第37話 裾持ちの嬉児、園剋を怒らせる



 荘興の言葉に、園剋は執拗に食い下がった。


「そのように言葉巧みに誤魔化されても。義兄上を疑うわけではないが、はいそうですかと、引き下がるのは難しい。荘本家の宗主という立場の義兄上が、そのような子ども騙しの物語で、ここに居並ぶ皆をたばかろうとするとは、なんとも情けない……」


 だが、彼は最後まで言葉を続けることができなかった。


 着飾った白い髪の少女が姿を現した。これもまた可愛らしく装った幼い女の子を裾持ちに従えている。荘康と園格の緊迫したやりとりを忘れて、皆の視線は目の前の少女に移った。この世に無垢という言葉があるとすれば、いま目の前を通り過ぎる光景がそうであろう。


 少女はまったく周囲を気にすることなく、真直ぐに歩を進める。立ち上がり上座から降りた荘興は自分のもと居た席を指し示した。


「白麗さま、どうぞこちらへ」


 しかし、荘興が待つ場所にまであと少しというところで、少女はたどり着くことなく立ち止まった。一顧だにせず前を通り過ぎようとした少女の長い着物の裾を、手を伸ばした園剋が無作法にも掴んだのだ。


「これはこれは、高貴な白麗さまとやら。確かに、人の目を欺くほどに、美しい姿形をなさってはおられるが……。この園剋の目をだますことは出来ませんぞ。知っておられるかな? おれは人ではなく、どうやら蛇であるらしいのでな。蛇であるからにして、幸か不幸か、おなごの美しさに目がくらむこともない」


 そう言いつつ、瞳孔が縦に細長いと噂されている目で園剋は満座を睨む。


 睨まれて、客人たちは少女に向けていた目を蛙のごとく伏せた。さからって彼に睨まれて碌なことはない。ましてや噛みつかれでもしようものなら、その口の中に隠し持った牙で毒を注がれる。


「その白い髪はどのようにして色を抜いているのか、教えて欲しいものだ。ああ、そうであったな。喋れぬとか。それに記憶まですぐに薄れるとか。なんとまあ、人をたばかるのに都合のよい嘘を、次から次と、その可愛らしいお顔で考えつくものだ……」


 着物の裾を掴んだ男の手を不思議そうに見つめていた少女が、ゆるりとその手の持ち主に視線を移した。


 目が合ったと同時に、園剋のよく動く口が止まった。


 見上げていた少女の金茶色に輝く眼が、そのとき、暗く陰ったように彼は思った。少女が顔の向きを変えたことで、庭より差す初春の陽の光が遮られたのだろう。しかし、目があった瞬間、酒で温まっているはずの彼の体が、冷たい水を浴びせられたようにぞくりとしたのはなぜか。


 一瞬だが、毒蛇がひるんだ。そしてまた荘康も少女を侮辱されたままで引き下がることはないだろう。次に何が起きるのか。皆が同時に固唾を飲みこんだ時……。


 バシッ!

 肉が肉を打つ乾いた音が響きわたった。


「おじちゃん、あたちのおしごとのじゃまをしないで! おててをどけてよ!」


 荘興が座を収める言葉を、そして園剋が次に続く悪口を思いつく前に、白麗の着物の裾を掴んだままの男の手を、幼い嬉児が叩いたのだ。


 この日の白麗の着物の裾持ちという大役のために、毎日、姉の梨佳に教えられて嬉児は何度も練習を重ねた。そしてまたこの日のために、慶央一の老舗といわれる彩楽堂で誂えてもらった薄桃色の地に小花刺繡を施した新しい着物を着ていた。嬉児にとっては、生まれて初めて着る艶やかな絹の着物だ。化粧だってしてもらった。鏡に映った自分の姿を見て、我ながらに可愛いと思った。


 それがあと数歩で大役を成し遂げようとした時、変な男が白麗お姉ちゃまの着物の裾を掴み、彼女には理解できない変なことをまくし立てている。許せるわけがない。


 園剋の我を忘れた怒声が部屋に響き渡る。

「このガキが! おまえはいま、自分が何をしたのかわかっているのか!」




 その一部始終を、座敷から離れた廊下の隅で太った体を縮こまらせ座って見守っていた萬姜だった。驚きで立ち上がろうとしたが、腰が抜けて立ち上がれなかったのは幸いだった。女主人と可愛いわが子を守ることしか頭にない彼女が飛び出していたら、ことはもっと悲惨なことになっていただろう。


「き、き、嬉児! な、な、なんてことを!」


 叫んだつもりだったが、恐怖で声にならなかったのも幸いだった。口から出たのは「ひぃぃ……」という押し殺した悲鳴だけだった。それでも這って嬉児の元に行こうとした母を、梨佳が後ろから抱きしめた。いつも冷静に振舞う彼女は静かに言った。


「お母さま、いまはまず、落ち着いてください」


 二人の横で立って部屋の様子を見ていた允陶もまた囁き声で言った。

「そうだ、萬姜、梨佳の言うとおりだ。大丈夫だ。ここは宗主にお任せしよう」


 しかし、そう言う彼の足も一歩前に踏み出ていた。「大丈夫だ」と言ったものの、宗主の言葉でもこの場が収まらなければ、彼は飛び出して園剋と嬉児の間に立ちはだかるつもりだ。


 もしそれで嬉児の代わりに命を失うとしても、それが家宰の仕事としてのけじめだ。そのために彼は家宰になった日より、毎朝、冷水を浴びて身を清めて新しい下着を身につけ、後れ毛の一本もないように髪を結う。


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