2089/11/10 来る

 結局、二人がニューヨークに滞在したのはたったの一日だった。つぎはぎの吸血鬼を殺したあと、たまさかの魔は別の部屋に移動し、そこを拠点とした。陽光は途切れ途切れの雲の合間から、滅んだ大都市に降り注ぎ続けていた。

 新しい拠点を整えたたまさかの魔は、日が沈むまでの間ずっと眠っていた。簡素な寝床、眠る吸血鬼の枕元で、カズキはぼんやりと退屈な時間を過した。首だけでは何もできないし、五体が揃っていたところで滅んだこの世界で何をするのか。そもそも、吸血鬼に連れられての旅路そのものに意味など見出せるのか?

 カズキには分からなかった。

 そして、そんな自分を首だけ復活させて旅をする、たまさかの魔の考えは分かりたくもなかった。

 部屋が夜闇に包まれた頃、吸血鬼はようやく目を覚ました。

「おはようございます、カズキ」

 無視するカズキを気にする様子もなく笑って、頬に軽く口づける。

「昼間は邪魔が入りましたね。もう少し物資を探してから発ちましょうか」

 そうして11月10日の未明、たまさかの魔は容量が許す限りの物資を詰めたトランクを背中にくくりつけ、カズキの首を抱えてニューヨークを飛び立った。

「久しぶりの、いい月ですね」

 崩れたビルとビルの間を低空飛行しながら吸血鬼は言った。カズキは答えなかった。

 確かに、しばらく曇っていたから、久々の月夜だった。月は膨らみ始めていて、人工の照明が消えた今となってはいっそう明るかった。そのおかげで夜目の効かないカズキにも、ニューヨークの崩壊した様子は見えてしまった。

 おそらくは壮麗だったのであろう摩天楼は見る影もなく崩れ落ち、半ばから、あるいは根本から折れて倒れ、そしてそのままに朽ちていた。割れ残ったガラスは曇り、ぼんやりと月明かりを映している。

「エンパイアステートビル、見当たりませんね。崩れたんでしょうか」

 風を切って飛びながらたまさかの魔が言う。現代社会への興味が強かったのか、彼はやたらとそのあたりで拾った新聞やら、旅行用ガイドブックやらの残骸を読み漁っていた。

 やがて、妙に視界が開けた一角に出た。ビルの倒壊跡ではなく、元々何も建っていなかった場所らしい。燃え残った樹々が月明かりに照らし出されている。

 ああ、とたまさかの魔が嘆息した。

「ここはセントラルパークだったところ、でしょうね。見る影もありませんが」

「……随分でかい公園だな」

「かのメトロポリタン美術館もこの敷地内だったと聞きます。動物園や博物館もあったそうで――いやあ、健在の頃に来られなかったのは実に残念です」

 そう語る割には吸血鬼の声は弾んでいる。

「世界が滅んだ今でさえ、あなたと飛ぶのはこんなにも楽しいのに。もう少し早くこちらに戻れていたらどんなにかよかったでしょう! ええ、ええ、ないものねだりだということは理解していますけれど!」

 一人で勝手に感極まるたまさかの魔に、うんざりしてカズキは黙り込んだ。興味を示しこそすれ、こいつは根本では世界の有様などまるで意に介していないのだ。

 考えているのはカズキのことだけ。

(虫唾が走る)

 しかし、今のカズキは首だけで、できることといえばこれ以上吸血鬼を喜ばせないよう沈黙することだけだった。

 吸血鬼は飛び続けた。崩壊したニューヨークの上をぐるりと旋回し、ハドソン川を渡って、西へ。更にいくつかの川を越え、破壊され尽くした市街地を越え、燃え残った樹々がまばらに残る平原を飛んだ。

 そうして東の空が白み始めた頃、小さな町の残骸に降り立った。

「物資は十分手に入りましたし、これからカナダの方に飛びますかね。もう雪は降っているでしょうけれど、早めにアラスカに到着したいです。ちょっとのんびりしてしまいましたから、急がなければ」

 アリューシャン列島を通ればどうにか……などと続けて呟くのを聞いて、カズキは思わず口を開いていた。

「おい、今度は太平洋でも渡るつもりか」

 現代の知識に照らし合わせれば、そこはアラスカの先端から北太平洋のさらに北、ベーリング海に伸びる島々であるはずだった。何故そんなところを通るのか?

 カズキが久しぶりに喋ったのが嬉しかったのか、たまさかの魔は分かりやすく顔を輝かせた。

「ええ、ええ! それはです――ね」

 すとん、と。

 何の前触れもなく、たまさかの魔が膝をついた。その喉から声が漏れる。

「あ」

 間抜けな声だ。真っ先にカズキが思ったのはそれだった。

 トランクがたまさかの魔の手元から落ち、大きな音を立てた。体勢を崩しながらも吸血鬼は、カズキの首だけは落とさなかった。支えにでもするかのように、しっかと胸に抱えて離さず、そうしてどうにか膝立ちのまま、倒れずに踏みとどまってみせた。

 しばらくの間、たまさかの魔は微動だにしなかった。カズキはやることもないまま吸血鬼に抱き竦められて、ひどく不愉快な時間を過ごすことを余儀なくされた。

「ごめんなさい、カズキ」

 掠れた声で言って、たまさかの魔がようやくカズキの首を解放した。顔の高さまで持ち上げて、笑う。

「ただの立ちくらみです。今日の分の血、飲んでいませんでしたし、ね」

「……」

「あなたは何も、心配しなくて、いいですよ」

 そう言って、吸血鬼はカズキの頬に口づけた。その額には汗が浮いていたが、涼しい表情は崩さなかった。

「さ、今日の寝床を探しましょう」

 たまさかの魔は明るい声で言って立ち上がった。落としたトランクを拾い上げ、崩れた町に向かって歩いていく。日はまだ昇ってはいないが、彼は明らかに急いでいた。

(俺は)

 カズキは声に出さずに呟いた。

(心配なんかしちゃいない。お前のことなんか)

 そう、タイムリミットが近づいていようが何だろうが、カズキにはどうでもいいことだった。一ヶ月でも構わないと願ったのは、他でもないたまさかの魔なのだから。

 問題は、どう終わるか、ということだった。

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