東京レムレス
絵之色
第一章 逢魔が時、開幕の時
第1話 必然の物語
暗く沈む思考の中で、いつも鮮明に目の前に映る光景に目を逸らせない。
黄金の角。中国風の衣装に身を包んだ女性が俺を見つめている。
顔はぼんやりとして、彼女の口元しか見えない。
『……
これは、誰の記憶だ。知らない、俺ではない、誰かの記憶。
綺麗な声がした。安堵する、胸をすくような美しい声だ。心の底から、永遠に聞き入っていたいと願ってしまうほど、煩わしい甲高さもない。
耳に馴染む女の声は、俺の思考を捕らえて離さない。
白い袖が赤く染まり、俺の手へと己の手を重ねる女性。
色白の肌が伝う赤い血がついた唇の口角はゆっくりと上がる。
『お前が来世でも私のことが好きだったら、また会おう――――××』
大切な、人だったはずだ。忘れてはいけない……そんな、誰か。
手を伸ばせば、届くだろうか。
触れられるだろうか……君の手を、もう一度握れるだろうか。
君の声をまた、この耳に聞こえるだろうか。
君の笑顔を、この目にすることができるか。
女の手を掴もうと手を伸ばす。
「――お前は、誰、だ」
俺が彼女に向けて告げてもぼんやりとした表情は口角だけを上げる。
――思い、出せない。
思考がゆっくりと闇に囚われていく。
瞳の瞼の裏の闇へと囚われてしまう。
囚われて、しまう。忘れてはいけない名前のはずなんだ。
だって、彼女は、俺にとってたった一人の、たった、一つだけの月明り。
――孤独な水面に浮かぶ、俺だけの光だったのだ。
「――う、――こ、――よう」
外気が冷ややかに俺の頬を撫でる。
「――よう、鋼陽! 聞いてんのかー?」
「……なんだ、
テーブルに肱を着いている赤髪の男が声をかけてくる。
「どうした? 急にお前は誰だ、とかぼそっと言ってたけど」
「……なんでもない」
……また、あの夢か。
鋼陽と呼ばれた青年、
目の前の黒いバンダナを付け、紺碧色のスカジャンがトレードマークな調子のいいことを言うこの男は、
小さい頃からの幼馴染であり悪友で髑髏の指輪を現在進行形で付けている中二病患者と他人に弄られたロック好きの男である。今は何をしているのかは知らない。
たまにこうやって会って、気まぐれに付き合っているだけだ。
普段から陽気で
「なんだよ、その反応はぁ。せっかく心配してやってんのに。学生時代のお前、ほぼボッチだったろうが」
「……興味ない」
「……お前、自分の見た目最大限に利用しろよぉ。ボッチだったけどモテてただろうがぁ」
祓波は鋼陽を雑に褒めながら、じっと見つめる。
ワックスで塗り固めたにしては少し緩めの黒髪のオールバック。童顔気味にも見えるが少し太眉で仏頂面なせいもあってか可愛さが微塵もない。
目蓋から開かれるアルビノとも受け取れる深紅の瞳。整った目鼻立ち。男性らしい筋肉のついたうらやま妬ましすぎる体躯を持った完璧ボディを持つ悪友。
外見にぴったり似合う革のコートや黒のインナーやズボンだの、スタイリストに選んでもらったとさえ感じさせるスタイルには他の男性陣からは嫉妬を禁じえないでいるだろう……というのが祓波が鋼陽に抱く外見のみの評価だ。
実際には鋼陽は時折叔父の永嗣に服を選んでもらっているにすぎないしそれも知っている幼馴染で、彼の性格がクール系俺様なのも熟知しいていた。
鋼陽はぼそっとドリンクをテーブルに置き悪友である祓波に目を伏せながら文句を言う。
「……お前は他人の目を気にし過ぎだろう」
「……視線が痛い悪友の意見は無視かよぉ」
ブスっ、と不貞腐れた声で言う悪友は、上目遣いで見上げてくる。
「しつこいぞエセスカジャン男」
「あ、ひっでー! 俺のお気に入りの一張羅馬鹿にすんなよなぁ。この継一郎様がクール俺様野郎と特別に遊んでやってるっていうのにその態度はなんだぁ? えぇ?」
人差し指を向けて抗議してくる悪友にストローを口から離し、ジトッとした目で鋼陽を睨む。
