幽霊とみかんゼリー
しろいなみ
幽霊とみかんゼリー
あ、これ熱あるかも。
そう思い、なんとなく額に掌を当ててみると、やっぱり普段よりかは熱いような気がした。額の内側にカイロでも仕込んであるかのような、じんわりとした熱が掌を介してズキズキ痛む脳へと伝わってくる。
あちらこちらで口々に話す声や室内を慌ただしく行き交う無数の足音、近くでそれが聞こえる度に舞い上がる微細な埃が頭痛を悪化させていることは確かだった。マスクの下で痰が絡んだ咳をしても、隣の席の同僚でさえ気が付いていない様子。同僚の山口は時々ぼそっと「あーちがう」だの「うわマジか……」だのと呟きながら物凄い速さでキーボードに指を走らせ、近いうちに破壊しそうな勢いでエンターキーを強く叩くと、ふうと息を吐きながら椅子の背もたれに深く凭れかかる。
山口だけでなく、このオフィス内にいる誰もが目の前の仕事を捌くことに必死で、当たり前だが俺のことなど気にしていなかった。気にする必要もなかった。
なに、熱があるといってもどうせ大したことはないだろう。
社会人になって一人暮らしを始めてから早五年。二年前に大規模なプロジェクトが始まってからというもの残業続きで、朝九時に出社して家に帰り着くのは大体夜の八時か九時。翌日に会議や打ち合わせがある場合は帰ってからも仕事をすることがあり、そうなると当然自炊などできるはずがなく、夕食はコンビニ弁当が七割。残り三割がカップ麺か弁当屋。昼は社内食堂か会社近くの定食屋、朝は何も食べないかコーヒーを一杯飲む程度。休日は大体昼過ぎまで寝て、その後はアニメや映画を観たりなどして一日家でダラダラ過ごす。
そんな生活を続けてきたが、なにもできなくなるほど体調を崩したことは一度もない。熱が出たとしても微熱で、薬を飲まなくても三日、四日くらいすれば自然と治まっていた。奇跡的なことに健康診断に引っ掛かったこともない。小、中、高と野球を続けてきたことが大きいのかもしれない……といっても、ここ数年は運動など一切していないが。
だから、今回も自然と治るはずだ。そう思っていたのだが、時間が経つほど頭痛と寒気は酷くなるばかり。画面の細かい文字を目で追うことさえ難しく、視界が白くかすみ、冬でもないのに指先がかじかんだような感じがする。
げほっ、げほんっ。
「……大丈夫?」
山口がキーボードを叩く手を止め、変なものでも見るような視線をこちらに向けた。
「ああ……」
「風邪か?なんか最近流行ってるよなぁ。事務の子も体調悪くて一人休んでるらしいし。熱は?」
「微熱くらい、かな」
山口にはそう言ったが、自分の体温が既に微熱とは呼べないところまで達していることを俺は感じ取っていた。
「ふうん。まあ無理するなよ。あ、トローチ要るか?」
山口はそう言うと、きったない引き出しの中からトローチを一錠取り出してくれた。
「ほい」
「……さんきゅ」
小、中、高と所属していた野球部で、細菌などには屈しない体育会系の精神を鍛え上げられた俺ではあるが、気合いでその日の業務を乗り切れるほどタフネスではなかった。正午を迎え、同僚たちが食堂やコンビニへ行くために次々とオフィスを後にする中、俺は意を決して部長の元へと向かった。
「部長、今よろしいですか」
「んー?」
壮年期も終わりに近づきつつある部長は、穏やかで話が通じやすいことから社内での評判が良い。俺自身もなにかとお世話になっているからこそ、プロジェクトの佳境であるこの時期に早退することが申し訳なく感じてしまい、やっぱり早退するのをやめるべきかと一瞬考える。
しかし、シーズンではないもののインフルエンザなどの感染症に罹っている可能性もある。インフルエンザであろうがなかろうが、これ以上ウイルスをばらまかない為にも今日は早めに早退した方がいいはずだ。
「あの、朝から体調が悪くて熱があるみたいで……申し訳ないですが今日は上がらせていただいてもよろしいですか?」
部長は眼鏡の奥の目を瞬かせ、驚いた様子で俺を見上げた。
「大丈夫?風邪?……わかった。今日はもういいから、ちゃんと病院行きなよ」
「すみません。ありがとうございます」
「明日もキツそうだったら無理しなくていいから。お大事に」
「はい。ありがとうございます。それでは、お先に失礼します」
