2-17
ナターシャはドレスの海の上で目覚めた。
いつもならモドが朝から港へ出かける足音で目覚めるのだが、今日はあまりにも静かすぎて、目覚めたことに気が付かなかったほどだ。
そうだ、自分は今ロザリーの家にいるのだった。
美しい彼女は声が出せないので、それでいつもより静かに感じたのだろう。そう思って横を見ると、ロザリーが寝ていた場所はもぬけの殻だった。
もう既に彼女がいた痕跡の熱も冷めている。
部屋の隅には絵が立て掛けられたままだ。
少し冷たく、静かすぎる空気の中で、ふとナターシャの胸の奥が騒いだ。
「姉ちゃん!」
突然舞い込んできたのは、エルトだ。とても慌てた様子で、息を切らしている。
ドレスまみれの部屋に飛び込み、ひとり座っているナターシャを見ると、しばらく呆然と立ちすくみ、やがてギロリとナターシャを睨む。部屋全体を見回して、彼女以外に誰もいないと分かると、がっくりと肩を落とした。
「ここにも……居ない……」
そう言ってエルトはへたりと座り込む。随分と疲れているようだ。
しかしこの様子、何かあったことに違いは無い。ナターシャの胸騒ぎがいっそう強くなる。
「ロザリーを探しているのか?」
そう尋ねると、エルトは脱力したまま言い返す。
「お前には関係ねえよ」
長いため息をついた後、エルトは膝に手をついて立ち上がると、ふらふらと出て行こうとする。ナターシャはその背中に向かってなお声をかけた。
「何があったんだ?教えてくれ」
エルトは振り向くこともしない。少し苛立ちの混じった声で、吐き捨てるように返す。
「関係ねえって。だいたい何でお前がここに居るんだよ?さっさと表の街に帰れよ」
「嫌だ」
「はあ?」
エルトがやっとナターシャを見る。その顔には苛立ちが見て取れるが、ナターシャは気にしない。
「自分はロザリーと友達になったんだ。友達が何か困っているなら、助けるものだろう」
エルトが舌打ちをする。
何故かは分からないが、エルトは表の街に住む人間を、誰彼構わず嫌っているらしい。彼に何があったのか、ナターシャに知る由は無いが、せめて自分の誠意を伝えたい。
「それに、エルト。お前も困っているなら自分は助ける。自分はフィオールの街で学んだんだ。皆で力を合わせれば、困ったことがあっても乗り越えられるって」
「……お前、イラつく」
エルトは心底軽蔑するかのようにナターシャを
海からの冷たい風が吹き込み、エルトの横を過ぎ去り、床に敷き詰められたドレスの裾をはためかせた。
「誰と誰が友達だって。
ナターシャは戸惑う。
誠実に向き合えば、きっと心を許してくれると思っていた。少しくらい仲良くなれたと思っていたのだが、それは思い上がりだったと気づく。
「何も知らないくせに、ロザリー姉にまとわりつくな。同情のつもりか?だったら
エルトの声変わり前の声が、甲高い悲鳴のようになって部屋に響く。
フィオールで受けたものが無償の愛であるなら、ここアンディールで待ち受けていたのは無条件の嫌悪だった。
目の前の少年はナターシャよりも幼いのに、何があればこれほどまでに他人に対して憎悪を抱けるのだろうか。
ナターシャには分からない。なのに、何故か胸の奥が苦しくなった。
胸の苦しみは、エルトの怒る声に合わせるように、ドクンドクンと強くなる。まるでエルトと感覚を共有しているかのようだ。
その苦しみが、内臓を燃やすかのように熱くなり、背骨を通って頭の中まで燃えるかのようだった。
「……」
突然黙り込んだナターシャに対し、エルトは怒りで上がった息を整えながら、その様子をじっと見つめた。
少し言いすぎただろうか。事情を知らなかったとはいえ、彼女は憲兵に捕まっていた自分を救ってくれた恩人だ。お礼は道案内だけで良いと言われ、その時は安上がりだと内心喜んだものだが……。
エルトはナターシャの容姿を観察する。もうさすがに、金袋を腰につけるのは辞めたようだ。
物珍しい桃色の髪を少し頂戴して、コレクターなんかに売れば多少の値がつくだろうか、なんて考えたりもしたが、そんな事をしたところで一時の快楽だ。すぐに奴隷売人がやって来て、ナターシャを丸ごと持って行ってしまうだろう。
ナターシャはエルト以上に何も持っていないような気がした。
エルトはこれまで盗みや物乞いを何度も働いていくうちに、他人の感情の機微や人となりを、何となく感じ取るようになった。
老いも若いも、金持ちも貧乏も、皆過去に囚われている。かつての華々しい栄光や、後悔してもしきれないほどの過ちを常に抱えている。
ナターシャには、それが一切感じられなかった。彼女の瞳には揺らぎがない。感情の起伏がない。それは意図的に出来るものではなく、きっと彼女には、本当に何も無いのだ。
だがたった今、彼女の瞳に暗い影が刺した気がした。
裏の街で生まれ育った弟妹たちと同じ、自分の何も無さへの苛立ちや諦めが混ざったような色。
ほんの一瞬の出来事で、見間違いかと思うほどだったが、エルトの凍り固まった心に僅かな『同情』を生むのには、充分な色だった。
「……ロザリー姉がお勤めから逃げた。あのハゲ猿が血眼になってロザリー姉を探してる。その前に……おいらが見つけないと……」
「逃げた?何故?」
