第2話『月と太陽』

「――この儀式を止めたところでどうする。また私たちが訪ねるのか?」

「その方がいいわ! 私っ、十年前・・・のたった一度の機会を無駄にしてしまったこと、まだ後悔してるもの……」

「呑気だな。私たちは三人とも殺されかけたんだぞ」


 余程未練のあるらしいベルが今度こそと息巻く横で、リリーは決して頷かなかった。


 彼女の言う十年前……王子の私室を訪ねたリリーは当時まだ六歳だった。剣を振るうことはおろか、大人用のそれを持ち上げたことも無いほど幼く、そして非力だった。


 響く咆哮ほうこうが、月輪げつりんに浮かぶ鋭い爪が、剥き出した長い牙が――そのすべてが一瞬の隙に、扉を背に立ち尽くすリリーの目前に迫ったのを、彼女は今でも鮮明に覚えている。


 外へ泣きすがるには、あまりにも時間が無かった。間近に詰め寄った野獣王子の瞳が恐怖に支配されたリリーを捉える。腰が抜けて動けない彼女はただただ震え、立ち竦み、静かに己の死を悟った。


『――お嬢様っ!』


 身を預けていた扉が開き、後ろに倒れた彼女を支えたのは室外に控えていた執事のセヴァであった。


 急いで扉を閉めると、間一髪で鋭い爪が扉に突き刺さる音が聞こえた。このまま部屋に居たら、八つ裂きにされていたのは自分だった。リリーは力の籠るセヴァの腕の中で、呆然とそんなことを思った。


 あの満月の夜以降、王子とは公的な行事以外で顔を合わせていない。そしてその数少ない行事中でさえ、視線が交わることは決してなかった。


 元からそう頻繁に会うような仲ではなかったが、しかしリリーが父と共に王城へ出向く時は王子の方が徹底的に彼女を避けたし、彼がそう望むのならそれで構わないと、リリーもいつしか彼を避けるようになった。


 そして彼女は、圧倒的な力の前に逃亡という選択肢しか取れなかった屈辱を振り払うように剣を取り、すぐに己の才能を理解した。


 ――リリーは、開かれたバルコニーの奥に浮かぶ満月を見る。


 この舞踏会の騒ぎでは、塔に軟禁された王子の苦痛に満ちた咆哮も掻き消されてしまうことだろう。八年前に見た、彼の荒れた寝室を思い出す。さぞ苦しかろう。今もきっと、彼は行き場のない怒りと孤独の中で喘いでいるに違いない。


「あら……あなたもそんな顔ができるのね? てっきり剣ばかりが恋人なのかと……でも今のリリーが王太子殿下と面会したら、うっかり斬り付けてしまうんじゃないか心配だわ」

「私は……バラモアの剣は決して王族を傷つけない。だいたい、ソニアは人のことを言ってる場合か? フィンガル家の次期当主にしては派手好きが過ぎると思うが」

「あらイヤね、歴代の当主たちが地味すぎるだけよ。それに、真実は外見だけでは測れなくってよ?」

「言動も相応だ。お前の浮名を聞かない日はないぞ。この私でさえ、だ」


 華やかな世界を嫌い、権力にすり寄る人間さえ容赦なく斬り捨ててきたリリーでさえ、時たまソニアの浮名を耳にする。悪友ように愉快に互いを皮肉る二人の間へ、慌ててベルが仲裁に入り込む。


「もうっ、喧嘩してるの? どっちも悪いわよ、ソニアは確かにもう少し慎むべきだし、リリーは殿方のようなその口調を直すべきだわ! 二人共、お母様が見たらなんておっしゃるか……!」


 ベルは彼女の母が怒る光景を想像して、興奮していた顔をサーッと青くする。公爵家の小さなレディーたちは皆ベルの母に淑女としてのマナーを教え込まれたが、指導に一番乗り気だったのはソニアだった。彼女は女性の振る舞いを誰よりも早く身に着けた。今思えば、当時からそうした・・・・素養があったのかもしれない。


 ベルのお小言を聞き流しながら手持ち無沙汰に扇子の開閉を繰り返していたソニアは、遠くにいたとある男性と目が合って、小さく微笑んだ。左手に持っていた扇子を大きく開く。その笑みに惑わされた若い男は、ポッと頬を染めて、持っていた空のグラスを取り落としてしまった。


「ねえねえソニア……ソニア? ねえ、フィル王子のこと、陛下に頼んでみましょうよ」

「そうねぇ……リリーも行く?」

「私は人込みで頭が痛いので少し休む。セヴァ、ワインを」

「ちょっと、痛いってのにワインなんか飲むの!?」

「ベル、さっきから言葉が荒くってよ」


 ソニアは怒るベルを引っ張って、玉座へと歩みを進めた。リリーは幾つかある休憩室のうちの特に大きく豪華な部屋――昔から、この休憩室が三人のお気に入りだった――に入り柔らかいソファーに身を預ける。すぐにセヴァがやって来て、ワイングラスを渡した。


「よいのですか?」

「なにがだ」

「王太子殿下ですよ。あのお二人に遅れをとってしまうのでは?」

「私が頼むより、あの二人だけで行ったほうがいいだろう」

「ですが、いづれ再び訪れる再会のために、剣の腕を磨かれたのでは?」


 リリーは彼の質問には答えず、グラスの半分を一気に煽った。


「おお、流石の飲みっぷりでございます。ですがお水も飲みましょうね」

「私が剣技を磨いたのはあらゆる『いざという時』のためだ。……バラモア家の一員として、生まれた責務は果たさなければならない。……呪いが解ける保証もないのだし。だがもしも……もしも運命の人が現れたなら、それに越したことはないだろうな」



『――わっ、わたし……っくやしい……! なにも、できなかった! こ、こわかった……! フィルはあの時……ヒック……っか、悲し、かお、してたのに……た、っ助け、られなかった……!』

『……リリー……そうか。お前にはあの殿下が、そう見えたんだな。……よく聞きなさい。いざという時、殿下を守れるのはお前しかいないかもしれない。できるか? 彼を、彼の心を守ってやれるか?』

『ま、まも、る……ッヒク……。は、はい、お父様……、……国王へいかと、べ、ベラドンナに、ちかって……わた、わたし、絶対、フィル王子を守ります――』



 幼き日のつたない誓いが脳裏に過ぎる。彼女は湧き上がる感情を握り潰すように、幾度となく反芻はんすうしてきた家訓を思い出した。


『この国に君臨なされるタラント王家こそ我が太陽。なればバラモアは月となろう。王が空を舞う鷹なれば我は地を這う蛇を、王が清廉潔白なユリを愛でられたらば、我はベラドンナを手にするだろう』


 両家は常についにある。陽向ひなたと影、表と裏。対極から王家を支え続けたこの一族の根柢に流れるものは清く一途な騎士道であった。かつてからバラモア家は、王族を支える崇高すうこうな騎士を多く輩出はいしゅつする偉大な血筋なのだった。

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