駿河血風録4
**
――どうした、一つ目小僧。
幼い七郎に声をかけたのは隻眼の伊達政宗公だった。
ニヤリと笑った政宗公の迫力に七郎は圧倒された。
そして政宗公からの一言が、七郎の魂を震わせた。
――お前も隻眼、わしも隻眼…… ならばできる。せめて世に一矢報いてみろ。
あるいは、それは政宗公の信念だったのかもしれない。
何にせよ、七郎は再び父との兵法修行を再開した。
七郎にとって政宗公は恩師の一人だ。
「うう……」
七郎は目覚めた。彼は布団に横たわっていた。
「七郎、良かった、良かったべ!」
七郎を看病していたおたまは、泣きながら七郎の胸に突っ伏した。
「い、い、い、いてえ……」
七郎はうめいた。だが痛みは生きている証だ。
彼は胸元を刀で斬られ、外道医に縫合してもらったが、丸一日以上意識を失っていた。
「おら、嫁ぎ先をなくしちまうとこだったべ……」
涙を拭いながら笑顔を浮かべるおたま。
平凡な村娘のはずだが、さりげなくとんでもない事を言っている。
「ん、なんだって?」
「――なんでもねえべ」
おたまは急に怖い顔になったので、七郎は震え上がった。
女心は海より深く、山より高い。
負傷している七郎は、助九郎から静養を命じられた。
「若に何かあったら一大事ですからな」
助九郎はそう言うが、七郎は隠密には向いていないという達観がある。
今、駿河に集まっている大名の名代だけでも数十人に及ぶ。
その名代が互いに密議を交わしているようでもある。
忠長公の使いが京の内裏へ向かったという報告もある。
幕府密偵である助九郎は、寝る間を惜しむほど忙しい。
(それにもまして)
助九郎の顔から感情も理性も消えた。
頭髪を剃り上げて僧のような相貌になった助九郎。
その顔に深い憂慮の陰がある。
――城下にて狼藉者を捕らえたそうだな。
大納言忠長は助九郎に言った。
――天晴な事だ…… ならば余に見せてみよ、無刀取りを。
忠長の言葉が助九郎の心に、重く沈みこむ。
無刀取りの技を見せよという事ではない、忠長から刀を奪って実践せよという事だ。
戦国の魔王と呼ばれた信長の血を引く忠長は、その容姿も似ているらしい。
兵法の名人たる助九郎すら震え上がる迫力がある。それゆえに御神君家康公から遠ざけられたとされる。
また、忠長は七郎の父の又右衛門、一刀流の小野忠明の両名から兵法指導を受けている。
殿様芸どころではない、忠長の剣術指南役たる助九郎すら危ういほどの腕前だ。
その忠長が無刀取りを見せろというのだ。真剣で打ちこんでくる忠長を相手に無刀取りを披露できるのか?
(これは如何なる天の配剤か)
助九郎も神妙な気分になる。
七郎が駿河に来たのは偶然か。
忠長が求めるのは、無刀取りの妙技を体感する事だ。
夜であった。
七郎は助九郎の屋敷の庭に出て、夜空の満月を見上げていた。
(今回は生き延びた、だが明日は?)