「そんなのおいらが知るかよ。とにかく探さないと、あのハゲ何をするか分からねえ。今日のあいつはいつもと違って尋常じゃなかった」
「居場所に心当たりは?」
「そんな場所はもうとっくに回りきったよ。とにかく、街中隅から隅まで探すっきゃねえ。オイラはこっちの街をもうひと回りしてくる。お前は表の街を探せるか」
「わかった」
エルトはすぐに部屋を飛び出し、あっという間に走って行ってしまった。ナターシャも続いて部屋を出ると、痛くなるほどの陽光が目の奥を突き刺してきた。
思わず目を細める。なぜこうもギラギラと輝くのか。姿を隠したロザリーの居場所を暴こうとしているのか。
ナターシャには分からない。文字を少しだけ覚えても、人の心に触れたとしても、ナターシャには知らない事しかない。
そして、ロザリーの行き先も分からなかった。アンディールの街は広い。闇雲に探しても見つかる宛は少ないだろう。何せ、ナターシャはロザリーと昨夜話しただけなのだ。
「自分は、ロザリーのことを何も知らない……」
ならば、ロザリーを知る者に頼るしかない。
ナターシャは表の町へと続く通路を目指して走り出した。
裏の街から出てすぐのところに、モドの家がある。ナターシャが角を曲がると、家の前でモドが立っていた。勢い余ってブレーキが待ち合わないナターシャを、モドが両手を広げて抱きとめる。
「モド!」
ナターシャに怪我が無いことを確認し、モドは
「君ね、どこに行ってたのか知らないけど、帰らないならひと言残しといてくれないと心配するじゃないか」
「ロザリーが居なくなったんだ!」
ナターシャはモドの服の裾を掴み、上がる息を整えるために深呼吸をする。
普段ならこの程度の距離はなんてことは無いのに、どうも体が緊張しているようだ。そのせいで無駄な力が入り、いつもより疲れてしまっている。
「自分はロザリーの家で寝てたんだが、今朝から居ない。エルトも探してる。モド……ロザリーがとこに居るか、知らないか?」
返事がない。変に思ったナターシャがモドを見上げると、彼はまるで人を石にする魔法に掛かったかたのように硬直していた。
顔が真っ青で、息も忘れているようだ。
ナターシャの肩に置いた手が、僅かに震えており、それを抑えるようにギュッと力が込められている。
下から覗き込んでいるナターシャには、モドの瞳が見えた。
何かを見ることを拒むように伸ばした前髪の奥で揺れる瞳は、いつも優しくて、いつも少しだけ悲しそうだ。
今は強い恐怖に、酷く脅えているように見える。
「モド、大丈夫か?」
ナターシャの声掛けに、モドがやっと息を吹き返す。石になる魔法は解けたみたいだが、モドの顔色は青いままだった。
「う、うん。大丈夫……ええと、何でそんな事になっているんだい?」
「何でだっけ。あ、エルトが言っていた。ロザリーがお勤めから逃げたと」
「お勤め……」
モドが黙る。また息が止まっているのではないかと心配になったが、さっきとは違って思考しているようだ。モドなら、ロザリーの居場所が分かるかもしれない。
「エルトが言っていた。ハゲた猿がロザリーを見つける前に、自分たちが先に見つけなければいけないと。この街にハゲた猿なんて居たか?」
「……多分、ジュドーのことかな。てことは、亡命……?いや、あと少しで自分の身請け金が貯まると言っていたのに、そんな事するだろうか……」
ぶつぶつと呟くモドを、ナターシャは根気強くその場で待つ。
その時、大通りの方から大きな笑い声が聞こえてきた。表の街に戻ってきてから感じていたが、今日はやけに騒がしいと感じる。いつもお祭りのように騒がしい街ではあるが、今日は一段と華やかだ。
風に乗って、美味しそうな香りも漂ってくる。ナターシャのお腹がぐうと鳴った。こんな時でも、お腹は空く。
モドが、ハッと顔を上げる。
「……もしかして」
モドは大通りの方を見ている。
賑やかな声はどんどん増えているようだ。何かお祭りでもあるのだろうか。
「分かったかもしれない。彼女はきっと人混みの中にいる。タイムリミットは、恐らく日没……僕は南の方に向かって探すから、君は北に向かって探すんだ!」
「分かった!……北ってどっちだ?」
「ええと、海の反対側の方!」
モドは北側を指で差し、自分は反対方向へと駆け出した。ナターシャもそれに釣られて、糸を切ったように北側へと走り出す。
大通りは、普段の比ではないほどの人混みで溢れていた。ナターシャは何度も人の壁に弾かれ、その度によろけて尻もちをついた。
やはり、今日はきっとお祭りなのだ。道端では敷物を広げ、日用品やアクセサリー、少し怪しげな箱や壺を売っている人が多く見受けられる。
時間があれば立ち寄って、ゆっくりと眺めたいところだが、
ナターシャは戸惑う。こんなのは、まるで大海原の中でたったひとつの貝を探し当てるようなものだ。
せめて、貝が金色に光っていてくれたら、多少は見つけやすいだろうに、とナターシャはひとりごちた。
ガラスの破片‐The Legend of Spilit‐ 佐藤 いくら @satoko1925
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