第19話『“一人で恋に落ちさせないで”』

 タラント王家の長男・フィリップは今、とある書物にどっぷりハマっていた。それは最近巷の婦女子らを騒がせている甘く切ないロマンス小説、『一人で恋に落ちさせないで』、通称『ひと恋』。


 幼い頃に将来を誓い合った姫と公爵の物語で、大雑把にいえば成長した姫が隣国の王子と政略結婚を決められてしまい、自身の恋心に蓋をするというなんとも甘く切ないお話なのである。


 誌的な言い回しが非常に多く、リリーを口説く参考になるかも、とベルに薦められたのをきっかけに、フィリップはまんまとファンになったのだった。


「あ~っ、リリーが『メル姫』みたいに、優しく愛を囁いてくれたらなぁっ!」

「……メル姫、とは?」

「ぎゃっ!?」


 寝室の扉を開けっ放しにして本を抱き締めていた王子は、その入り口に立っているリリーを見て猫のように跳び上がった。慌てて口を押さえても時すでに遅し、少し呆れた表情の彼女は、王子の手の中のそれを見つけ、ベルから薦められたのかと尋ねる。


「あっ、あぁ、うん! あでも、別にベル嬢と何かあるって訳じゃ、」

「分かっていますよ。……私も彼女から同じ本を勧められたのです。あらすじだけでお腹いっぱいで、まだあまり読んでいませんが」


 大体、近頃はそんな暇もなかった。今日だって、魔術師を遣わしてくれた礼と、礼拝堂に潜む魔術師の件で父と共に登城したのである。


 とはいえ、ある程度話が込み入ってくると部屋を追い出されてしまったので、王子を訪ねたという訳だった。


 バーナバスの件について、バラモア家からは無論謝礼を贈ったが、リリーも改めて礼を言いたかったのである。あの日は沢山の無礼を働いてしまったし、それに遠い昔のことの様に思える前回の満月の夜、王子と激しく剣を交わしたことも心配だった。


 彼女がそう諸々の要件を告げると、王子は美しい笑顔を浮かべて「どちらともまったく問題ない」と言い切った。


「寧ろ、もっと跡をつけてほしいよ!」

「え」

「だって、リリーから貰ったものは、なんだって嬉しいからね」

「あの、怪我は『貰った』とは言わないのでは?」


 室内へ手招かれ、豪華なソファーに腰を下ろした彼女は困惑ながらにそう告げた。扉はわざと開けっ放しにしている。万が一にも王子と密室で二人っきりになったなどと噂が立てば、彼の名誉にも関わるからだ。


「き、君にも是非読んでみてほしいよ。メル姫……メルフィール姫は、ちょっとリリーに似ているところがあると思うんだ」

「……私に?」

「ま、まず、彼女は魔法の名手だけど、リリーは剣に優れてるだろう? 突出した才能がある点では同じだよ。僕だって剣の訓練はしてるけど……リリーと手合わせをしたら、もしかしたら負けてしまうかもしれない。あとは……リリーは、ほら、意外と恥ずかしがり屋だったりするし……」

「はっ、恥ずかしがり屋!?」

「顔、赤くすること、結構多いよね?」


 そんな顔をさせているのは誰だ!? と、リリーは内心で叫んだ。


 彼女が「殿下があまりにも積極的なものですから」と不敬にならない程度に彼を責めると、彼は何故か、かえって表情を華やがせる。


「わっ、分かってる! そうだよね。僕だけがリリーをああさせられるんだ……リリーは僕以外の奴と、あ、あんなことしないんだって……そういうことだよね? あの顔は、僕だけに見せる顔なんだよね?」

「なにか、物凄い勢いで話が食い違っている気がしますが……まぁ話を本題に戻して、バーナバスの件で魔術師を手配してくださったと聞きました。本当にありがとうございます。……それに、あの時は酷く取り乱してしまいました。お見苦しい姿を……」


 深々と頭を下げた彼女に、王子は穏やかな声色で「顔を上げて」と告げた。


 声につられておずおずと顔を上げる。一身に降り注がれる視線には何一つの不満の棘は含まれず、王子はまるでそうするのが当たり前かのような態度で、綺麗に微笑んでいた。


 なんて懐の深いお方なのだろうと、リリーはそう思わずにいられなかった。


 そして温情に痛み入り、内心では益々、彼の幸福に貢献することを誓う。だが彼女の気配が決意によってぴりりと引き締まったのを感じた王子は、また何か難しい事を考えてるのだなと、その肩にそっと手を置いた。


「あまり深刻に考えすぎないで……僕はリリーを助けたかった。あんなに動揺して取り乱している君を見るのは、辛い。リリー。……ぼ、僕は、その、あ、あな、あ、あなたの優しさに包ま――」