部長へ向かって一礼した後、自席へ戻って鞄に資料やらノートパソコンやらの荷物を詰める。
「お、帰んの?」
コンビニ弁当のどでかいカツを割り箸で持ち上げながら、山口がスマホから俺へと視線を移す。
「ああ……悪いがあと頼むわ」
「ういっすー。お大事にー」
「どうもー。そんじゃお疲れ」
プロジェクトの佳境にも関わらず体調を崩したのは俺の責任であるのに、文句や皮肉を言われるどころか労わりの言葉を受けて帰されるなんて、残業が多いとはいえ、この会社で働けることを有難いと思うべきなのかもしれない。エレベーターで一階へと下りながら、ぼんやりとした頭でそんなことを考える俺は、もう手遅れなほどに社会の毒に絡め捕られているのかもなぁ。
休憩時間がそろそろ終わりに近づく頃、片手にドリンクのカップを持って談笑しながら歩くOLたちや、電話をしながら慌ただしくどこかへ向かうスーツ姿の男性の姿を目に留めながら俺はビルを後にした。普段なら、他人のことなんて殆ど気にもしないのに。
昔から「おまえってほんと人に興味が無いよな」と、ことあるごとに言われてきた。興味が無いわけじゃない。俺だって自分に好意を抱いてくれる人のことはよく知りたいと思う。そうじゃないその他大勢のことはどうでもいいってだけであって。だけどそれって普通のことじゃないのか?寧ろどうしてみんなが他人の噂話や芸能界のゴシップにそんなに夢中になれるのか不思議だ。
……とまあ、高二の時くらいまではそんなふうに思っていたけれど、当時付き合っていた彼女に「好きに温度差があるのが辛い」と言われて振られてからは、それもよくわからなくなった。「好き」だと思っている人でも、実際はそこまで興味が無いのかもしれない。そう考えたら、自分が物凄く薄情な血も涙もない人間のように思われてきて、ちょっと哀しくなる。
けどさ、好きの温度差ってなに。当時の俺は当然元カノに聞いたが、元カノの解答が俺にとっては哲学書と同じくらい難解であったことしか覚えていない。
だけどまあ要するに、当時の俺は俺なりに元カノのことが好きだったけど、元カノに貰った分の「好き」を、その時の俺は返せていなかったということなのだろう。
空が青い時間帯に電車に乗って家へ帰ることが違和感でしかなく、ふわふわ……いや、クラクラ?と、とにかくまあ落ち着かない気持ちになる。自分はなにも間違ったことはしていないはずなのに、間違ったことをしているようなそんな気持ち。だから会社を後にした時、周囲を歩く人々の姿に自然と目が行った。
病院へ行こうにも、今の時間帯はどこも診察時間外だろう。
一旦家へ帰ることにしたが、一度帰ってしまったらもう病院へ行く気は失せそうだ。
駅前のコンビニに立ち寄ってスポーツドリンクや味噌汁、おにぎり、みかんゼリーなどを適当に買っていく。このコンビニは夕食を調達する為に週に三回は訪れているが、こんな明るい時間帯に来ることはない。店内のスタッフも知らない顔ばかりだ。
手に提げているビニール袋がやたら重く感じる平日の昼下がり。などと詩的な(詩的か?)ことを考える。会社を辞めて詩人にでもなろうかしら、と熱に浮かされた頭で余計なことを思いつつ、夢の中を歩いているような半ば放心したような状態で、気付けば我が家へ帰り着いていた。
一見すると新築と間違われそうな外観だが実際は築四十年を超えており、俺が住み始める一年前に改築したらしい。外塀のプレートはモノクロでスタイリッシュだが、そこには「天国荘」と行書体で刻まれている。「てんごくそう」ではなく「あまくにそう」。住み心地は天国とまではいかないが、月に一度くらいの頻度でネットが途切れることと隣の部屋の笑い声がたまにうるさいことを除いては特に不便は感じていない。
俺の部屋は二階の角部屋だが、他の部屋より若干家賃が安い。その理由は、昔この部屋で女の人が孤独死したからだそうだ。
孤独死。声には出さずにつぶやいてみる。それだけでちょっと気が重くなるワードだ。今日みたいな体調が悪い日は特に。
俺は幽霊の存在を信じる派だが、生まれてこの方霊的なものが見えたことは一度もない。今の家に住み始めてからも、体調が悪いとき以外で気分が悪くなるとか寒気がするとか、そういったことも一度もない。
……ん?だけど、そもそも霊の所為で気分が悪くなったり寒気がしているってどうしてわかるんだ?