ほうっと斜め後ろ側の女性たちの鋼陽に見惚れて漏らす吐息は別に聞こえていないわけではないと彼は気づいてはいる。おそらく祓波は気づいてるから鬱陶しい、というアピールだとわかった上でサンドイッチを食べながらスルーする。
「お前が無理やり連れてこさせたんだろうが」
「っはっはー! そうとも言う。お前がいたら、女の子とのエンカウントも自然だろー?」
「……どうでもいい」
鋼陽は悪友である彼らしい理由付けで一緒に食事をしている。
俺たちがいるのは東京、渋谷だ。
商業エリアが多く、流行の発信地として現在も知られている区だ。とあるオープンテラスの一角で、テーブルで向かい合いお互い好きな物を注文して食事をしている。
自分はサンドイッチにアイスコーヒー。
祓波はチキンカツサンドにオレンジジュースである。レタスサンドを手に取って食していると、ビルの大型ビジョンに映し出された最近流行りのアイドルの新ドリンクの宣伝から、ニュースに切り替わり女性キャスターが映った。
『今日未明、新宿駅でレムレス出現。ライングリムの処刑人たちが対応し、一般人の救出に成功した模様です』
「またやってんだなぁ」
……祓波の不満は最もだ。
西暦2225年。数年前のある日謎の怪物、レムレスが現れた。
レムレスは人間にとって悪意たる存在だった。次々と人々を殺し、現在の人類の総人口が西暦1998年頃の60億人並みにだいぶ減少している。世界はレムレスを恐怖に震えあがる日々を過ごすことを余儀なくされ、苦痛な日々を過ごしていた。
画面には黒い制服を纏った人物たちが、レムレスと戦っている。
『危ないから、逃げてください!!』
一人の男性の声が聞こえる中、画面はレムレスとの戦闘の映像が一部流れる。
人類はレムレスに対抗するため害威討伐組織ライングリムを結成する。人々は彼ら、処刑人を境界線の死神という異名を与え人々の害意であるレムレスを殺すヒーローとも評し、尊敬される職業まで上り詰めた。
レムレスたちを屠っている様は、まるで神の使徒にも近しい印象だ……まぁ、一部からはカルト宗教と非難を浴びせる市民もいないわけではない。
画面に映った一人の一般人女性が、表情に喜色を浮かべていた。
「亡骸殺しに旦那の遺体が食われなくてよかったです」と言う言葉を軽く無視する。
いつもの日常だから、そこまで気にする必要もない。
俺は俺のいつも通りの日常を過ごすだけだ。
「なぁ、鋼陽もそうだろ?」
「……そうだな」
「っはは、お前のクールっぷりにはほっとするわ」
ケラケラと笑う継一郎はコーラを一口飲んでテーブルの上に置いた。
「で? 最近の大学生活はどうよ」
「勉学は励んでいるつもりだ」
「……彼女は? お前ならどんな美人も選り取り見取りだろ?」
本当にこいつは女好きだな、と鋼陽は脳内で溜息をつく。質問攻めを仕掛けて来ている理由は、わかりやすく女子との運命的な出会いのきっかけが欲しいのだろう。
例えば、恋愛脳な大学生なら合コン的なモノなども期待しているに違いない。
俺は口にしていたサンドイッチを飲み込んでからわざと質問で返す。
「……お前はどうなんだ」
「まぁー仕事が命っつーか? それよりも俺には使命があるってゆーかさぁ」
「いないんだな」
「俺は鋼陽の恋愛事情聞きてーの!! お前の大学、可愛い子いんだろ? 紹介してくれよぉ」
「知らん」
きっぱりと切り捨てる。俺はトマトサンドの隣のチーズサンドを頬張る。
祓波は人差し指を立てなんと思ったのか、何か閃いたのか、にんまりと笑う。
「お前大学でも一匹狼なわけぇ? あー、残念無念のがっかり賞だわぁ」
「……そうか、なら今日のお前の食事代は払わないで置いてやる」
「お恵みくだせぇ、お恵みくだせぇ鋼陽坊ちゃん! お願いしやすっ!」
「はっ、知ったことか」
鼻で笑い飛ばせば、継一郎はすぐに手を合わせ拝み始める。
「今月マジでピンチなの! 鋼陽様ぁ!!」
「拒否する」
「鋼陽頼むよぉ、お前の好きなホラー映画最近のおすすめ教えるからさぁ、このとーり!!」
