コーヒーが来るまで待って

 喫茶店「ゴーギャン」の前に立つ。

 高校生のときに、英太とたまたま最初に入ったのがこの店だった。それからずっと「いつもの」喫茶店として、この店で待ち合わせている。他の店をよく知らないが、ちゃんとしている感じがする。何よりコーヒーが美味しい。

 自分の部屋のドアを開けるほど気軽ではないが、他人の家の玄関を潜るよりは気楽に、ゴーギャンのドアを開ける。カランカランとドアベルが鳴り、コーヒーの香りが溢れ出て、一気に空間を満たす。ああ、ゴーギャンに来た。

 店内を見渡すが、英太はいない。

「いらっしゃいませ」

 マスターは誰かのためのコーヒーを淹れながら笑顔を向ける。マスターは初めて会ったときから全然変わらない。七三分け、蝶ネクタイ、エプロン。

「こんにちは」

「お好きな席にどうぞ」

 いつものやり取り。端の席に座った。あまり窓の外は見えないが、一番落ち着ける席だ。

 英太からの連絡にすぐに応じられるようにスマートフォンをテーブルの上に置いてから、メニューを見る。見ると言うより眺める。視線はおおまかにメニューの上にあるが、私の意識はそこになくて、英太に何があったのだろう、そう思いながらも、きっとなんとかなるから大丈夫、と打ち消すことを水ヨーヨーをパンパン打ち鳴らすように繰り返す。

 同じ姿勢で固まる――

「ご注文はお決まりですか?」

 声に顔を上げると、マスターだった。

 私は考えても決めてもいなかったが、注文するものは最初から決まっていた。

「ブレンドをお願いします」

「畏まりました。お砂糖とミルクは付けますか?」

「大丈夫です」

 マスターは軽く会釈をして去って行った。

 生まれて初めて喫茶店に入ったのは、パパと神社のお祭りに行った帰りだった。メニューに並ぶたくさんの種類のコーヒーに何を頼めばいいのか分からなくなっていた私に、パパが、ブレンドを頼もう、と言った。

「何で? パパはこのお店に来たことがあるの?」

「いや、ない。ないからこそブレンドなんだ」

 首を傾げる私にパパは自信満々の口元になる。

「ブレンドってのは、その店が何を美味しいと定義しているかを表明しているんだ」

「何で?」

「色々な豆を『一番美味しい』組み合わせで出すのがブレンドだからだよ。だから、その店がどう言う味を美味しいとしているかが如実に出るんだ。もしブレンドが美味しかったらその店にまた来ればいいし、そうじゃないならその店には二度と行かなければいい。その判定をするのにはブレンドを飲むのが一番なんだ」

「……私、ブレンド飲む」

 それ以来どの喫茶店に入っても私は最初はブレンドを頼むようになった。だが、私はどのブレンドも美味しいと思えなかった。コーヒーが苦手だと言った方が正しかった。それでも、いつか私の舌に合うブレンドと出会える可能性を捨てないで、色々な店でブレンドを頼み続けた。そして、英太と入ったゴーギャンで、コーヒーの美味しさを始めて知った。

 それは新しい道が荘厳な音楽と共に開くようだった。一度開くと、他のコーヒーもそれなりに美味しいと感じるようになった。だが、ゴーギャンのブレンドに勝る一杯はまだない。

 ドアベルの乾いた音がして振り向いたが、英太ではなかった。入って来た若い男性に、マスターは私達にするのと同じように、いらっしゃいませ、と声をかけた。

 音楽を聞きながら待とうか、いや、それではちゃんと備えることにならない。私は、何もしないで待つことに決めた。

 正面をぼうっと見詰め、手を膝の上で組む。

 英太に何があったのだろう。大変なことかも知れない。

 いや、きっと対処可能なものだから大丈夫だ。

 いや、大変なことかも知れない。

 同じことを行ったり来たりするだけで、何も進まない。同じところでぐるぐる回ることに意義があることもあるが、この水ヨーヨーには意味がない。やっぱり音楽を聴こう。鞄からイヤホンを取ろうとしたところで再びドアベルの音が鳴る。

 見れば、英太だ。顔が蝋人形と岩の中間みたいに固くなっていて、動きまでぎこちない。

 おおごとかも知れない。

 英太がブリキみたいに首を回して私を探す。私は手を挙げて振る。私を見付けた英太はちょっとだけほっとしたのか顔に柔らかみが差す。それでも動きはガチガチで、小さな怪獣のようだ。怪獣は私の向かいの席に座る。私をじっと見る。

 私も見返す。英太は大きく深呼吸をする。吐き切ってから、夏夜、と動きの悪い唇を動かす。

「来てくれて、ありがとう」

「普通のことだよ」

 私は微笑んで見せる。あまり上手じゃないことは分かっているが、そうしなくちゃいけないと思った。英太は自重に耐えかねてブラックホールになる寸前の星みたいな重さと、私が引っ張られるような引力を撒き散らしている。私も、英太も黙って、まるで別れ話をしているカップルのように視線だけは交差させて、テーブルの上も重たくする。本当は私は重くないのに、きっと外から見たら私も第三の重みに見えるのだろう。重みに負けて時間が遅くなって行く。それをスパンと断ち切るような声がかかる。

「ご注文はお決まりになりましたか?」

 反射的に見上げれば、マスターが立っていた。いつものように笑顔だ。英太が、メニューを見ようとして、やめる。

「ブレンドお願いします」

 畏まりました、と言ってマスターは下がった。私達は再び見合う。重さがすぐに戻って来る。英太が始めないのなら、私から始めるしかない。粘つくゲルに手を突っ込むような感覚がする。小さく息を吸って、勢いを付ける。

「で、どうしたの?」

 英太は相変わらず私の目を見ている。その眼の輪郭が歪んでいる。突つけば涙がすぐに搾り出されそう。腹の中にあるものを命懸けで口から吐き出すみたいに、英太は声を出す。「コーヒーが来るまで待って欲しい。途中で遮られたくないんだ」

 それもそうかも知れない。

「いいよ」

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