なんにせよ、できればこのまま一生、幽霊なんてものとは関わり合いになりたくない。テレビを点けたらたまたまやってた心霊特番やホラー映画だけで十分だ。
*
汗を洗い流す為にシャワーを浴びて、Tシャツと半ズボンに着替える。それだけで、今関わっているプロジェクト並みに大きな任務を完遂したようなやり切った気分になる。
コンビニで買ったスポーツドリンクを飲むと身体の熱がほんの少しだけ引いていくような気がしたが、強烈な頭痛と悪寒は止まらない。またすぐに全身が燃えているかのように熱くなり、喉が焼けるように痛む。スポーツドリンクはあっという間に三分の一ほどの量にまで減ってしまった。二本買っといてよかった。
このままベットに直行したい気分だが、寝る前に薬を飲んでおこうと思い立つ。たしか、風邪薬がまだ残っていたはずだ。
鉛のように重い身体を奮い立たせ、引き出しから薬箱を取り出す。胃薬に点鼻薬、酔い止め、皮膚科で処方してもらった塗り薬はあるが、肝心の風邪薬がどうしてか見当たらない。薬箱の中身を掻き分けて、一錠だけでも残っていないかと探したが無かった。
無いとわかった途端にあらゆることがどうでもよくなり、倒れ込むようにしてベッドの上に横になる。
クソが。仕事でストレスが溜まった日など、日頃から天国荘で口汚く悪態を吐きまくる俺である。声に出しはしない。独り言は言わない主義だ。心の中でちょっと悪態を吐くくらいなら、いるかわからない神様も多目に見てくれるだろう。
部屋の電灯を消していても、ベランダから差し込む光のおかげで室内はまだ明るい。外から「お兄ちゃん、待って!」と叫ぶ子供の声が聞こえる。その後お兄ちゃんと思しき少年の声が聞こえたが、なにを言ったのかは聞き取れなかった。
ベランダの戸は閉めているはずなのに、まるで風が吹いたかのようにレースカーテンがふわりと舞い上がる。
子供の頃は熱が出たらちょっと嬉しかった。病院や苦い薬を飲むのは大嫌いだったけど、母親が温かいうどんを作ってくれたり、フルーツゼリーを買って来てくれたり、学校が終わった後に仲の良い友達がお見舞いに来てくれることが嬉しくて、滅多に熱が出ない自分の身体が恨めしくさえ感じていた。
大人になって、病院や苦い薬はなんとも思わなくなったけど、その代わりに熱が出た時のどこか背徳的な喜びや特別感もなくなってしまった。こういう時に連絡したら駆けつけてくれるような友達や恋人は残念ながらいない。友達と呼べる人間は何人かいるけれど、体調を崩したくらいで連絡するのは気が引けてしまう。
会った時に「こないだ熱出て動けなくてさ」と話せば、「見舞いに行ってやったのに」と笑う間柄ではあるのだが、本当に行っていいのか、はたまた本当に来てくれるのかわからない。
子供の頃は熱が出たら自分が大切にされていることをひしひしと感じたけれど、大人になったら孤独を感じる。
そういえば、昔この部屋で孤独死した女の人がいるって聞いたが、もしかしたらその人も、最期の時には同じようなことを考えていたのかもしれない。
自分が居る場所が現実なのか夢なのかよくわからない、ふわふわとした感覚の中で目を覚ました。随分と長い間眠ったような気がするが、頭痛はあまり緩和されておらず、身体が鉛のように重いことも変わらない。そういえば体温も計らずに寝てしまったが、このままでは明日も出社できそうにないな。
そこでようやく違和感に気が付く。
さっきから扉の向こうでカチャカチャと物音がするが、何の音だ……?
