第21話『王子の願い』

「がァッ、リリー……!!」


 王子が制止の声を上げた瞬間には既に、リリーは迷わず階下へ飛び込んでいた。


 屋根を駆けていく足音が、やけに耳に響く。


 駆けるリリーの強く引いた剣が、一息に魔女の胸に突き立てられようとしていた。同じくして魔女が強い呪いを放つ。途端、首にかけられていたペンダントが少し浮いて眩い光を放った。確かな手ごたえの中、白く光る視界の向こうにリリーが見たのは、重力に従って転がっていく魔女の姿だった。


 痛いほど鼓動するペンダントを握り締める。光が収まると、それは役目を終えて色が抜けてしまっていた。


 屋根の淵に倒れている魔女へ立ちはだかり、胸を押さえていた彼女の喉元へ剣を突き付ける。すぐ側の瓦が、ガラガラと音を立てて遠い地上へ滑り落ちていった。


「動くな。……お前にはまだ聞きたいことがある」


 リリーは鋭い眼差しでその姿を見下げた。剣先で、唇を噛み締める魔女のフードを持ち上げる。ぱさりと乾いた音を立ててフードが背中へ落ちる。しかしその下に隠れていた顔は、まったく見覚えのないものだった。


「……何者だ? どこの国から来た」

「ハッ、その傲慢な物言い……お前は本当にあの女に似ている……」

「質問に答えろ」


 リリーが剣先を魔女の顎に当てて上向かせると、彼女ははっきりと憎悪の目を向けた。醜悪な笑顔で歪んだ口元がもごもごと動いたのと、リリーが咄嗟にその体を後ろへ突き落したのはほぼ同時であった。


 落ちていく体と、空へ伸ばされた手から放たれた魔法の残滓がゆっくりと最期を告げる。魔女の袖の下、その細い腕に彫り込まれた紋章が、リリーの視界に強く焼き付いた。


「……はッ、……殿下……!」


 我に返った彼女は、その場に剣を落として呻く王子へ駆け寄った。毛むくじゃらの頬に手を添える。毒の苦しみで乱れていた呼吸は、あの魔女が死んだ証拠か少しずつ落ち着き始めている。


「殿下……フィリップ殿下……!」

「り、リリー……来て、くれた、……どう、して」


 彼女の頬に、大きな手が触れた。大きな指が、鋭い爪が後頭部に回る。彼女は大粒の涙を零し、王子の首元へ抱き着いた。


「殿下……っ、私は……、私、っ」

「いい、よ……なにも……言わないで……。君が来て、くれただけで……僕を、救ってくれただけで……充分……」

「そんなことっ……! 殿下、私はずっと、あなたのことを思っていたのに……!」


 リリーは泣き縋るように、王子の鼻先に唇を寄せた。大粒の涙が幾つも獣の体を濡らし、震える痩躯を宥めるようにそっと王子の手が背中へ回った。


 その瞬間、王子の心臓から魔力を含んだ激しい光が射す。目さえ開けていられないほどの強烈な光線が王子を包み、思わず下がったリリーが腕をかざした。光が徐々に弱まって再び目を開けた時、人に戻った王子の全身からは霧のような無数の黒い粒子が噴き出していた。


 ――呪いが全て消えてしまうと、気絶した王子の体がゆっくりと横へ倒れた。慌ててリリーが支える。マントで体を包み、どうやって彼を塔へ連れ戻そうかと考えあぐねていると、塔の窓から声が聞こえた。


「リリーお嬢様ぁ~~!! ただいま参りますよぉー!!」


 鎧を脱ぎ捨ててすっかり身軽になった近衛騎士が、ととと、と屋根を伝ってやって来る。そして王子を横抱きにした騎士と力なく立ち上がったリリーは、そのまま幽閉塔へ戻ったのだった。


***


 見張りの魔術師たちは、魔女の絶命と共に回復へ向かっていた。彼ら専門家によれば、術者の死後も残るような呪いというのは詠唱や下準備に相当の時間がかかるのだとか。速攻攻撃を受けた彼らは己の傷の浅さを自覚していて、薄れゆく意識の中で、リリーの足音を聞いて安堵したのだと語った。


「――リリー、大手柄ですね」


 寝室へ運び込まれた王子の側で座するリリーへ深く静かな呼びかけがあって、彼女は慌てて顔を上げた。


闖入者ちんにゅうしゃの遺体は先ほど城の者が確認しました。あなたには聞きたいことも沢山ありますが……まずはお礼を言わせて。フィリップを助けてくれて、本当にありがとう」


 王妃が僅かに声を詰まらせて頭を下げる。それから我が子を慈しむ面持ちで、王子の寝顔を眺めた。


「それから……ごめんなさい。国王があなたに言ったこと、私も聞きました。彼は……ロナウド王は、あなたを焚きつけることで、あなたに自覚して欲しかっただけなのです。本当にごめんなさい。今夜、あなたはもう来ないかもしれないと心配していたのですが……来てくれて本当に良かった……」


 安堵して俯く王妃に、リリーは一度王子の手を離して彼女と向き合った。


「国王陛下のお言葉は……どれも確信をついておりました。陛下がああ仰って下さらなければ、私は今もまだ、殿下への想いに気づかずにいたでしょう」

「そうね……フィリップの呪いが解けたということは、リリー。あなたも彼を愛してくれていたのね」


 真正面からそう告げられて、リリーは少し頬を染めた。しかし、はっきりと頷く。


「はい。……その、あの十年前の夜以来、殿下からは避けられていましたから……。ですから、遠くから見守ることを決めたのです。殿下は私を見ると、とても苦しそうにするので」

「ふふふ……それはねリリー、恋の苦しみというものなのです。ふふ、フィリップは幼き頃、あなたをあやめそうになったと知って、長いこと錯乱していたわ。自分の手で、よりにもよって大切なあなたを傷つけてしまったんだものね……。ねえリリー? あなたはフィリップへの想いに気づいた時、苦しくはならなかったかしら?」

「……なりました。殿下が死んでしまうと聞いて、私まで死んでしまいそうで……」

「愛する者を失う苦しみこそ恋の苦しみなのです。うふふ、二人の結婚式はいつにしようかしらね。ロナウドも喜ぶわ」


 気品高く微笑んだ王妃は、来た時よりも数段軽い足取りで寝室を後にした。だが、事態はそう簡単には終わらない。親子共々、呪いが解けてから四日経っても目を覚まさないのだ。国王は元々憔悴しょうすいしていたこともあって、事態は少し深刻である。王妃は公務以外の時間のすべてを使って献身的に国王を支えていた。


一方、穏やかな寝息を立てる王子の傍らにも、いつもリリーが控えていた。


 魔力を失ったペンダントを片手に、もう片方の手で王子の滑らかな手に触れる。絹のような肌を撫で、本当にもう人間の姿のままなのかと不思議な気持ちになる。静かな時間が流れていた。ふと、握っていた手に力が籠って、彼女は慌てて王子を覗き込む。


「……リリー……、……本当に、リリーなの……?」


 目覚めて一番に見たリリーの顔をそっと撫でる。その感触が夢ではないと分かると、王子は頬をバラ色に染めて美しく微笑んだ。

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