第16話

 健一が住み着いていたのは長崎市営空き家バンクに登録されている一棟、しかも無断だった。警察が踏み入ると、台所や浴室には生活感がなかった。ガラス張りの障子を開けると、どの警察官もむせた。表情の歪みぶりは、野良犬の臭いを拒否する飼い犬そのものだった。警察官の一人と少年の焦点が合うと、少年が息を呑んで身を丸めた。少年は下半身に何も履いていなかった。吉田玲央は生気を失っていた。

 便所のドアが半開きで、すき間から酸味臭が漂っていた。ドアを全開にすると、少女が和式便器に嘔吐していた。スカートの下は裸だった。搬送先の病院にて、中溝亜可梨の妊娠初期が確認された。健一は空き家への不法侵入だけでなく、児童監禁とわいせつ行為の現行犯としても逮捕された。翌日、二人の女性が留置所へ訪れた。

「兄さん、あんたって人は」

 妙子の肌に皺と陰りが増えていた。健一は妙子の実兄だが、妙子が成人する前に両親より勘当を受けていた。少女時代の妙子は実兄の奇行に悩み、放課後や休日を友人宅や図書館で過ごしていた。それを見かねた両親が妙子の安らぐ場所を作り上げた。そのおかげで妙子の異性に対する不安が少しずつ緩和し、優しい男性と結婚できるようになった。妙子の夫は孤児院の一人息子でありながらも、跡継ぎを作れない体だった。妙子はすべてを承知の上で、多くの孤児の母となった。夫亡き後はスタッフと協力して身寄りのない子どもたちを育てていた。そのうちの二人が吉田玲央と中溝亜可梨だった。

「あの子たちは何年も、何十年もトラウマと付きぅていかんばとですよ。あんた一人の欲望のせいで」

 亜可梨は婦人科にて人工妊娠中絶処置を施され、現在は玲央とともに精神科にて治療を受けている。

「自分は家族の幸せば奪われた。優しい両親、そして自分の唯一の王子さま、宇門を。キサマにはみんなの苦しみなんて理解できんやろうな。幼い男女が趣味な畜生には」

 宇留美の指先はコンクリート破片の摩擦により小さな傷が無数にできていた。左腕に通したブレスレットのビーズニ、三粒にヒビが入っていた。ビーズを繋ぐゴム紐の代わりに、極細の白いゴムを用いていた。

「宇門がキサマに殺されたことで、母は精神ば侵された。母と再婚したキサマは知っとるばってかけれど、母はもともと繊細な人やった。息子ば失う前に夫まで行方不明になったけん(から)、母は娘である自分のことまで分からんごとなった。母の最期ば今でも覚えとる。やせ細って、孤独が表情に出とって。そいでそれで自分も孤独になった。家族ば返せ!」

 宇留美は仕切り窓を両こぶしで叩いた。

「キサマがにっか! なしてなぜキサマがのこのこ生きて、好きなごとように謳歌しとるとか!」

 宇留美は歯茎をむき出しにして、健一を睨み下ろした。妙子と女性警官が抑えるも、宇留美の興奮は治まらなかった。健一は最初鼻で笑っていた。宇留美が罵声を浴びせ続けるうちに健一の眉間に皺が増えていった。健一が胸の苦しさを訴えると、宇留美は現実に引き戻された。

 今度は健一が狂気に侵される番となった。仕切り窓にもたれかかり、唾液が両口角から零れてきた。

「宇門……やりやが、た!」

 宇留美の目前で、健一は雄叫びを上げながらこと切れた。

「何が起こったと?」

 男性警官が健一の死亡を確認する中、宇留美と妙子は呆然とするばかりだった。

 死因は突発性心臓発作だった。

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