食器が擦れ合うような音に混じって、水道の蛇口を捻る音、水の流れる音が聞こえる。それに、出汁の香りのようないい匂いが漂ってくる。
誰かが何かを調理していることは確かだ。しかし、母親は遠方に住んでいるので連絡も寄越さずに来るはずがないし、男友達の中に台所仕事ができそうな者はいない。体調を崩した時に看病に来てくれる恋人は、自分にとっては夢の中の存在だ。
そこでようやく合点がいく。そうか。これはまだ夢の中なのだ。だとしたらなかなか悪くない夢だ。体調を崩した時に見舞いに来て、温かい食べ物を作ってくれる健気な恋人。たとえ夢の中であったとしても、弱っている時に自分のことを大切に思ってくれる人が近くに居てくれたら嬉しいものだ。
その時、寝室とキッチンを隔てる扉がゆっくりと開かれる音がした。寝ている俺を気遣ってか、大きな音を立てないように一つ一つの動作を慎重に行っている気配が感じられる。
ローテーブルに何かをことりと置く音がした。
仰向けになって瞼を閉じていた俺は、開いているか開いていないかわからない程度に薄っすらと瞼を開く。
そこには見知らぬ女性がいた。
年齢は二十代前半か半ばくらいだろうか。肩までの長さの黒髪にぱっちりとした二つの瞳を持つ、どこか儚げであどけない雰囲気の人だ。
ほう。さすがは夢の中の恋人なだけあって可憐だ。色が白くて少々心配になるほど華奢で、まるで高原に咲く一輪の白い花のようだ。
そんなことを思いながら薄眼で夢幻の彼女の姿を眺めていた俺は、ここでようやくあることに気が付く。その瞬間、一気に全身から血の気が引いて目が覚めた……かのように思われたが、夢の世界は幕を下ろさず、それどころか薄眼で彼女を見ていた時よりも鮮烈な色味を帯びて眼前に迫り来る。
「おはようございます。体調はいかがですか?」
鈴の音のような声で彼女が言う。
俺は初めて目にした幽霊を前に、口をパクパクとさせながらままならぬ発声をいつまでも続けていた。
彼女は小さな口元に手を当て、おかしそうに笑う。
「ふふ、初めて私を見た人のほとんどはそういう反応をされます。貴方がこの部屋で暮らし始めたのは……たしか、五年ほど前でしたよね。改築して一年後くらいのことだったと記憶していますから。貴方はなかなか丈夫な……あ、これは誉め言葉なんですが、丈夫な方のようなので、ご挨拶が随分と遅れてしまいました。私は以前この部屋に住んでいた者です。申し訳ないのですが訳あって名乗ることはできません。そういう決まりなのです。突然現れて、驚かせてしまってごめんなさい。」
ベッドの上で口をパクパクしている俺を前に、幽霊は一息に喋った。随分と慇懃な幽霊がいたものだ。幽霊と言葉を交わすと取り憑かれる、なんて話を耳にしたことがあるが、そのことを思い出したのは体調が回復した後のことだった。
「これはどうもご丁寧に……」
幽霊はにっこりと微笑んだ。
「お腹は空いていますか?食欲がなくても、少しくらいは食事を取った方が良いですよ。雑炊を作ったので、よかったら食べてください。あ、部屋の明かりを点けますね」
その瞬間、誰もリモコンには触れていないのに部屋の明かりがぱっと灯った。
鉛のような気怠い身体をゆっくりと起こし、ベッドを下りて座椅子へと移動する。テーブルの上にはほかほかと湯気を昇らせる、見るからに優しい味がしそうな卵粥が用意されていた。冷蔵庫の中にあったのだろうか。木製のお椀に入れられたお粥には小葱と刻みのりまでトッピングされている。
「あ、恐れながら冷蔵庫の中の食材を勝手に使わせていただきました。もう少しで賞味期限も切れそうだったので」