七郎は自問する。駿河という魔都は一日が長い。
今こうしている間にも、駿河城下で押し入り強盗があるかもしれない。
大名の名代らも密議をしているかもしれない。
七郎は自分が消し粒か、小さな虫にでもなってしまったような気がした。世間は広く、一人の人間は小さかった。
「やる!」
傷も癒えぬまま、七郎は庭木に組みつき技をしかける。
又右衛門の技の見様見真似だ。
左手で庭木に巻きつけた帯を握り、素早く身を沈めると共に回転――
右足を外に出して、庭木の根付近に添える。
左手一本での体落だ。
学んだ無刀取りの技術の中に、明日への光明が――
死中に活があるはずだ。
一寸の虫にも五分の魂という。
この五分とは五分五分の事だ。
七郎の魂は、忠長と五分と五分だ。
**
早朝、七郎は兵法修行を始めた。
忠長が無刀取りを見たがっていると助九郎から聞かされていた。
(ただ事ではない)
七郎は死を予感した。
無手にて刀を握った対手を制するがゆえに、無刀取りという。
それを証明しなければ忠長は納得すまい。
全身全霊どころか命を捨てて挑まねばならぬ。
正直、七郎ですらが逃げ出したい。
川太郎に噛まれた右腕、浪人に斬られた胸元、いずれもまだ治癒していない。
それを理由に話を引き延ばす事もできるだろうが、遅くなれば切腹を命じられるかもしれぬ。
(昔はああではなかったが)
七郎はぼんやりと考えた。彼が江戸城で家光の小姓を務めていた頃、何度か忠長を見ている。
恐ろしい方ではあった。信長の血を引く忠長は御神君家康公に遠ざけられていた。その容貌は信長に似ていたという。
しかし家光よりはマシかと思わなくもない。文武に秀でていた忠長は諸大名に人気があった。
大阪城を欲したのも、将軍の弟として西国大名ににらみを利かせたいと思ったからだ。
それが快く思われなかった事が忠長の悲劇の始まりかもしれぬ。
何にせよ、無刀取りを見せるとなれば命がけだ。
――対手の中心に踏みこむのだ。
父の又右衛門の教えが、七郎の脳裏にこだまする。
なるほど、対手の中心に踏みこまなければ、無刀取りの妙技も発揮できない。
――全ては、一刀に始まり、一刀に終わる。
師事した小野忠明の言葉も思い返された。
そう、刃を手にした勝負は一瞬で終わるのだ。
それは無刀取りも例外ではない。
七郎は呼吸を整えると、道着を巻きつけた庭木に向かって、ゆっくりと技をしかけた。
それは後世の柔道における背負投の型だった。
柔よく剛を制す、それを体現した豪快かつ華麗な技だ。
(全て捨てるのだ七郎)
己を叱咤しながら、七郎は打ちこみを繰り返した。
忠長と対面する時は死を覚悟せねばならぬ。
恐怖もある。忠長の兵法は助九郎以上という。
自分が一刀で斬られて果てるかもしれぬ。それだけならば、まだ良い。父や先師の名に泥を塗るわけにはいかない。
消え入りそうな重圧の中で、七郎は全てを捨てる覚悟を決めた。
「――は!」
七郎は疾風のごとく技をしかけた。
手にした帯が引き絞られ、庭木が微かにミシリと鳴る。
全てを捨てた先に明日があるのだ。
そして満足できる死があるに違いない。
助九郎の元に情報が集まる。
いくつかの外様大名が、忠長と密かに交流しているという。
(幕府への不満ゆえだな)
幕府は金山銀山を発見したら届け出よとしている。
せっかく発見した金山銀山の利益を、幕府は丸々横取りしようとしているのだ。
幕府密偵の中には、隠し金山銀山の発見のために命をかけ、そして散った者もいる。
それにしても外様大名が裏で手を取り合うとは。その先にあるのは反乱だ。
それを促す者もいるに違いない。
(おそらくは伊達政宗公か)
奥州の雄、伊達政宗公にとっては泰平の世という認識はない。今は徳川幕府の力が強いという認識だ。
強大なものを倒すには、どうすれば良いか?
力を合わせれば良いという事を政宗公は知っている。戦国の梟雄だ。今、全国に政宗公と同等に戦える大名がいようか。
政宗公が兵を起こせば、たちまちのうちに平和が崩れる。
日本各地で戦火が起きる。
この駿河もどうなるか?
