夢中海洋にて
「ここにも、こっちにも、ああもうっ!」
リネンは珍しく──本当に珍しくやけくそ気味に叫んだ。傍から見ればそこには幻想的な光景が広がっている。
クラゲ、クラゲ、クラゲ。半透明なそれらは空中を漂う。法則性もなく、ただ漂うままにふわふわと広がってはしぼみを繰り返している。列車内はもはや大きな走る水槽だった。照明を受けて艶やかに思えるほど光るクラゲたちはその優雅さとは裏腹に、しっかりとした戦術として、地雷として機能していた。
大陸横断鉄道は、一般的な夜行列車である。寝台車があり、食堂車があり、夜通しレールの上を進み続けるのだ。発車駅からはノンストップであり、朝に出発して夜を越え、また朝を迎えて夜が更けるころに到着する。そのため、列車内には他の客ももちろん存在するはずなのだが──
「……人、いない」
「ええ、誰もいませんね」
どこにもいない。乗務員すらどこにも。それがひたすらに不気味だった。もし斡旋組合の手がこの列車にまで既に及んでいるなら、終点も──
「ひとまず、進もう」
「……はい」
車両内、天然の水族館となったそこを二人は進む。
クラゲに触れれば痺れとともに感覚の喪失がもたらされる。数秒、たった数秒だがその数秒のロスが命取り、そう、このように──
「来るよ、アプリコット」
「ええ」
クラゲを縫って放たれた蹴りを捌き、二人はもう一歩車両の奥へ踏み出した。蹴りを放ったのは当然──
「──いつまでも逃げるおつもりですか?」
アンキ・サカダレである。彼は悠々とクラゲの間を進んでいた。手と足を器用に動かし、時に折り畳み、首を回し──慣れた動きでクラゲの海を前進してくる。
それは、正真正銘の結実した努力だ。歳にして三十二、年月にして十年ぶり。アンキ・サカダレの新たな努力はわずか半年で実った。すべては、ジェリコ・ノウマの傍に立つために。
◇
「あの人はっ! えと、凄くて、かっこよくて、憧れなんです」
どもりながらも饒舌に語る少女は、それまでアンキが見てきたジェリコ・ノウマとは別人に見えた。すぐに察する。これまで自分が見てきた彼女は本当の彼女ではなかったのだと。
「お、覚えが悪い私にも……一生懸命教えてくれて。ご飯も作ってくれて……」
ジェリコはずっと、ずっと語り続けた。アンキが間に言葉を挟む隙がないほどに。
「わ、わかってるんです! あの人がただ仕事をしていただけっていうのは!」
途中から語る言葉は悲鳴に近いものになった。恐らくは長く喋ることに慣れていないのだろう。喉の痛み、舌の疲れ、様々な不調が彼女の中を渦巻いているはずだ。それでも喋ることを辞めないのは、きっと──
「……はじめて、だったんです。一人で眠らせてくれた人」
「ッ──」
新人研修が行われた頃の斡旋組合は、リチャード・スモーフィン率いる改革の真っ只中。組合員の中には未だ前時代の裏社会的価値観を引きずるものも多く、今よりもずっとモラルや良識に欠けた人間が多かった。
年端の行かない少年少女をそんな組合員の元に送ることがなにを意味するのか、それをきっとリチャード・スモーフィンは理解していた。けれど、組合員すべてが塗り替わるのを待っている暇はなかったのだ。すべては、この世界で生きなければならない子供たちのために──
「……“背丈が高けりゃ下見れず”、か」
「えっ?」
「ジェリコ・ノウマさん。あなたは、その人のことを本当に尊敬なさっているんですね」
「は、はいっ! 名前も知りませんし、ずっと前のことですけど、でも、そ、それでも──」
「おっと、そこでストップです。このまま数時間、というのは勘弁願いたいですから」
そこでようやく、ジェリコ・ノウマは自身がしこたま喋っていることに気づいたらしい。平謝りする彼女をぼぅっと見つめ、アンキは──
「──会いたいですか?」
「ほ、本当にすみません! 喋りすぎで──?」
「もう一度会いたいですか?」
アンキ・サカダレにとって、他者とは積極的に関わるものではなかった。情が湧くだとか、絆を感じるだとか、好きになるだとか、そういったことは一切理解できなかったし、理解しようと思ったこともなかった。けれど、それでも、目の前のこの少女には。
「もう一度会いたいのなら、お手伝いしましょう」
これは情ではない。絆でもない。愛でも、ましてや恋慕でもない。自分が傍にいたいわけでも、自分が救いたいわけでもない。ただ、“幸せになってほしい”。それだけ。
◇
「──それだけ、なんですよ」
風切音は僅か、しかし目では捉えられぬほど速く。アンキ・サカダレの近接戦闘能力は、明らかに今まで味わってきたそれの域を外れていた。
アプリコットはそれを捌くことしかできない。いや、捌くことすらできず、一撃、二撃、狭い車両内でじりじりと続く攻防はアプリコットとリネンを確実に擦り減らしていく。
「……厄介」
そう呟いたのはリネン。彼女が持ち味とする広範囲、高威力の攻撃は実質封じられている。その理由は滞空する無数のクラゲだ。彼女の『放出』は強力だが、その扱いはどうやら四肢の延長となるようで、クラゲに触れればもれなくリネン自身にも痺れがもたらされる。繊細な攻撃は苦手なリネンにとってそれは実質的な行動不能を意味していた。