ウソ泣きをしながら足に縋りつく勢いで頼む祓波に思い溜息を着く。
……こうなった祓波は中々に折れない。
だからといって、こっちが折れてやる理由がない……が。
ちらっと祓波のまだ食べていないチキンカツサンドが目に入る。
「……そっちのチキンカツサンド一つと交換で飲んでやる」
「ははっ、さっすが鋼陽様ぁ!」
「……まったく」
鋼陽は継一郎のチキンカツサンドと自分のトマトサンドを交換した。
「なぁ、鋼陽。最近変なこととかなかったか? 例えば、変な夢とか見たとかさ」
……夢、か。
そういえば最近、さっきぼーっとしていた時にも、龍の女性が現れたな。
覚えていないが、嫌な物だったのはわかる。
強いて言うなら、大人になるにつれ龍の女性の姿がはっきりとわかるようになってきている程度、でしかないが。
「特にこれといって何もないが」
「なら、いいんだ。気にしないでくれ」
……変な奴だ。
祓波がこういう時は、何かしらの意図があると幼馴染の感が告げていたが鋼陽は肉はやはり美味い、と内心思いながらもぐもぐとチキンカツサンドを食すのであった。
祓波とは食事を済ませた後すぐに別れ、一度祖父の実家のある岐阜県関市へと新幹線で向かった。
「鋼陽くーん、こっちだよー」
「……永嗣さん、お待たせしました」
駅から降り、指定していた場所に来れば壮年の男性が手を振って来る。
少し白髪交じりの黒髪は、幼少期よりもストレスでなったのかと内心口に出せないでいる。黒ぶちの眼鏡から覗く、琥珀色の瞳はふんわりと柔らかい。
彼は
「こんにちわ。鋼陽君。元気してた?」
「……はい、元気です」
彼の人当たりのいい笑みは、昔から少し苦手だったりする。嫌味があるわけでも下心がある大人だから、という意味でもない。
むしろ大学より前の頃、女子生徒に絡まれるくらいにはモテていて女子がハイエナに見えていた時期もあるがどうも祖父のような人間の方が周りに多いせいもあってか、下手に優しい人間との接し方というか、距離感と言うか上手く掴めないというが正しい。
「鋼陽くんは優しいよねぇ、大学生なのにこうやって休みの時にも会いに来てぇ」
「いえ……爺さんは」
「家にいると思うよ、まーた鍛冶仕事してるかも」
「……相変わらずですね」
「あはは、言ってはいるんだけどねぇ。昔から仕事一筋だから」
永嗣さんがお世辞を言うのに、素直に世辞を返さずいつも通りの祖父の行動に溜息を零した。爺さんは本当に仕事中毒者という言葉が似合う人だ。
……だからこそ、尊敬している。俺が将来目指す刀匠としても。
首に手を当てて苦い顔をする永嗣さんは緊張した時のいつもの癖だ。
この流れは、前の爺さんの検査の時と全く同じ流れだ。
「……止められなかったんですね」
「私の言うことは、昔っから聞いてくれなかったからねぇ」
苦笑する永嗣さんにはアンタがお人好し過ぎるからだろう、とは口にせず。
内心、こんなことを考えている相手でも変わらずに優しく接してくれる永嗣さんは、良い人な認識ではいるからひどい言葉は口にしない。
彼なりに爺さんに尽くしてくれるとわかっているからこそ、下手に追及したからと言って、そうそう爺さんの仕事人っぷりが変わるわけでもない。
「それじゃ、爺さんのとこ行こっか」
「はい」
永嗣さんの車に乗って祖父の屋敷へと走り出す。
鋼陽は窓を眺めながら今の関の風景を眺める。
一時期荒廃としていたが昔よりも鍛冶師の家が増えた気がする。レムレスが現れてから、ここは処刑人たちの武器を作る職人の町としても知られるようになった。
レムレス出現前からも日本一の刃物の街と呼ばれ、刃物製品出荷額全国1位なのは現在もキープしている……レムレスの存在で関の存在は盤石となりつつある。
祖父の腕も他の刀匠たちだけじゃなく、処刑人たちにも認知されていると思うと鼻が高くなるというものだ。
「……」
じっと、自分の手のひらを見る。
俺もいつか有名な刀匠になって、俺の刀を爺さんに見てもらうと固く約束した。