「フィリップ王太子殿下、少しよろしいですかな?」


 突如割って入った男性の声に、王子は今度こそ天井に頭をぶつけるほどの勢いで跳び上がった。口から心臓が飛び出かけた。彼が口と心臓を押さえながら扉の方を見ると、怪訝な顔をしたロイドと国王が二人して立っていた。


「あっ、ははははい、どどどどうしたんでしょう?」


 先ほどの、『ひと恋』から引用しようとした台詞を聞かれただろうか――だが恥じらう王子を前にしてあくまで理性的な表情を崩さないロイドは、丁寧に頭を下げるだけで深くは触れなかった。


「お邪魔してしまったようで、大変申し訳ございません」

「いや、フィリップ。彼を責めるんじゃないぞ。私が直接行こうと言ったのだ。お前どうせ、また部屋で読み物にでも耽っていたのだろう」

「父上!? こ、この、リリーが見えないのですか! 僕は今彼女と語らって……」

「あぁすまんすまん、また仲が戻ったようで安心したよ。わはは、一時はどうなることかと思ったが」


 国王の哄笑こうしょうにいつもの豪胆さがないと、リリーはすぐに気が付いた。


 その妙な予感通り、国王は少々気まずそうに口を閉じては、視線を彷徨わせてリリーを見て、また少し視線を逸らすというのを数度繰り返す。そしてやがて、困ったように頭を掻いて、リリーに向き直った。


「すまなかった」

「……え? いえ、国王陛下、突然何を……」

「儂は、フィリップの呪いを解くことを焦り過ぎていた……幾ら仲が良かったとはいえ、まだあまりに幼い君を、野獣に変わってしまった我が子と同じ部屋に閉じ込めたこと……本当に後悔している」


 父の懺悔に、王子はギクリと肩を揺らした。


 幾度となく苛まれた罪悪感が再び胸を刺す。王子が俯いたのを横目に見たリリーは、自身の胸に手を当てて、ゆっくりと首を振った。


「国王陛下、私はあの夜に感謝しているのです。あの夜、殿下と二人きりにならなければ、今の私は居なかったでしょう。あの夜がなければ、獣になった殿下の孤独なお心にも気づけなかったと思います。……それに私は、あの夜があったからこそ決心がついたのです」

「決心?」

「はい。殿下の呪いを必ず解いてみせる、と」


 リリーの言葉に、王子は目を見開いて固まった。そして自分でも夜が明ければ忘れてしまっていた孤独を、彼女があの日既に悟っていたことに、胸が疼いた。


 王子は彼女の思いに胸を打たれて瞳を潤ませた。父は娘の成長を感じ取って深く頷いていた。しかし、国王だけは厳しい表情を緩めない。


「なにも、うちの息子に縛られることはないのだよ」


 予想だにしなかったその言葉に、ロイドもリリーも、そしても王子も驚きに目を見開く。


「……っ父上!?」


 咄嗟に抗議の声を上げた王子を一瞥して、国王は難しい顔のままリリーを見つめる。そこには王たる威厳も含まれていたが、なによりは一人の父としての厳しい眼差しがあった。


「君がもし三柱貴族としての義務や、フィリップへの情けだけでそうしているのなら、その必要はない」

「そんな……わ、私は……」

「君が提案してくれた鎮静薬の開発は、少しずつではあるが上手くいっていたよ。ありがとう」

「あ……え、いえ……」

「君に魔力はないが、しかし魔術という難しい学問を学び、呪文まで読み解けると聞いた」

「はい、いざという時……少しでも殿下の救いになれば、と」

「だが君のその頑なな態度には、フィリップに対する真の愛はないように見受けられる。君は、魔女の残した言葉を覚えているかね」


 それは、少し前にもセヴァに言われたことだ。彼女は勿論と頷く。


 だが続けて、不敬を承知で「それはあまりにも不確かです」と意見を述べた。


「殿下と私は、愛し合うにはあまりにも……正反対です。それに、今までは互いに顔さえも合わさなかったのです」


 リリーは慎重に言葉を選びながら、しかし真実を告げた。


「うむ、そう思う気持ちも分かる。だが魔女の残した言葉こそが全てなのだ。もうそれしか残っておらんのだよ……呪いは強力で、今も王子を蝕み続けている。赤ん坊の頃から王城の魔術師たちが研究を続けているが、それでも読み解けないいにしえの呪文を、魔力も持たない小娘が己の智慧ちえだけで読み解けると……本当にそう思うのかね?」


