描かない漫画家志望の異世界マンガ道

@towa_hazuki

プロローグ:色褪せた日

 深夜のファミリーレストランの空気は、いつも少しだけ湿っている。安っぽいコーヒーの香りと、ドリンクバーの機械が立てる低い唸り声で満ちていた。テーブルの隅に残ったドリンクの雫が、安っぽい木目調のシートに染みを作っていた。


 俺、一色トオル(いっしき とおる)は、その染みを、ただぼんやりと眺めていた。


「で、原稿は?」


 静寂を破ったのは、向かいに座るユウトだった。彼はノートパソコンの画面から目を離さずに、まるで今日の天気でも尋ねるかのように言った。その声には、何の感情も乗っていない。


 テーブルの上には、ミホとサキが持ち寄ったB5サイズの原稿用紙の束が、クリアファイルに入れられて置かれている。アナログで描かれたそれらは、彼女たちの努力の結晶だ。インクと修正液、スクリーントーン、そして締め切り前の焦燥感の匂いがした。


「……ごめん」


 俺が絞り出した声は、自分でも驚くほどか細かった。


「またなの…?」


 隣に座るミホの声が、震えていた。ユウトの無感情な声より、よほど心に突き刺さる。


「今日が入稿日なんだよ!? サキとの、最後の思い出だって、みんなで約束したのに…! あなたって人は、いつも、いつも…!」


 そうだ、いつもだ。


 完璧な一本の線が引けない。納得のいく構図が思い浮かばない。そんな、誰にも理解されない「こだわり」という名の言い訳を盾に、俺はいつだって、完成させることから逃げてきた。


 サキが、困ったように微笑むのが視界の端に見えた。彼女はもうすぐ、この街を離れる。その彼女が「最後に、四人で本を作りたい」と言い出したのが、この合同誌の始まりだった。


 俺たちの友情の、始まりと終わりを刻むはずの本。


 その最後のページを、俺はまたしても、白紙のまま差し出そうとしている。


「ミホ、落ち着いて…」


 サキがなだめようとするが、もう遅い。ミホの瞳からは、涙がこぼれていた。


「無理だよ、サキちゃん! だって、こいつは…!」


 そのミホの言葉を遮るように、ユウトが静かに、しかし氷のように冷たい声で言った。


「もう、いいよ」


 彼は、俺の目を見ずに、ノートパソコンの画面だけを見つめていた。


「俺たちも、もう限界だ。なあ、トオル。お前、漫画描くの、辞めたら?」


 それは、ナイフのように俺の胸に突き刺さった。


「もう、お前とは一緒にやれない。…出て行ってくれ」


 それは、宣告だった。


 どうやってその場を離れたのか、よく覚えていない。


 気づけば、俺は夜の住宅街を、幽霊のように彷徨っていた。右手に持っていたはずの、アイデアを詰め込んだスケッチブックは、もうない。確か、途中のゴミ捨て場に、投げ捨てた気がする。


 もう、漫画なんて描けない。


 いや、そもそも、俺は本当に漫画が好きだったのだろうか?


 ただ、逃げたかっただけなんじゃないか。社会に出ることから。現実と向き合うことから。


 不意に、周囲の音が消えた。


 さっきまで聞こえていた、車の走行音も、虫の声も、何もかも。まるで、分厚いガラス一枚を隔てた向こう側の世界のようだ。街灯が、心電図のように不規則なリズムで点滅を繰り返している。


 空気が重い。粘つくような視線を、どこかから感じた。


「……なんだ?」


 体が、自分の意志とは関係なく、ふらりと車道へ一歩踏み出した。


 まずい、と思った。でも、足が動かない。まるで、見えない糸で引かれているみたいに。


 地鳴りのような低い音が、アスファルトを震わせる。顔を上げた先、夜の闇が真っ白に塗り潰された。二つの太陽が、俺だけを睨みつけている。世界の裂け目から響くような、甲高い音が耳を劈いた。


 ――なんで俺、トラックに気づかなかったんだっけ?


 それが、一色トオルとしての、最後の記憶だった。

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