そうこうしているうちに、また手が、足が、リネンを守ろうと前線を張るアプリコットを襲う。なにもできない無力感と、このままでは後手を取り続けるという焦燥。
そんな焦燥とクラゲによる妨害がリズムを乱したのだろうか。唐突にアプリコットの身体がグラリと揺らいだ。
やわらかなカーペットが足を取り、くじけさせたのだ。リネンが咄嗟に取った行動は『放出』。即座に漆黒の茨が芽吹き、アプリコットの身体を受け止めるが──
「──ぐ」
その茨は、クラゲに触れてしまっていた。痺れは瞬く間にリネンの全身を包み込み、アプリコットを支えきれずに倒れこむ。カーペットは柔らかい。痛みはなかった。問題は──
「!」
痺れが。
クラゲは空中を泳ぐ。優雅に、何者にも阻まれず、何にも指図されず、自由に。
倒れこむアプリコットはそれに衝突し痺れ、受け身が取れないことで更に落ち、別のクラゲに──
「……一つ」
アンキ・サカダレはそんなクラゲの中で平然と立ちながら、告げた。
「私は、特定のなにかを信じるようなことはしません。ですが一つだけ、実在を信じている事柄ありましてね」
パチン、とアンキは指を鳴らすと一歩踏み出した。
「人を守護し、より良い結果をもたらすもの。いわゆる“守護神”とでも言うべき、個人における運の代弁者です」
「そんなものがっ……実在するとでも……」
痺れが取れ始めた身体を引きずるアプリコットの言葉に、アンキはなんでもないことのように返す。
「実在するかどうかはどうでもいいんですよ。事実として、私はそれを奪い、我がものとしている」
それが、
「それが、私の《
運の奪取。それだけができて、それ以外ができない。
「ここで旅を降りていただきましょう、アプリコット・ファニングス」
床に倒れ伏したアプリコットへ、アンキはそう言い放った。
「リネン・ユーフラテス、あなたは国外へ行くなり、潜伏するなり、どこへでも行ってください。ただし……一人だけで」
「そんなわけには……いかない」
倒れ伏しているのはリネンも同様だった。痺れは大方取れた、あとは──
「わたしは──二人でっ!」
跳ね上がるように立ち上がったリネンの腹へ、アンキの蹴りが直撃した。
「あなたの守護神も……いただきましょうか」
蹴られた衝撃のままにリネンは床へ再び転がった。続いて襲い来るのは謎の喪失感。なにかが盗られた、そんな感覚。
「あなたの選択肢は三つ。アプリコット・ファニングスを置いて去るか、アプリコット・ファニングスと共に残るか、私に殺されるか」
勢いのままに立ち上がればクラゲに触れてしまうし、クラゲを避けて立ち上がればその隙を狙ってアンキの攻撃をモロに喰らう。一度床に倒れ伏した時点で、立ち上がるのは不可能に近い。
「選んでください。今ここで」
“詰み”、その宣言。ハメ技とでも言うべき戦法の元に、リネンとアプリコットは膝をついた。立ち上がることは不可能、その試みすら折られる。だから、
「……ちょっと位置、ズレた」
「……はい?」
一瞬、なにを言われているかアンキは理解できなかった。リネンが僅かに動き、その手を天にかざしたところで──
なにかが起ころうとしていることに、気が付いた。
「《
それは、無慈悲な否定。自分にとっての
それはリネンのアドリブであり、独断。アプリコットであれば絶対に取らなかった選択肢。彼女の法則は、そのルール通りに彼女にとっての穢れを──《
「ん、な──!」
その驚愕を、その隙を、アプリコットは見逃さない。跳ね上がった身体は逆さのままに両手を床につき、両足の底でもってアンキの顎を蹴り上げた。蹴りの衝撃で天井近くまで浮き上がったアンキの身体に向けて、アプリコットは釘を構える。
が、その腕が突然ぐい、と引かれた。引かれるままに姿勢を下げたアプリコットの頭上を、“自由に”とは程遠い速度でクラゲが直線に通過していく。
「……来た」
腕を引いたのはリネン。彼女の視線はアンキとは真逆、すなわち進行方向に存在する車両の連結扉に向けられている。
「《
そこには、ジェリコ・ノウマが立っていた。彼女の左手にはシールの束が握られており、さらに広げられた右手は奇妙な高さを維持している。
「……わた、わたしは、ずっと考えてました」
ジェリコの左手に握られたシールからぽよん、とクラゲが一匹生まれ出でた。それはすぐにでも自由な海洋へ踏み出そうと遊泳を開始するが──その前に、ジェリコの右手を持って打ち出される。
バレーのレシーブとでも言えば伝わるだろうか。お世辞にも綺麗だとは言えないフォームでもって打ち出されるクラゲは弾丸などと比べれば遅いものの、直線状に二人へ向かってくる。
「あなたと私で、なにが違ったんだろうって──」
直線状に迫るクラゲを避け、ジェリコとの距離を詰めようとしたアプリコットの耳に、背後のアンキが立ち上がる音が届いた。前門のアンキ、そして後門のジェリコ。どちらかを潰してもその片方が襲い来るだろう。ならば、最適解は──
「──私が先に、彼と……出会ったのにっ!!」
一瞬、アプリコットとリネンの視線が交わり、そして離れる。アプリコットはジェリコへ、リネンはアンキへ、それぞれが駆けだしたのだ。
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