爺さんに助言をもらえる機会が無くなるのだから、結婚なんぞ考えてすらない。
……今はとにかく、祖父の容態を確認しないとな。ぎゅっと、拳を握って決意を再度固める鋼陽に運転席に座っている永嗣がバックミラー越しに声をかける。
「鋼陽くーん、そろそろだよー」
「はい」
木々に隠れ、爺さんが昔に立てた屋敷が徐々に見え始める。
永嗣さんが俺を門の前で降ろして、窓越しに手を振りながら去って行く。
軽く頭を下げ、俺は小さくなっていく永嗣さんの車を見つめる。時間になったら、永嗣さんに迎えに来てもらう予定なので問題ない。
踵を返し、爺さんが帰って来たであろう屋敷の中へと踏み出した。
現代の中でも屋敷と呼んで相違ない家屋だ。年季は入っている方だが住めないわけじゃない。処刑人という職業ができてから刀匠の存在価値はぐんと上がった。
爺さんの屋敷が広いのも、爺さんの刀には屋敷にできるほどの腕があっただけだ。
玄関を通り、靴を脱ぎ並べてから廊下へと進む。
そろそろ帰ってきている頃だろうから、居間にいるだろうか。
ガラッ、と扉を開ける。
「……あっちか」
居間の襖を開ければ、昔からあまり変わっておらず、爺さんが昔から愛用している竹刀がある。爺さんが刀鍛冶になるならばと、剣道部に入部することを許してくれて、研鑽に励んだあの日々も懐かしい。
誰もいないところを見るに、おそらく鍛冶場にいると推測する鋼陽は踵を返す。
木造の優麗な木目はひどく気持ちを落ち着かせてくれる。
「……渋谷の空気は、やはり慣れんな」
東京にある自宅も現代的な室内だからこそ、慣れた木の香りを嗅ぐとしたら香炉から漂う香で誤魔化すしかないから面倒なのでする気にすらなれない。リフォームするのも手だろうが、実家に戻った時の安堵感が減る気がして気が進まなかったりする。
軋む床の音に安堵を抱きながら、祖父がいるであろう鍛冶場へと足を進める。
邪魔にならないよう静かに戸を横に滑らせた。
爺さん……
刀の研磨される音は、幼少時から聞き慣れたものだ。
「……来たのか、鋼陽」
「久しぶり。爺さん」
白髪頭で昔よりも華奢な体にはなったが、元気そうだ。
威圧感が滲んだ声で言う爺さんに俺は戸に肱を着きながら尋ねる。
「今日の検査結果はどうだった?」
「……体ぁ壊すとでも思ってんのか」
「年を食ったんだ、心配しないわけないだろ。いつかアンタの仕事を受け継ぐためにも、長生きはしてほしいと願うのは当然だ」
「……ふん」
爺さんは刀を研磨をするの手を止め、こちらを振り向かずに鼻を鳴らす。
……仕事の邪魔をしたと怒ってるな、これは。
「……居間にいる」
「勝手にしろ」
居間に戻った鋼陽は、ちゃぶ台の下に置かれたビニール袋を見つける。
中身は薬と検査結果の紙が同封されていた。
紙を捲ると、数値はどれも問題はないようだった。鍛冶仕事が大好きな爺さんは健康面も意識して運動も欠かせずしていると、前回の検査の話の時に永嗣さんが言っていたはずだ。
学生の頃も健康を意識した食事メニューだったのは今でも覚えている。
「……よかった」
爺さんが今でも鍛冶の仕事をしているのに安堵する。
もう、大分年を取ったのに、仕事熱心でいてくれて、俺の将来の夢になってくれて――――本当に。
『……
頭に流れ込んでくる、誰かの声がする。
段々と、年が経つにつれこの声は龍の女性だと気づいた。
「……っ、誰、なんだ。お前は、」
頭に手をやり、フラッシュバックしてくる何かの記憶に困惑する。
――忘れるな、わすれるな、ワスレルナ。
自分の声が、何度も機械的に繰り返す。
何を忘れたらいけないんだ? そもそも俺はその女のことなんて知らない……だというのに、なんだ? この胸に広がる痛みは。
なぜ会ったこともない女の声が、こんなにも胸が苦しくさせる。
胸に襲い来る激痛に胸を抑える。吐き気にも似た激怒が、どうしようもなく激高してしまう自分の激情に理解ができないでいた。
鋼陽は検査結果の紙を床に落とし胸元を抑える。
