門督」
「もちろんです、有明の宮さま」
有明の宮さまも私のことを心配してくださって、気遣うように私の頭を撫でた。
「ごめんね、ちい姫」
「わ、わたくしが悪いのですから、宮さまがそこまで気にかける必要なんて……」
「違うよ。僕が護ってあげられなくてごめんねって言っているんだ」
高貴な宮さまに、護ってもらう、なんて。考えてもみなかったことに私は頭を横に振るしかなかった。
柾路さまも、宮さまも、とても優しい人。
恐怖と足首の痛みなんて、忘れてしまいそう。
「怪我をしたところが痛いのかな? いつもよりしおらしいちい姫は何だか変な気分だ」
「……そんなこと、ありません」
宮さまが私を元気付けようとして下さっていることが分かる。
「こんなことになってしまったけれど、また招待したら来てくれるかな」
「はい、もちろんです」
いつもは自分勝手で私が困る言動しかしない宮さま。でもこの時ばかりは、宮さまを否定する言葉が出てこなかった。
狙われているのは、私だから。宮さまをまきこみたくないもの。
「浮草とやら、そこの者と一緒に車を用意しておいで。君の主はもう帰るから、そうだね……車はここに着けて」
宮さまが視線で近くに侍ていた女房を示すと、浮草が「かしこまりました」と指示通りに部屋を出ていく。それを目で見送った私は、宮さまと柾路さまに向き合った。
「宮さま、柾路さま。どうしてここまでしてくださるのですか? なにも取り柄のないわたくしのために」
常々、疑問に思っていたこと。宮さまは私の質問に間を置くことなく、目尻を下げて微笑む。
「どうしてだと思う?」
疑問に、疑問で返されたらなんて答えたらよいのだろう。
私は首を傾げるだけでつい柾路さまに助けを求める視線を投げてしまう。それをくす、と軽く笑うだけで柾路さまも「どうしてでしょう?」と同じように首を傾げた。
「……分からないので、もうききません」
二人の男性の仕草が私をからかっているものだと理解すると、私は顔に熱が上がるのが分かって、二人から目を背けた。
「怒らないで、ちい姫。そなたが可愛いだけだから」
「それは、理由になりません」
「可愛らしい姫君のために、何かしたくなるのが男というものですよ、姫君」
「柾路さままで……」
牛車のがらがらという音が、次第に大きくなっていく。
目の前にいる二人の男性は、ただ私に優しく笑いかけていた。
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