悲しいが、今の駿河では千人の兵に攻めこまれても危うい。
駿河五十五万石、家臣となれば五千人ほどだろう。
だが、その五千人は江戸旗本の次男三男ばかりだ。
家にいても冷や飯食い、城勤めも兵法修行もせずに、日々を過ごしてきた者達だ。忠長に忠誠心があるわけでもない。命がけで働くとは思えない。
また、京の内裏へ大大名が接触しようとしているという。
政宗公や薩摩の島津だ。内裏も幕府に恨みがある。数年前に徳川の血を引く皇女が誕生している。幕府に不満があるのも当然だろう。
「となれば、どうなりますかな」
助九郎は七郎を前にして問答する。
「諸大名の動向、内裏の不満、そして忠長様……」
七郎は父の又右衛門から今の世の動向を聞かされている。
又右衛門は各大名に弟子を放っていた。彼らの多くは藩の剣術指南役として登用されている。
それゆえに藩の動向がわかる。藩内の政治状況もわかる。又右衛門の弟子達は剣術指南役であり密偵でもある。
そうして得た膨大な情報が江戸に集まり、七郎の父の又右衛門は動かずして世間を知っていた。
「内裏の詔勅を得て忠長様が幕府打倒の兵を挙げ…… それに呼応した伊達政宗公や薩摩も起つ。外様大名も起つ。全国で幕府打倒の兵が挙がる……」
考えたくもないが、日本中を巻きこんだ大乱になる。
下手をすれば新たな戦国時代になるだろう。
「しかし、まだ機は熟しておりますまい」
助九郎の見立てでは、そのような状況になるまで数年はかかるという事だった。
だが、のんびりしてはいられない。
「俺は何をなせば良いか」
「心配無用、若にはやってもらいたい事があります」
「なんだ」
「城下に蠢く浪人どもと接触していただきたい」
助九郎が言うには、浪人のふりをしている武士が多数いるという。
彼らも主命を帯びて駿河に入ってきていた。
「奴らの目的はわかりませぬが、無刀取りには興味を引かれている様子」
助九郎はニヤニヤしている。何か悪企みをしているのか。
「城下に噂を流しました。船宿にこもった浪人らを成敗したのは隻眼の七郎、その者は上泉信綱の無刀取りを習得していると」
「……ほう?」
「そして、隻眼の七郎は船宿の用心棒になったと…… それを聞いて、血の気の多い者が船宿を訪れていると、おたまからの報告です」
「な、なんだって……?」
七郎の顔から血の気が引いていた。引きつった笑みを浮かべる今の七郎には、奇妙な愛嬌があった。
「それにしても、おたま様々でありますよ。あの娘のおかげで、駿河に入ってきた大名が次々と判明しております」
「そ、そうか……」
「いい嫁を見つけましたな」
「いや、そういうつもりはないが……」
「さて、若も目立つようにしませんと。なにせ隻眼の七郎なのですから」
「……ならば政宗公にちなんで」
七郎は刀の鍔を取り外し、それで潰れた右目を隠す眼帯とした。
伊達政宗は助九郎にも幕府にも快い人物ではない。
だが七郎にとっては恩師の一人だ。
「どうだ、似合うか」
七郎は晴れ晴れとしている。独眼竜と呼ばれた政宗公に、一歩近づけた気がした。
今の七郎を見れば政宗公は豪快に笑ったかもしれぬ。
――なかなか似合うぞ、一つ目小僧。見事な独眼竜だ。
七郎は政宗公の声を聴いたような気がした。
数日後、船宿に浪人がやってきた。
「七郎殿と一手、手合わせ願いたい」
浪人は槍の遣い手だった。仕官先を探して旅をしているという。
真偽はわからないが、この浪人もまた武の深奥を探る者だ。
「いいだろう」
と、応じた七郎は船宿の外に出た。
両手に長短の木剣を握り、右目には眼帯をかけている。
「七郎〜……」
船宿の女中おたまが心配そうに見ている。彼女は僅かな期間で美しくなった。
それは七郎への秘めた思いと、玄蕃から寄せられる好意ゆえか。
それへ七郎は笑顔を向けた。心配するなという意味だ。
男は挑戦で、女は色恋で成長する。
全て思いが始まりである。
そして七郎の始まりの思いとは、父や師に近づきたいという憧れだ。
――無駄を全て省け。
父、又右衛門の言葉が脳裡に蘇る。
――ただ一刀にて敵を仕留めるが故に一刀流というのだ。
師事した小野忠明の言葉も思い返される。
言葉こそ違うが二人とも同じ事を言っていた。
勝機は一瞬、ただ一手で勝負はつくのだ。
「きぃえーい!」
浪人は叫んで槍を構えた。
全てを捨てた烈火の気迫だ。
す、と七郎は一歩前に出た。そして右手の木剣を浪人に突き出した。
浪人は七郎の木剣を槍で打ち払う。
次の瞬間には七郎の左手が動いた。
短い木剣の横薙ぎの一閃が、浪人の槍を打ち払った。
そして七郎は両手の木剣を手放し、浪人の懐へ踏みこんだ。
七郎の右足が地を這うようにして、浪人の左足を払った。
それで体勢を崩した浪人は横倒しになった。
僅か数秒で浪人は地に倒されて、呆気に取られて青空を見上げていた。
刹那の一手は、後世の柔道の技である小外刈だ。
「……まいった!」
起き上がった浪人は苦笑して敗北を認めた。
手合わせしながら双方、傷一つ負っていない。
これが先師、上泉信綱の目指した無刀取りの境地なのか。
「ふふっ」
七郎もまた笑う。おたまも安心して笑顔を見せた。
駿河の空は青く晴れ渡っている。〈了〉
無明を断つ MIROKU @MIROKU1912
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