『
一人の、龍の角と尾を生やした女性。俺に何かを告げているのか唇が動く。
一瞬だけ、彼女の花緑青の瞳が見えた気がした。
血に塗れた彼女の姿が、脳裏に焼き付いている。
汚らわしい下卑た笑い声が、聞こえた気がした。
顔面に手を当てていて気が付けば、唇から呪いの言葉が漏れ出る。
「……お前だけは絶対に、俺が殺す」
鋼陽の瞳が、赤く煌めく。
自分の発した言葉の意味など理解できずに。
ただ、ただ、ただ。
俺から全てを奪ったあの男を、殺さねばという殺意が胸を占めていた。
「……、俺は、何を言って」
「がぁああああああああああああああああ!!」
「爺さん!?」
俺は急いで鍛冶場へと駆け出した。
「爺さん! どうし、」
彼が鍛えた鉄の温度から発せられる空気と似て非なる物が、頬に飛んでくる。
守るための武器を作るはずの手がだらんと床に伏している。骨ばった体躯の心の臓からは、握りつぶされた果実が地べたに零れ落ちて行くように血が飛び散っていた。
「……爺さん!!」
青年は、一人叫んでいた。
目には生気がない常闇を映している。意味など、理解したくなどなくとも見せつけられる現状が目の前にある。彼を貪っていたそれは、黒き者。暗き者。
ぼやけた輪郭は靄のごとく、その口らしきものから伝うのはまごうことなき、俺の祖父の血だ。伸びる鉤爪のごとく鋭い指先で祖父を切りつけたのだろう。彼の遺体と飛び散った血液の上で心臓を食す咀嚼音が生々しい緊張感を掻き立てる。
額を抑え、憤怒を抑え、怪物を注視する。
『……ガガ、ガガ、ガ』
「……お前が、レムレスか」
時計の歯車の軋む音よりも、獰猛な獣の歯を立てる音に似て。
兇猛な音楽を声色よりも、機械が奏でる電子音の悲鳴に似て。
矛盾する怪物の鳴き声は聞いただけで気が狂いそうになる。
『ガガガ、ガガ、ガ、ガ』
亡霊のような見た目でありながらも、確かな存在感のある獣。
靄の形をした、人々を喰らう悪しき物。
それが、レムレス……我々人類を喰らい続ける悪しき獣の名だ。
怪物は心臓を食べえると、祖父の胸元へと噛り付く。
骨も残さず食い殺すのがこの怪物たちの特徴だ。最初に心臓を味わってから、殺した人物の体を食い始める……ニュースでいくらでも見てきた光景だ。
亡骸殺し、それがこいつらの俗称でもあり蔑称でもある。
文字通り人の亡骸を食い殺す、その特徴から名付けられ死体を埋葬することができない遺族の人々の憎悪からして、その別称は相応しいと言える。
『ガガ、ガ』
既にレムレスは爺さんの心臓を喰っている。もう助からない。
知っている、知っている。この場で逃げなければ自分は死ぬと。
己という個が、絶命すると――本当に? ここで警察に連絡をしてどうにかなるのを待っていたら、このまま祖父の死体は丸ごとコイツに喰われる。
『ガガガ、ガガ、ガ』
「……っ!!」
祖父が研ぎ終えた新たな祖父の名刀とは別に、爺さんが用心で置いてある物だ。
鋼陽は距離を測りながら近くの机に置かれた刀を手に取る。
まだ、名はない刀剣だろうが爺さんの遺体のためだと思えばくだらないことなど考えていられない。剣道部で鍛え上げた構えで刀の柄を強く握る。
すぅ、と息を吸い鋭利な眼光で敵を視認する。
「この!!」
処刑人たちは武器でレムレスたちを切り殺していた。
なら祖父が作った刀ならば、あるいは――!!
「――――はぁ!!」
小中高と剣道部で鍛え上げられた瞬発力で、レムレスの頭蓋に切りかかる。
下手な油断は命取り、少しの判断を間違えては俺の死に直結する。しかし、ここで戦わなければ恩師であり恩人である彼の亡骸が食われるのは許すことなどできない。
刃で確かにレムレスの首を落とせたが、やはり靄であるからかすぐに下半身に当たる靄の部位と同化する。
「ッチ、効かないか……!!」
処刑人のように上手くレムレスを倒せない。
何が理由だ? 処刑人たちはレムレスを簡単に殺せていたじゃないか。
何が足りない? 何が……!!