幽霊には、側にいる人間の思考を読む能力でもあるのだろうか。いや、そんな話は一度も聞いたことがない。
「いただきます……」
正直言って食欲はあまりない。それに、幽霊が作った料理はいろんな意味で怖い。だけどそれ以上に、目の前でほかほかと湯気を立ち昇らせる卵粥が懐かしく感じられてしまい、どうしても食べないでおくことはできなかった。……いや、というよりも、この時の俺に「食欲がない」だとか「幽霊の作った料理なんて危険だ」なんて考えは不思議と湧いてこなかった。
スプーンで少量のお粥を掬って口の中に入れると、予想通りの優しい味が口の中いっぱいに広がった。けれどそれだけじゃない。これを食べている間、子供の頃に病気になって看病してもらった時のことや、誰かの愛情を無意識に受け取っていた時の思い出が、フィルムのように次々と頭の中に浮かび上がった。
最初の一口を掬った時は、食欲がないので完食はできないだろうと思っていたが、気付いた時にはお椀は綺麗に空っぽになっていた。
俺はお粥があまり好きではない。身体に良いことはわかるが、なんだか味がしないというか……体調を崩した時も、お粥よりかはうどんやお茶漬けなどを好んで食べていた。
けれど幽霊が作ったこの卵粥は、味はいたって普通の卵粥であるもの、不思議と心に沁み入るものがある。もしかしたら俺は既に、この女幽霊に取り憑かれてしまったのだろうか。
「……ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした」
「なあ、きみは一体なんだ。幽霊だということはわかるが、病人を看病する幽霊なんて聞いたことがない。それに、お粥を作る幽霊も。」
幽霊は食器を片付けようとしていた手を止めて自身の膝の上に乗せると、すこし寂しそうな顔をした。
「……わたし、昔この部屋で死んだんです。大学院生の時でした。風邪をこじらせて、そこから肺炎になって、あまりにも咳が酷くて息ができなくなりました。電話で助けを呼ぼうにも、喉から湧き上がってくるのは北風の吹き荒ぶような音ばかりで。当然、お見舞いに来てくれるような人もいません。両親は遠方の実家で暮らしていますし、お恥ずかしい話ですがわたしには友達と呼べるような人がいなかったので。」
幽霊は膝の上に置かれた自分の手に話しかけるように視線を落としていたが、ここでようやく視線を上げ、黒い目で真っ直ぐに俺を見た。
「わたし、それまで勉強しかしてこなくって。友達なんていらないと思っていたんです。稼ぎがあれば一人でも生きていけるって。可愛くないでしょう?」
そう言って笑う幽霊のことを俺はほんの少し可愛いと思ったが、「可愛くないな」と言った。
「ちょっと長くなるんですけど、聞いてもらっていいですか?あ、ベッドに横になられますか?」
「いや、寝過ぎると余計に頭が痛くなるからこのままでいい。それで話は聞くけど、なんの話なんだ?」
「わたしが死んだ時の話です。」
「それは随分とヘビーな話だな。」
俺が苦笑すると、幽霊も笑った。その後すぐ、蝋燭の火が消えるみたいに表情が切なげに曇った。
