鬼神の花嫁は砂糖漬け 〜虐げられた令嬢は、冷酷無慈悲と噂される軍人に溺愛されています〜
美雨音ハル
第一部
第一章 虐げられる日々
トモエと美慧①
「
──取り乱した母親の悲鳴が、広い座敷に響いた。
涙ながらに訴える母親の腕には、ぐったりとした幼児が抱えられている。
火傷を負ったせいで、高熱が出ているのだろう。
顔を含む右半身に巻かれた包帯からは、血とも体液とも言えぬものが滲んでいた。
「お金ならいくらでも出します! せめて命だけでも……」
父親がそう言って、頭を下げる。
幼い少女の両親は、まだうら若い華族の夫婦のようだった。
「……かわいそうに。痛かったでしょうね。私が来たからには、もう大丈夫ですわ」
混乱した場を沈めるような、凛とした声が座敷に落ちる。
美慧と呼ばれた少女は、大層美しい娘だった。
巫女装束を纏い、後ろに世話係をずらりと控えさせている姿は、まるでどこぞの姫君のようだ。
美慧はそっと娘に近づくと、傷口に両の手をかざした。
ぽう、と柔らかな光が指先から生まれる。光は少女を包み込むと、あっという間に怪我を癒してしまった。
少し火傷の後は残っているものの、命の危機は脱したことがわかる。
座敷で見守っていた人々の口から、感嘆の息が漏れた。
「さすが美慧様だ……!」
「やはり桜狐を継ぐにふさわしい実力をお持ちだ!」
見守っていた人々の中には、明らかに身分の高い壮年の男性もいる。
男性は、何かに納得したように、頷いていた。
穏やかな呼吸になった娘を見つめて涙を流していた両親は、何度も何度も礼を言って、美慧に頭を下げた。
「いいのです。これが力を持つ私の使命なのですから」
そう言って美慧は微笑んだ。
けれど部屋に奇妙な声が響いて、眉がぴくりと動く。
「……うっ!」
部屋の隅で、女中が一人、胸を押さえてうずくまっている。
「……わたくし付きの女中です。昔から食が細くて、貧血がひどいのよ」
美慧は女中に駆け寄ると、優しく声をかけた。
「部屋に戻りましょう? 少し休めば楽になるわ」
気遣うふりをしながら、美慧は女中の耳に唇を寄せた。
「ほんと役立たずね、トモエ
「っ」
美慧の顔が豹変した。
先程までの慈悲深い顔はどこへやら、目は釣り上がり、歯を忌々しげに噛み締めている。
「今日は力が安定しなかったわ。あの子、傷が治り切ってなかったもの。役立たずのあなたをなんのために連れてきたと思ってるの?」
「……ごめん、なさい」
女中──ではなく、この物語の主人公、美慧の従姉妹である桜狐トモエは、汗をぐっしょりと垂らしながら、喘ぐように謝った。
「役立たずのあなたでも、いればなぜか私の力が安定するの。それなのに今日はどういうつもり?」
あの子の傷が治り切らなかったのは、あなたのせいよ。
そう言われて、トモエは顔を歪めた。
「もういいわ。地下へ行って、反省して頂戴」
トモエは力なく頷いた。
「本当に無能で役立たずだこと」
忌々しげにそう呟くと、美慧は団欒の方へ戻っていった。
「この御恩は忘れません。すぐにお礼を準備いたします」
「いやいや、気持ちだけでいいのですよ。なあ、美慧?」
「もちろんですわ、お父様」
トモエは退室しながら、美慧や養父母たちが、ひっそりと金銭の話をするのを聞いていた。
(なんてことを)
トモエは暗い気持ちで俯いた。
いつもそうなのだ。
養父母を筆頭に、桜狐家は、神より授かったその力を、金儲けのために使用していた。
桜狐家は患者を選ぶ。
金を払える患者を。
本来なら、桜狐家を継ぐのはトモエのはずだった。だからトモエがとめなければいけないのだ。
けれど無能なトモエには、それをとめる術などないのだった。
*
──バツン。
暗闇に、何か弾力のあるものが、ぐーっと引き伸ばされ、それから限界が来て、引きちぎれてしまったような音が響いた。
バツン、バツン。
音がなるたび、何か赤いものが壁に飛び散っていた。
「……っぐ、」
桜狐家の地下にある薄暗い地下牢。
トモエは粗末な布団に横になって、その現象に耐えていた。
「っひ……!」
トモエの体中の皮膚がぼこぼこと奇妙に盛り上がって、それから風船のように爆ぜた。
──それは皮膚が伸びて、破裂している音だったのだ。
皮膚だけではない。把握できていないが、おそらくどこかの内臓にも同じような現象が起こっている。トモエは何度目かの吐血をした。
(もう、だめだ。この現象が心臓や脳にまで達したら……)
あと何回、満月の夜を迎えられるのだろう?
トモエは静かに、自分の死期について考えた。
*
桜狐家の開祖は、その昔、神の使いである狐を助けたことにより、神通力を授かったのだと言う。枯れた桜すら蘇らせるほどの治癒の神通力を授かった開祖は、代々受け継がれていく力を、人々のために使うようにと教えを説いた。
魔性が渦巻くこの国で、それらに対抗できる霊力を持つ人々は、貴重とされていた。
開祖の教えを忠実に守ってきた桜狐家は、その時代の帝に仕え、確かな功績をあげて、名家として存続してきた。
治癒の力を基本に、魔性を払う力や、自然に干渉する力など、その能力は多岐に渡ったが、いずれも桜狐家は、その力を帝と民のために使用してきたという。
しかし開国して数十年たった今、霊力を持って生まれてくる子どもは、古来よりもぐんと減った。
昔から続く退魔の名門でも、魔性に対抗できうるだけの強い力を持って生まれてくる子どもは少ないという。
桜狐家も例外ではなかった。
当代の本家の一人娘である桜狐トモエは、神通力を使えなかったのだ。
どうやら霊力自体はあるようだが、それを外に出す術が使用できない。要するに、才能がなかった。
それだけならまだいい。
病弱なトモエは、自身の中にある霊力をコントロールできず、このような満月の日には、体内で霊力を暴走させていた。霊力のおかげか、発作が収まれば体は何事もなかったかのように回復する。
しかし年齢を重ねるごとに、発作の症状は重くなり、おそらくこの数ヶ月のうちに、肉体の回復が追いつかなくなることをトモエは予感していた。
(でも、死んじゃったら、もう苦しまなくてすむの?)
激しい痛みにもがきながら、トモエは考えた。
(苦しみがなくなるなら、それでもいいのかもしれない……)
助けてとは言えなかった。
助からないと自分が一番知っているから。
トモエには、選ぶ道すらもないのだ。
あるのは、戻ることの許されない、黄泉への旅路のみ。
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