『ガガ、ガガガ』
「っ!!」
思考の邪魔をしたいのか、レムレスは伸ばした鉤爪で襲い掛かってきた。
俺は刀で振り払い、横に一度刀で払ってもレムレスは爺さんの遺体から離れない。
「ッチ!」
一度、レムレスと距離を取る。
なんとか躱し切ったが、祖父の遺体を回収できないっ!!
なぜレムレスはまだ爺さんの遺体から離れない? 何か理由があるのか?
一瞬の隙を狙いレムレスは秀蔵から離れ鋼陽の眼前へと近づく。
『ガガガガガガ!』
「っち!!」
レムレスの攻撃を刀で庇ったはずが、後ろから伸びている爪までは躱せなかった。
「っ、がは!!」
レムレスの指先が再度俺の心臓めがけて切り裂く。
吐血した血と胴を裂かれた血が床に飛び散る。
刀を握っていた手が力を無くし床に倒れ込んだ。
「……はぁ、……っ、ぐっ」
意識が薄らぐ。なんとか呼吸を整えようとしても体からの血の流血を止めれない。
即死ではないが、出血量が多い。止血したくても、医療道具など持って来ているはずもないし、動かせる体力がない……万事休す、とは、よく言ったものだ。
視界が眩み、祖父の遺体の方にレムレスは戻って行く。
「……はぁ、じい、さ……っ」
こんな幕切れなら、せめてアイツと会ってから終わりたかったものだ。
――アイツ? アイツって、誰を?
永嗣さんでも、祓波でもないなら、誰に会うって言うんだ?
――彼女に、もう一度。
頭に過る、その人物の名など、俺は知らない。
せめて、本当に走馬灯ではなく実際に、本当にその人が身近にいたなら。
もしかしたら、きっと爺さんの遺体だけは守れたかもしれないのに。
「……悪い爺さん。俺の刀、見せてやりたかった」
辞世の句にしては三流の雑兵に似たセリフしか、今の俺には思いつかなかった。
眩む瞼を視界に広がっている絶望を覆い隠すためにそっと下ろした。
ぼんやりと、鋼陽は頭に走る映像に身を使っていた。
猛々しく熱が籠る玉鋼は鍛錬で大槌で叩かれ火花が飛び交う。
冷却水で冷やされた刀身は波を打った波紋が現れる。暗く煌めく刀身に浮かび上がる白波は、まさに波紋。
その名のごとく例えるなら大海の波を映しこませたような尊き刀。最後に仕上げとして鍛冶研ぎが施され、反りが整っていく様はさらに刀身の美麗さに息が漏れる。
刀剣を鍛える、その過程全てに魅了されていた。
祖父の背中は、何よりも雄弁に己の人生を刀のために費やしている刀匠その物だ。その人生を、笑う者など同業の者たちはいないほど名の知れた人でもある。
「……おう、鋼陽。来てたのか」
「……はい」
強面で寡黙な祖父がしゃがれた声で問う。扉の横から見ていたのを気づかれ、祖父は額のタオルを外してから、ゆっくりとした足取りで向かって来る。
「刀は、好きか?」
「……はい、とても綺麗な物だと思います」
「綺麗に見えるってこたぁ、興味あんのか?」
「……まだ、未熟ですが勉強はしています」
自分は肖神家の次男と愛人の子。
ならばなおのこと、吸収できる知識は多い方に越したことはない。
「そうか……刀ってのはな、大切なもんを守るために鍛えられてんのが刀だ。それを忘れるなよ。人を無闇に切るのは外道のすることだ」
「はい」
言葉を選んでいる鋼陽に、秀蔵は眉を顰める。
「……お前、俺の孫だろうが」
「ですが、養子です」
「もう、俺ん家にいんだ。気にすることはねえ」
「しかし……」
頭の裏をガシガシと掻いて、唸る祖父は言いづらそうに首に手を当てる。
「他人行儀つうもんはどうも苦手でな。また仕事場に来てぇならそうしろ、いいな?」
「わかり……わかっ、た」
「おう」
鍛冶仕事で厚くなった掌でくしゃっと自分の頭を撫でる。不器用な手つきだ。
きっと、彼は善人なのだろう。いい人、と呼べる存在なのだろう。
なら、それを習って生きるのも悪くはないのだろう。
――そう、思っていた。
血が伝う、血が伝う、血が伝う。深紅の血が、視界に広がっている。