「……家族でもないのに看病したりされたりする関係って、どうしたら築いていけるんでしょうね。わたし死ぬ時、地獄みたいな咳をして、涙目になりながら思いました。淋しいなあって。淋しくて淋しくて、この世界に独りぼっちになったような気がして。咳はマシになるどころかどんどん酷くなって、自分一人では水を飲むことも助けを呼ぶこともできなくて、なんだか自分が人間から化物に生まれ変わろうとしているみたいで、怖くて、このまま死んでしまいたいって思いました。こんなにも孤独なら生きている意味なんてなかったんです。今まで必死に勉強してきたことだって、それを学ぶために生きてきたのかと言われたらそういうわけでもなくて。結局それは、自分が孤独でさえない『独りぼっち』なんだっていうことに気付かないようにするための局所麻酔薬みたいなものだったんです。麻酔が解けたら、今まで気付かずにいた分の、死にたくなるほどの淋しさが一気に押し寄せてきて、気付いたら死んでたんです。」
幽霊の言っていることは、なんとなくわかるような気がした。もし俺が同じように風邪をこじらせて肺炎になり、咳で呼吸ができないまま死んでしまいそうになったとしたら、「ああ、自分はなんて独りぼっちなんだろう」と思いながら人生を諦めてしまうかもしれない。
「幽霊になったっていうことは、生前に独りぼっちだった未練が残っていたっていうことか?」
「そうですね……そうかもしれません。ただ、自分でも何が未練でどうしたら消えられるのかはわからないんです。」
なるほど。幽霊もなかなかに難儀だな。生きていた時も孤独で、死んでからも孤独で、じゃあどうすれば救われるんだっていう話だ。幽霊がいるんだから神様もいるのかもしれないが、まったく、神様ってやつはやっぱり適当な性分らしい。
「……なあ、死んでからもずっとこの部屋にいるのか?今までも出てこなかったってだけで、俺の近くに居たのか?」
「ええ。わたしはこの部屋の外には出られませんから。幽霊は常に暇を持て余しているので、退屈凌ぎに人間を驚かせたりする者も多いと聞きますが、私はそういうのは好きじゃありません。……生きていた時、わたしも幽霊は怖かったですから。」
「ぷっ」
「ちょっとそこ!なに笑ってるんですか!今まで気を遣ってあげていたのに!これからは髪洗ってる時とかに出ますよ!あと心霊特集見てる時とか!」
幽霊の反応が面白くて、体調が悪いのに俺は笑いが止まらなかった。
「ああ、まあ別に、出てきてくれてもいいけどな。あ、さすがに風呂は覗かないでもらいたいが」
そう言うと、幽霊の顔はみるみるうちに真っ赤になった。幽霊でも赤くなったりするんだな。
「なっ!誰が覗きますか!もう絶対にびっくりさせてやりますから!腰抜かしたら死ぬほど笑ってあげます!」
「あはは、もう死んでるけどな。」
小一時間ほど幽霊と他愛もないやり取りを交わした後、少し申し訳なさそうな顔をした幽霊に気遣われながら俺は再び眠りについた。
翌朝、アラームの音で目を覚ますと、部屋に幽霊の姿はなく、ほんの少しだけがっかりする。たくさん寝たおかげか頭痛と悪寒は多少マシになったものの、体温計で熱を計ると三十七度五分あったので、会社に欠勤の連絡を入れた。
午前中に近所の内科へ行くと、なんとコロナウイルスに感染していたことが判明する。プロジェクトの大事な時に自分の所為で社内にパンデミックを巻き起こしていたらどうしようと胃が痛くなる思いがしたが、部長に連絡したところ、俺よりも先に事務の女の子がコロナに罹っていたらしい。事務の子には申し訳ないが、少しだけほっとした。
家に帰ると、部屋に幽霊がいた。座椅子に座ればいいものを、幽霊は座布団もなしにカーペットの上に座っていた。と言っても幽霊には足がないので「座る」という表現も適切ではないかもしれないが。
「あ、おかえりなさい」
「……ただいま」
幽霊に気を許さない方がいい。仲良くなってしまったら、なにか良くないことが起きるかもしれない。