 その意見は尤もなだけにリリーの胸を深く突き刺した。普段は口論に強いリリーも、今回ばかりは返す言葉が見つからず黙り込む。


 国王は焦燥のあまり魔女の言葉に固着しているのだと、リリーのみならず、ベルやソニアもずっとそう思い込んでいた。だが実際は、それに固着する以外、本当に打つ手がなかったのだ。小娘が考えつくことなど、大人たちはもうとっくにやっているに決まってる。


 ショックを受けたリリーが、沈黙を保ったまま国王を見つめ返す。元々少しやつれていた様子の彼の目元はこの短時間で酷く落ち窪み、顔も青白くなっていた。


 だがリリーが体調を心配するより早く、国王が再び口を開く。


「本当にフィリップの呪いを解いてやりたいと思うなら……どうか、我が子を愛してやってはくれないか。一人の父として、あまりに出過ぎた願いだとは分かっている。だがもう時間が無いのだ。この子の命は……くっ」


 国王はすべてを言い切る前に、心臓を押さえて倒れ込んだ。


 傍に立っていたロイドがその体を支える。しゃがみ込んだ彼は唸りながら、何度も「すまない、すまない……」と譫言うわごとのように呟いていた。


「リリーっ、使用人を呼んで来い!」

「はいっ」

「僕は母上を呼んできます」


 慌てるバラモア家の面々と違い、王子は至って冷静だった。


 彼は王妃と共に、国王の運ばれた寝室へ急いだ。中には既に顔を青くしたリリーとロイド、そして深刻な面持ちの医者と魔術師たちが、広いベッドを囲んで立っている。


「父上の容体は?」

「今は一時安定しておりますが、いつまた呪いが作用するか……」


 それまで黙っていたロイドが、「ちょっと待て」と口を挟む。


「呪い? 陛下にも呪いがかかっているのか?」


 それに答えたのは、この事態においてもやはり落ち着いた態度を崩さぬ王妃であった。彼女はいつも通りのゆったりとした口調で、厳格に語る。


「ええ。決して外部に漏れぬよう、細心の注意を払ってはおりましたが……こうなってしまっては致し方ないでしょう。あなた方もどうか、このことは胸のうちに秘めておいてください。決して、口外なさらず」


 彼女の言葉に、二人は驚愕しながらも深く頷いた。


「本当のことを……伝えなければなりませんね。我が息子、フィリップにかけられた呪いには続きがあるのです。

『 王子の肉体が満つるまで、あるいは真の愛に救われるその時まで命は削られ続けるだろう。やがてその身が成熟した時、紅月こうげつの炎によってすべては燃え尽きて灰になる。憎き国王と、純真な魂を道連れに 』――と」


「い、命が削られる、って」

「肉体が満つる、とは……」

「成人のことを差しているそうですわ。そしてその年の紅月が、フィリップの……」

成人十七歳の年の紅月、って……あ、あと半年もないではないですか……!」


 ロイドの恐怖に満ち満ちた声を聞きながら、リリーは咄嗟に王子を見た。


 彼がまた絶望に身をやつしてしまうのではと思ってのことだが、しかし窺い見たスカイブルーの瞳は不気味なほどに凪いでいた。


 そこで彼女は、やっと理解した。


 王子はすべて知っていたのだ。このままでは近く、自分の命が尽きてしまうことを。


「な、なんで……何故、教えてくださらなかったのです」


 思わずよろよろと詰め寄った彼女を、王子は横目に見るだけで何も動かない。


「言ったら……君はどうしたの。僕を生かす為に、僕を好きになった? そんな虚しいもの、僕はいらない」


 リリーはまたしても言葉を失い、その場に立ち尽くした。


 彼らは知っていた。運命にあらがえずに打ちひしがれて、ただその時を待っていたのだ。そんな悲しいことが、あっていいのか。それとも、自分がもっと早くに王子と向き合っていれば、こんなことにはならなかったのだろうか。


 絶望に顔を引き攣らせたリリーを、王子は諦観していた。


 そしてただただ、事を急いて口を滑らせた父を恨んだ。


「リリー……もう良いんだ。この話を聞いた君はきっと、頑張って僕を愛そうとする。……分かるんだよ。でも無理に手に入れた愛でなんて呪いは解けないし、嫌だ。もういいんだ。君の心が手に入らないなら……それなら、生きる意味なんかないんだから」


 王子は力なく項垂れている彼女の手をとって何かを握らせた。


 そして一言、「どうか僕のことを忘れないで」と言って、静かに部屋を出て行った。


 彼の温もりが手から去って、リリーはその場に膝をついた。その手の中にあったのは、スカイブルーの石がはめ込まれたペンダントだった。

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