零れ、零れ、零れ、落ちていく。己の唇から、吐かれる息もやっと。
懐かしい記憶の中で目の前で祖父がだらんと鍛冶場の床で転がっている。
心臓を喰われ俺は何もできず彼のように地に伏している。
思い出せば思い出すほど爺さんに己が作った刀を見せれないの後悔しか抱けない。後悔だけしか、今、この胸にはない。
「……っ、爺さ、……っ!!」
助けたかった祖父は、もう声を発することもない。
口は痛みに絶叫したのか、開いたままだ。相当、苦しかったのだろう。
俺も、彼を殺した怪物に心臓を喰われ骨も残さず食われるのだろう。
青年は止めどなく溢れる血を唇から零し、胸元から裂かれた傷の痛みが悲鳴を上げる。意識が消えかけている中、知らない誰かの姿が、頭に過る。
『……
「……誰、だ」
本物の走馬灯が、俺の思考の中で蘇っていく。明確に見える、祖父たちや学校で過ごした日々が総出で俺を死へと送り出そうと見せ続ける。
徐々に遡り、俺はある記憶にぴくり、と指を揺らした。
『ダッハッハッハッハ! 無様だなぁ皇子様よぉ! たった一人の女も守れねえで、情けねぇ』
『うる、さい……っ』
大嫌いな、男の声がする。
黒のローブを被っていて顔は見えないが男なのはわかる。
乱暴にローブ男は、俺の頭を踏みつけている。
『お前らには特別に呪いを与えてやった……女には不老不死の呪いを、皇子様には短命転生の呪いだぁ、来世の祝いにはふさわしいだろぉ』
『……ふざけるなっ、彼女の呪いを解けっ』
『あー? 無理して動かねえほうがいいぜぇ? そっちの成龍の女を犯してほしいなら、なっ!!』
『ガハッ』
『――
ローブ男に思いっきり腹を蹴られる。
痛みなど、堪えられる。昔から、痛みには強い方なのだから。
濁流ばかりの俺の記憶の中に、まるで写真でも切り取られたように大切に大切に、大事に、繋ぎ止めようとする俺ではない俺の記憶だ。
『鋼陽!! 鋼陽!!』
『……せん、え……』
彼女は俺の元まで駆け寄って俺の名を叫ぶ。
苛ついた声で、ローブ男は舌打ちをする。
『あー、うっっっぜぇなぁ!!』
『ぐっ……!!』
ローブ男は長剣で思いっきり彼女の腹に突き刺した。
『
彼女は、俺の横に倒れた。
腹から血を流しながらおぼろげだった輪郭ははっきりと映し出される。鮮明に映り始めるその人物は、穏やかを含んだ
『……鋼陽、お前は一人じゃない。きっと、来世では色んな人々に恵まれる、そう期待して今は眠るんだ』
『……
『とっとと死にやがれ糞が!!』
『ガハッ!! グッ、う!!』
『貴様っ!! ……がっ!!』
ローブ男は彼女の体を幾度も刺したかと思うと、俺の腹を切り裂いた。血液が裂かれた部分から止めどなく流れ、俺と彼女のお互いの血が地面で混ざり合う。
『鋼陽……私は、大丈夫だ。また、来世のどこかで会える』
血に染まった白袖から延びる指先が俺の手を掴む。
『お前が来世でも私のことが好きだったら、また会おう――――私の、
『
そうだ、彼女の名は、
俺の心の水面に浮かぶ、月明り。
『――
一瞬、潰された心臓が動いた気がした。
「……は、ぁ」
死にかけの体が、どこか熱を再度呼び戻される。
……忘れられるわけ、ないだろう。
俺は彼女を、知っている。前世であろうと、俺の魂にはお前の存在は刻まれている。忘れられるわけがない、忘れられるはずなど、ないのだ。
彼女は、俺の魂が求めた、たった一人の俺の想い人。
たった一つだけ、俺の心を導いてくれる、俺だけの
俺の心に差し込んだ
――呼べ、私を。
その、声は確かに俺の意思を一瞬でも覚醒させるには十分だった。
『――呼べ、鋼陽!! 私の名を!!』
思考に直接訴えてくる彼女の声が俺の脳を支配した。
ぐっ、と拳に力を込める。
口内から止まらない血に咽ながらも、彼女の名を呼ぶ。
「……
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