けれど、独りぼっちで死んでしまったこの幽霊のことを、どうやって突き放せばいいのか俺にはわからなかった。
「病院、どうでしたか?」
「コロナだって」
「あ!それってちょっと前に大騒ぎになってたやつでしょう!ちょっと時代遅れなんじゃないですか?」
まったく、減らず口の多い幽霊だ。
「うっさいなー。あ、暇してるならまた何か作ってよ。冷蔵庫にまだ卵とかあったはずだから。」
途端に幽霊は申し訳なさそうな顔をして、しゅんと肩を落とした。
「すみません……今日は調子悪くて……物に触れない日みたいで……作れないんです……」
幽霊が右手でテーブルに触れようとすると、その手はテーブルをすり抜けた。
「逆に『触れる日』があるんだな。昨日はそこには触れなかったけど、考えてみたらそっちの方が変だよな。幽霊なのに。」
「はい……すみません……」
涙目になりながらそう何度も謝られると、会社で気性の荒い上司に責め立てられている後輩を見ているようで居た堪れなくなる。
「いや、そんな気にすることないって。幽霊なんだから出来なくて当たり前だろ。」
「はい……」
幽霊の肩に触れようとしてはたとその手を止める。
……ん?なんで俺は幽霊を励ましているんだ?
熱は三日ほどで平熱まで下がり、金曜日には咳は多少出るものの体調はほとんど回復した。
熱が下がって以降、俺は幽霊の姿を一度も見ていない。
俺に見えていないだけで今も部屋の中にいるのかもしれないが、どうして彼女が出てこなくなったのかはわからない。なにか気に障るようなことでも言ったのか、物に触れないことを気にしているのか、はたまた俺を気遣ってのことなのか……
なんにせよ、見えない誰かが自分の部屋に居ると思うと微妙に落ち着かない。引っ越すほどのことでもないし、一番理想的なのは、彼女のためにも俺自身のためにも成仏してもらえたらいいのだが……
そこで俺はあることを思い立ち、近所のスーパーへ行ってスポーツドリンクやら葱やら果物入りのゼリーやら、風邪に効きそうな食べ物を買ってきた。
そして日曜日の昼。部屋の座椅子に腰掛けながら、俺は自分以外に誰も存在しない「はず」の空間に向かって呼びかけた。
「なあ。いるんだろ?」
数秒の間があり、なにも無かったはずの空間から幽霊が姿を現した。ほんの一瞬にも満たない時間、意識が薄れたような感覚があり、気付けば目の前にあの小生意気な幽霊の姿があったのだ。
幽霊は「なんで呼ばれたのかわからない」とでも言いたげな表情で、こちらをじっと見ている。
「なあ。おまえはどうしたら自分が消えられるのか──成仏できるのかわからないって前に言ってたよな?」
「はい。それはたしかに言いましたが……?」
「成仏できるならしたいか?」
幽霊は怪訝な表情を浮かべた。
「それはしたいですけど……でも、どうすればいいのか自分でもわからないってこの前も言ったと思いますが……」
「わかった。それじゃあ、ベッドの上で寝ろ」
昼時の静寂があった。画面が一時停止したかのように動かなくなった幽霊が、数秒後にはみるみるうちに顔を真っ赤にさせ、自らの華奢な身体を抱くようにして悲鳴に近い声を上げた。
「なっ……は、はああああ!?なに考えてるんですか!?わたしは幽霊ですよ!?信じられません!最低過ぎます!わたしを襲おうだなんて……っ!」
「アホか。そんなワケねーだろ。別に横にならなくてもいい。俺は今から、おまえを看病したいんだ。」
幽霊は小さな眉間にこれでもかと言うほど皺を寄せ、汚いものでも見るような視線を俺に向けながら言った。
「ますます意味がわからないんですが……」
