天ツ水の巫女

雪葉あをい

第一話 再会

 ずっと一緒にいてあげる。

 白夜びゃくやとそんな約束をしたのは、狭霧さぎりが六つになったばかりの頃だった。


 今まで病のひとつもしなかった母様が急に三日も寝込んでしまったからか、その晩の白夜は酷く不安そうで、一緒に寝ようと布団に潜り込むと少しも嫌がらずに素直に中に入れてくれた。

 いつもなら白夜に慰めてもらうのは、無鉄砲に飛び出しては傷をこしらえて泣く狭霧の方だった。幼い頃狭霧の家に引き取られた白夜は子供らしかぬ落ち着きを持っている子で、滅多に泣き言を言わなかった。だから狭霧が白夜を慰められる機会なんて普段は早々ない。今日こそは姉としての面目躍如を果たしてみせるぞ、と下心満載で同じ布団に潜り込んだのに、怖いんだ、とそっと打ち明けてくれた白夜の声はとても震えていて、狭霧の心は一瞬で萎んでしまった。


『いつかまた、一人に戻るんだと思うと怖いんだ』


 震える声がまた言う。

 狭霧にとって白夜は大事な幼馴染で、大事な弟だった。だから白夜が悲しそうな顔をすると、同じように悲しい。白夜をこんなに不安にさせている得体のしれない感情に沸々と怒りが込み上げて、狭霧は白夜の手をうんと強く握りしめた。


『一人になんてならないわ。だって狭霧がずっと一緒にいるんだもの』


 夜空に浮かぶ満月のような美しい金の瞳をした男の子が、息を呑んだように狭霧を見つめている。

 だけどすぐにその表情は暗くなる。


『でも……、狭霧は十になったら巫女のお務めに行ってしまうじゃないか』

『嘘なんてつかないわ』


 幼い狭霧は何も知らなかった。己の立場も、氏族の役割も。

 だけど一番大事なことだけはきちんと分かっていた。

 白夜は大事な狭霧の家族だ。


『狭霧がずっとずっとずーーーっと一緒にいてあげる』


 白夜は美しい子だった。

 だからこそ瞳に浮かぶ悲しみは一層際立って、龍神様に誓ってこの子を守るのだと決めて、狭霧はその手を一層強く握りしめる。


『だから大丈夫。絶対に一人になんてならないわ』


 繰り返して、母様がしてくれたようにあの子の濡れ羽のような黒い髪を手櫛で梳いた。

 何度も、何度も。


 あれはもう、十年も前のことだ。

 だけど狭霧はずっと忘れなかった。交わした約束を、忘れなかった。


 それなのに──。


「何者だ」


 研ぎ澄まされた誰何すいかの声が思い出したように狭霧の耳に届いた。 

 目の前にいる青年は、あの子と同じ、だけどあの頃とは決定的に違う冷たい金色の瞳を狭霧に向けていた。


 突きつけられた刀の切先は一寸のブレも無く、ピタリと狭霧の鼻先で静止している。


 白磁の石が敷き詰められた美しい路。当然だ。ここは龍帝の座す龍宮の一部なのだから。そんな神聖な場所にみっともなく膝をついて、呆然と十六歳の狭霧は目の前の青年を見上げていた。


 何事かと見ている舎人達の視線も、今目の前に刀を突きつけられていることも全てどうでも良かった。

 いつの間にかまとめていた黒髪が背中に落ちていることにも気付かなかった。狭霧の髪は広がりやすく、白夜のようなスッキリとした髪質が良かったとよく文句を言っていた。狭霧はそのままが似合うと思うけど、と言ってくれたのは間違いなく目の前の青年と同一人物のはずだ。


 どうして、という言葉が喉元まで込み上げる。

 ここまで来たのに。

 貴方に会いに来たのに。


 そう零れそうになるのを、冷たい月の瞳が遮る。


「龍士長」


 呆然とする狭霧に代わって、狭霧に付いていた<狼>の少年が狭霧を庇うように膝をついて口を開く。


「この者は御津地の巫女です。神事の為に今朝昇宮したばかりで、まだ右も左も分からぬのです。どうか寛大な処置を」


 隣に控えていた少年が跪いて頭を垂れる。神事という言葉を聞いて、一瞬青年の瞳に苦い色が過ぎった気がした。 

 だけどそれも一瞬だ。すぐに無表情に戻ると、青年は鼻先に突きつけられた刀を下ろした。流れるような動きでその刃を鞘に収めると、氷のような瞳が座り込んだ狭霧を見下ろす。


「私はお前のことなど知らぬ」


 短く吐き捨てる。


「二度と間違えるな」


 それが、幼い頃共に育った狭霧と白夜の、五年ぶりの再会だった。

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