「だから、おまえは昔この部屋で孤独死してしまったわけだろ?看病されたら成仏しないかなーなんて……」
幽霊はぷっと吹き出し、呆れた様子で笑った。
「ふふっ、単純過ぎますよ……まあ、そういうことなら看病されてみてもいいですよ?」
幽霊は見えない足で泳ぐようにしてベッドに横になると、「ほら、早く看病してください?」と言って生意気な視線を寄越した。
コイツ……!すぐ調子に乗りやがる。こうなったら意地でも成仏させてやる。
何をしてほしいと聞いたらお粥が食べたいと言ったので、俺はお粥を作ることになった。お粥なんて作ったことがないが、検索すればレシピはいくらでも出てくる。
「ほら、お粥できたぞ」
テーブルの上のお粥を、幽霊はベッドの上から恨めしそうに見つめた。
「……食べさせてください。触れないから。」
「あー、はいはい。」
まったく、世話の焼ける幽霊だこと。
スプーンでお粥を掬い、幽霊の口元まで持って行く。血の気の無い小さな唇が開く。彼女は食べるような素振りをしたが、お粥はスプーンの上にあるままだ。まあ、当然といえば当然か。しかし、彼女はもぐもぐと咀嚼して、嬉しそうに笑ってみせた。
「八十点くらいですかね。」
「初めて作ったにしては優秀じゃん。どこぞの幽霊より料理上手なんじゃないの?」
「む。そう言うなら食べてみたらいいですよ。」
言われた通り食べてみると、塩分が多い上に米も柔らかすぎて、到底八十点には及ばなさそうだった。結局、そのお粥は全部俺が食べた。
「他になにかしてほしいことは?」
「『フルーツバスケット』が観たいです。」
「フルーツバスケット?」
「はい。たしかサブスクにあったはずです。」
なんで幽霊がそんなことを知ってるんだ?ということは、突っ込まないでおいた。
幽霊はベッドから、俺は座椅子に座ってテレビ画面で「フルーツバスケット」とやらを一話から観た。気付いた時には日はとっぷりと暮れていて、「夕焼け小焼け」の調べが流れ始める。
「ほかに何か、してほしいことはあるか?」
「んー……そうですね……あ、みかんゼリーが食べたいです。」
「みかんゼリーね。」
たしかこの前買ったやつがまだあったはずだ。そう思い、冷蔵庫を開けると、それは忘れられたように冷蔵庫の片隅にひっそりと佇んでいた。
「ほら、ゼリー。」
そこで俺は幽霊がスプーンに触れないことを思い出し、ゼリーの蓋を開けてスプーンでみかんを掬い取ろうとしたが、幽霊がそれを止めた。
「大丈夫です。今なら、触れます。」
俺はみかんゼリーとスプーンを幽霊の白い手に手渡した。ほんのりと透けた、生気のない白い手に。
幽霊が片手にみかんゼリーを持ち、もう片方の手に持ったスプーンでゼリーを掬い取る。落とさないように慎重に、真剣な表情でスプーンを少しずつ口元へ運んでいく幽霊を、俺は固唾を呑んで見守った。
信じられないことに、幽霊はみかんゼリーを食べた。
……いや、もしかしたらそのように見えただけなのかもしれないが、スプーンの上で透明なかがやきを纏っていたオレンジ色のみかんは、たしかに幽霊の口の中へと消えていったのだ。
幽霊は笑った。「ありがとう。」とそう言って。
その言葉が扉の鍵であったかのように、それを言った瞬間、幽霊の姿はぱっと消えた。
容器の中のみかんゼリーが銀色のスプーンと共に落ち、掛布団の上にオレンジ色の海が広がった。
やれやれ。単純過ぎるのはどっちだ。
幽霊とみかんゼリー しろいなみ @swanboats
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